162.本尊・始顕本尊 高橋俊隆
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〇本尊(十界曼荼羅)について日蓮聖人が書き顕された本尊の形態に数種あります。それは、首題本尊・釈迦一尊・一尊四士・一塔両尊四士・大曼荼羅です。 ・首題本尊 中央に南無妙法蓮華経の七字を書かれた本尊のことをいいます。文応元年五月二八日の『唱法華題目抄』に教示され、文永九年頃まで図顕され授与されています。また、題目の左右に釈迦・多寶の二仏と、紙面の左右に不動・愛染の二王を種子で書き顕すことが多く、文永八年から九年ころにあたります。佐渡在島中にあっては、このような略式の本尊を信仰の対象として用いられたといいます。『本尊問答鈔』には「法華経の題目をもって本尊とすべし」(一五七三頁)とのべています。本書は清澄寺の浄顕房に宛てた書状であることから、題目を本尊とすることをもって、ただちに法本尊と断定することはできません。「一大秘法」(『富木入道殿御返事』五一六頁)としての妙法五字は、「「一念三千仏種」としての妙法五字と同じですから、これを本尊とすることは釈尊の因行果徳の二法が具足した題目とみなければなりません。『観心本尊抄』に、 「雖然所詮非一念三千仏種者有情成仏・木画二像之本尊有名無実也」(七一〇頁) と、木像や絵画像にあらわす本尊は、久遠実成の「寿量仏」・「本門寿量品の本尊」(『観心本尊抄』七一三頁)をあらわしています。また、信仰の対象として本化地涌の自覚を促すものです。授与された信徒は南無妙法蓮華経と唱題して成仏を願い、末法に法華経を弘通することを誓った証とされていたのです。「事行南無妙法蓮華経五字。並、本門本尊未広行之」(『観心本尊抄』七一九頁)と、別付属された地涌の認識をもって、この首題本尊を受容されていたと思います。 ・釈迦一尊 本門の釈尊を仏像として造り本尊とすることです。日蓮聖人は伊豆流罪のおりに感得した釈尊の立像を随身の本尊仏として終生おもちになっています。(『神国王御書』八九二頁。『妙法比丘尼御返事』一五六三頁)。また、一般の寺院に安置している本尊仏の仏像として、本門の釈尊像(寿量仏)を造立することをのべています。(『観心本尊抄』 「正像二千年之間小乗釈尊迦葉阿難為脇士。権大乗並涅槃・法華経迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士。此等仏造画正像未有寿量仏。来入末法始此仏像可令出現歟」(七一二頁)、『呵責謗法滅罪鈔』七八四頁、『宝軽法重事』一一八〇頁、『断簡二三一』二九三八頁)。そして、釈尊像を四条金吾や日眼女などの信徒に造立させています。(『四条金吾釈迦仏供養事』一一八二頁、『日眼女釈迦仏供養事』)。 ・一尊四士・一塔両尊四士 釈迦一尊を造立したときに、この釈尊像が本門寿量仏であることを顕すことが必要です。古来、小乗の釈尊は舎利弗と目連を脇士とし、大乗の釈尊を示すときは普賢菩薩と文殊菩薩が脇士となります。これと同じように法華経の本門の釈尊であることを顕すために、本化地涌の四菩薩を脇士として顕します。これが、一尊四士本尊です。一尊四士とは釈尊と四菩薩のことです。中山法華経寺が中山妙宗として日蓮宗から離脱したときに、この一尊四士を本尊とし中山妙宗の宗旨としました。『観心本尊抄』に「本門寿量品本尊並四大菩薩」(七一三頁)とあり、久遠実成の釈尊を顕し、虚空会の会座において末法弘通を付属した説相を顕します。