161.佐渡における弟子の活動                  高橋俊隆

佐渡における弟子の活動

日蓮聖人の生活は流罪人でしたので食事の配給はわるく、阿佛房夫妻や国府入道夫妻などの給仕がささえであったと思われます。国府入道夫妻は阿佛房夫妻の勧めによって入信したといいます。国府というのは官庁の所在地で、このとうじは守護所をいいました。また、現在の真野の旧称で、国府入道は農業に従事していた名主階級の人物といいます。阿佛房の住まいの近くに住んでおり、子供がいなかったようです(『こう入道殿御返事』九一四頁)。阿佛房夫妻と同じように、夜中に給仕をされていたことを『国府尼御前御書』にのべています。 

「尼ごぜんならびに入道殿はかの国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、ある時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり」(一〇六三頁) 

日蓮聖人が佐渡流罪中であっても、鎌倉や房総、駿河の信徒が来島し供養を送っています。このような海を越えて送られてきた供養品や金銭が、日蓮聖人の命を支えていました。四月に滝王が妙一尼の使いとして佐渡に来て給仕したことが『妙一尼御返事』(七二二頁)と、五月二五日付け『日妙聖人御書』(六四一頁)にみることができます。下人を佐渡の日蓮聖人のもとにつかわして、かわりに給仕をさせていたのです。また、日蓮聖人に同行した弟子もいれかわって給仕しています。七月六日の『富木殿御返事』(七四三頁)にみられるように、富木氏のつかいとして佐渡にきた日頂上人は、器量を見込まれて半年以上も日蓮聖人に給仕しました。このように、信徒や弟子が渡島したことから、島内の緊迫感が弱まったという見方があります。この落ちついた時期に専念して『観心本尊抄』を執筆でき、そして、曼荼羅を図顕されたともいいます。『開目抄』の和文体にくらべ、『観心本尊抄』の漢文体はそのあらわれとします。(庵谷行亨著『日蓮聖人教学研究基礎研究』二七四頁)。

佐渡においても弟子や信徒がふえてきました。僧侶では流人僧の最蓮房が入信しました。最蓮房は京都の人で天台宗の学僧でしたが、ある事件に連座して配流になったといいます。『諸法実相鈔』・『最蓮房御返事』(六二〇頁)を与えたといいますが、その後については諸説があり不明なことが多い人物です。学乗房日静(一位阿闍梨)は一谷にいた真言宗の僧で、日蓮聖人が佐渡を去ったあとは佐渡の信徒を統率しました。とくに、一族の一谷入道の庇護を受け常につき添って信仰生活をささえ、阿佛房夫妻のためにも日蓮聖人の書状を読み聞かせ解説をしています。『一谷入道御書』九九六頁や『千日尼御前御返事』一五四六頁)に記載があります。

豊後房は佐渡から身延に呼んで教化していた嘱望の弟子で、『千日尼御前御返事』一七六五頁)に記載があります。山伏房丹波房『千日尼御前御返事』一七六五頁)・『佐渡御書』六一一頁、六一九頁・『弁殿尼御前御書』七五二頁)に記載があります。また、但馬阿闍梨日宣日頂門下となっています。これら学乗房・山伏房・丹波房・豊後房は佐渡で教化をうけており、のちに、指導的立場になっていきます。また、同行した日向上人、日興上人は島内を弘教して歩いています。このころから弟子の増加にともない、有力な信者を獲得して経済的基盤も整ってきたといえます。

日蓮聖人は布教の方法として弟子の育成に力をそそぎ、日蓮聖人の名代として弟子が各地における布教にあたっていました。また、信徒にはその弟子を日蓮聖人と同じく敬い、帰依するようにと指導されていました。その名代である弟子による佐渡と鎌倉の連絡網を整えていきます。七月二六日『弁殿御消息』六四九頁)によりますと、日昭・大進阿闍梨・三位の鎌倉の三人の弟子に、日蓮聖人は「秘書」一巻を送っています。この秘書が何かは不明です。内容は佐渡にいる弟子に、已前には教えていない法門を、書き記してもたせているので、ほかの誰よりも先に学ぶようにと指示し、これからは佐渡から鎌倉に向かう弟子に秘蔵の法門を伝授させるので、集合して互いに学ぶようにとのべています。そして、不信なことがあれば門弟の間で詮索しないで、日蓮聖人に通知して正しい教えを聞くようにと指示されています。佐渡にあっても、これらの信徒や弟子を経路として『開目抄』や『観心本尊抄』を筆頭に、各地の弟子信徒に送り届けられ、その内容の説明と教団の基盤を整えていたのです。

鎌倉の教団も蒙古の脅威がある世情のなかで、天台大師講などにおいて『開目抄』を拝読し、教学の論議をさかんに行なっていました。これらの論議は現場の法論や公場対決を視野に含むものでした。法論においては論法があるので、内部の者だけにしか知らせない秘蔵の法門があります。また、法門開示の時期を大事にしていましたので、これらの秘蔵とされる法門については、他者に知られないようにと注意をしていました。身延に入られてもつぎの指示がなされています。 

「他門にき(聞)かせ給フなよ。大事の事どもかき(書)て候なり」(『神国王御書』八九三頁) 

このように、佐渡の不穏な日常のなかにも、次第に増加した信徒の下人や弟子にまもられて、ついに、内奥に完成されていた大曼荼羅本尊図顕の準備が整ったといえましょう。