富木氏の『常修院本尊聖教事』(二七二九頁)に、「釈迦立像並四菩薩」が厨子に安置されていたことが記録されています。このことから、日蓮聖人の在世から一尊四士の本尊が奉安されていたことがわかります。 一塔両尊四士は多寶塔の中の中央に南無妙法蓮華経の塔を建て、その塔の左右に釈迦・多寶の二仏が座り、その脇士として四菩薩を安置したものです。浅井円道先生は「本尊に釈迦・多宝二仏を勧請する先例としては、日本仏教では早く東大寺の戒坦院がある」として、鑑真和尚が戒場に三聚浄戒を表すために三重の壇を造り、その上に釈迦・多宝の二仏を安置して一乗の理智を冥合する相を表わしたと、東大寺沙門の凝然の『三国仏法伝通縁起巻下』の律宗の項をあげています。また、『大日経疏』には霊山浄土の儀相を法華曼荼羅の本尊とし、詳細は不明であるが塔中二仏を中尊として考えてもよいとのべています。その一塔両尊の威儀と形式はどのようなものかといいますと、多寶仏は頂上の肉髻は紺色をし眉間から毫光をはなち金色の身体をもちます。印契は両手ともに金剛拳を結び左手の人差し指伸べて右の手のなかに入れた智拳印となります。座し方は右足を左足の上にのせた半跏趺坐です。釈迦仏は頂上の肉髻は紺青色をし眉間の白毫は東方八万を照らし身体金色とします。印契は左手が拳、右手は薬指と小指をまげ中指と人差し指と親指は、まっすぐ伸ばして外に向けます。座し方は左足を右足の上にあげて結跏趺坐しています。釈迦・多寶ともに袈裟衣を着し、多寶仏は大蓮華に座し釈迦仏は白蓮華に座していると説かれています。日蓮宗の仏像にみられる拍手印は、この釈迦仏の印契に似ていると指摘されます。(「本尊論の展開」『中世法華仏教の展開』所収二六一頁)。 ここに、釈尊の眉間の白毫相は東方八万を照らしとあるのは、法華経の序品に、「爾時仏放眉間白毫相光。照東方万八千世界。靡不周徧。下至阿鼻地獄。上至阿迦尼吒天」(『開結』六〇頁)の放光瑞によります。しかし、宝塔品には、「我分身諸仏。在於十方世界。説法者。今於当集。大楽説白仏言。世尊。我等亦願。欲見世尊。分身諸仏。礼拝供養。爾時仏放白毫一光。即見東方。五百万億。那由佗。恒河沙等。国土諸仏。彼諸国土。皆以頗黎為地。宝樹宝衣。以為荘厳。無数千万億菩薩。充満其中。徧張宝幔。宝網羅上。彼国諸仏。以大妙音。而説諸法。及見無量千万億菩薩。徧満諸国。為衆説法。南西北方。四維上下。白毫相光。所照之処。亦復如是」(『開結』三二六頁)と、白毫相は十方に放光されています。十方とは東西南北と四維(東南・東北・西南・西北)、それに上下をいいます。この十方から集まった分身諸仏は、神力品において法華経の真実を広長舌を出して証明しています。日蓮聖人は十方諸仏を『十住毘婆沙論』第五の「宝月童子所聞経」の説によっているといいます。ちなみに華徳仏・広衆徳仏・三乗行仏・栴檀徳仏・善徳仏・相徳仏・宝施仏・明徳仏・無憂徳仏・無量明仏をいいます。 日蓮聖人は虚空会の塔中に二仏が並座されて法華経の真実を顕し、本門八品に出現した久遠の弟子である地涌の四菩薩を配することにより、滅後末法に法華経を弘通する「結要付属」の意義を顕したのです。一尊四士のばあいは立像の形態となり、一塔両尊四士のばあいは、二仏並座、四菩薩は立像と座像とがあります。中山法華経寺の日祐上人の『本尊聖教録』には本妙寺の所蔵として、「釈迦多寶二尊像、並四菩薩像」が書き加えられています。また、一尊四士像の四菩薩に如来像(藻原寺)と、菩薩像(弘法寺)の二種がみられます。一塔両尊のとき釈迦仏は説法印、多寶仏は禅定印を結ぶ像(大明寺)と、釈迦仏は禅定印、多寶仏が説法印を結ぶ像(本国寺)があります。説法印にも違う像がみられます。釈迦・多寶の二仏ともに合掌印を結ぶ像(藻原寺)があります。(『大日蓮展』二一二頁) ・大曼荼羅本尊 日蓮聖人があらわされた曼荼羅本尊は、虚空会の説相をそのまま表現されたものです。多宝仏は東方の宝浄世界から、釈尊のもとに来ましたので、宝塔の門は西に開かれているといいます。多宝塔は西向きに配置され多宝仏は東に座しているということになります。二仏並座になりますと釈尊は北側、多宝仏は南に座し、四天王が四方に配置されます。中央に南無妙法蓮華経の七字を大きく書き、左右に釈迦・多寶仏、地涌の四菩薩、十界の諸尊や人師を文字で書き顕しています。地獄界より仏界にいたる十界の互具を図顕していることから、十界曼荼羅(十界勧請の様式の本尊)ともいいます。これは、すべての衆生が妙法蓮華経の功徳力により成仏することをあらわし、法華経を受持する信行により具現することを示しています。中央の首題である南無妙法蓮華経の七字が、髭題目と呼ばれる書き方は光明をあらわしているといいます。浅井円道先生は、「中央に南無妙法蓮華経と大書され、而も紙面の全体に光明を放つが如く筆を走らせた姿は、南無妙法蓮華経の受持を条件として始めて十界が本因本果の果海に安住することができるという意味を表明したものであるに違いない」と、十界常住の浄土観に結びつくと思います。また、曼荼羅という名称は密教からの借用であるが、内容は聖人の独創であるとのべ、曼荼羅の中央に南無妙法蓮華経を安置した例はないが、曼荼羅に向かって南無妙法蓮華経と唱えた例はあるとのべています。(『本尊論の展開』『中世法華仏教の展開』所収二五八頁)。 曼荼羅と本尊を一体とすることは、文永一一年に身延山に入られ、その年の一二月に図顕された保田妙本寺に所蔵されている曼荼羅(御本尊一六)に、「大覚世尊御入滅後、経歴二千二百二十余年、雖尓月漢日三ヶ国之間、未有此大本尊、或知不弘之或不知之、我慈父以仏智隠留之為末代残之、後五百歳之時、上行菩薩出現於世、始弘宣之」とあるように、「未有此大本尊」と書かれていることからわかります。ただし、讃文に「大本尊」と書かれた曼荼羅はこの保田妙本寺の曼荼羅一幅だけです。この三枚継ぎの曼荼羅本尊は、通称を「万年救護御本尊」といいます。諸仏諸尊に南無を冠した総帰妙の揮毫となっています。 日蓮聖人はこの曼荼羅本尊を、釈尊の「我内証寿量品」(『観心本尊抄』七一五頁)より体得されました。日蓮聖人の観心を顕した本尊といえます。観心と本尊が一体となることが受持成仏となり、この曼荼羅のなかに私たちが参入することが「観心本尊」ということと思います。日蓮聖人が感得した独自の観心世界を表出したといわれる所以です。(『日蓮聖人遺文辞典』教学篇一一四七頁)。始顕本尊はこの十界勧請の曼荼羅本尊の形態を顕しています。また、本尊の様相をつぎのように分類できます。 首題本尊・大曼荼羅――題目を主体とした法本尊 釈迦一尊・一尊四士――釈尊を主体とした仏本尊 一塔両尊四士―――――虚空会の結要の法と付属の能所が表現された法仏双具の本尊 首題本尊・釈迦一尊―――――――――佐前にみられる 大曼荼羅・一尊四士・一塔両尊四士――在島・佐後にみられる 釈迦一尊・一尊四士――教相の本尊 首題・大曼荼羅――――観心の本尊 法仏不二・教観相即の立場からしますと、本尊の形態に相違はありますが優劣はありません。本尊を認めた時期や授与者、授与の目的が大切です。受持者の信仰生活に密着し生きている本尊となるからです。日蓮聖人の本尊は『観心本尊抄』を基準にして考察すべきことです。つぎの始顕本尊は大きな意義をもっています。 ○「始顕本尊」(『御本尊鑑』第三)七月八日『観心本尊抄』を執筆されてから七三日目の七月八日に、『観心本尊抄』の説示にもとづき、始めて曼荼羅本尊を書きあらわしました。このことは、『観心本尊抄』に四大菩薩が出現する前兆であると予言され、その四菩薩を代表する日蓮聖人が、一閻浮提第一の本尊の様相を示されていました。すなわち、 「其本尊為体(ていたらく) 本師娑婆上宝塔居空 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩 文殊弥勒等四菩薩眷属居末座 迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿。十方諸仏処大地上。表迹仏迹土故也。如是本尊在世五十余年無之。八年之間但限八品」(七一二頁) と、のべた本尊を日蓮聖人が図顕されたのです。自らを地涌の菩薩と認めての行為でした。日蓮聖人が心中に秘めた悟りの世界、本門八品の様相であり観心本尊の内証といえましょう。これを始めて顕されたのです。この本尊を、「佐渡始顕の大曼荼羅」・「始顕本尊」といいます。宗門においては「本尊図顕」の日としています。 真筆の曼荼羅は身延山に伝えられてきましたが、明治八年の火災で焼失しています。しかし、遠沾院日亨上人が模写した始顕本尊が残されていますので(『御本尊鑑』六頁)、この曼荼羅は縦が一七六.三㌢、幅が七九㌢と大幅で、絹地に墨筆で書かれたものであったことがわかります。ただし、真蹟の形式はほぼわかりますが、同じような配置で書かれていたかは、厳密ではないと思われます。遠沾院日亨上人が模写した保田妙本寺の本尊と、真蹟と見くらべますと題目の大きさや長さ、また、花押と讃文の位置などが大きく違っています。日亨上人は日蓮聖人が記載されたことを忠実に書きとどめることを優先され、配置までにこだわっていなかったことがわかります。また、翌年の六月に身延にて天目に授与した曼荼羅と類似しているといいます。同じ絹本に書かれており、寸法が天地一一,四㌢、幅が一,一㌢小さいだけです。現在は京都の妙満寺に伝えられています。(中尾尭文著『日蓮』一七三頁)。 この七月の始顕本尊の準備的・試作的図顕という意見のあるのが、文永九年六月一六日の「於佐渡国図之」(『御本尊集目録』第二)の一幅です(岡元錬城著『日蓮聖人』三七八頁)。さきにものべましたように、首題の南無妙法蓮華経の左右に釈迦・多寶の二仏が書き加えられ、不動・愛染の二王の梵字が大きく守護するように図示されています。右が不動明王、左が愛染明王です。渡邊宝陽先生は、日蓮聖人と真言宗との関わりを思わせるとして、建長六年の『不動愛染感見記』(一六頁)をあげ、曼荼羅の不動・愛染の種子が梵字によって示されたことの、関連が想起されるとのべています。(『日蓮仏教論』一四九頁)。 この略式の形態は『御本尊集目録』の第七までつづきます。第八の「一念三千御本尊」になりますと、菩薩(普賢・文殊・智積)・諸天善神(鬼子母尊神・十羅刹女)書き加えられていきます。『御本尊集目録』第九の「女人成仏御本尊」には、十方分身諸仏・四菩薩が書き加えられます。ただし、第九の本尊は七月九日いこうに書かれたといわれますので、始顕本尊は第八の「当知身土」の文を左右に書かれた、「一念三千御本尊」のつぎに図顕されたことになります。 浅井円道先生は、不動明王は密教の曼荼羅に登場するが、愛染明王は登場しないと指摘し、日蓮聖人の曼荼羅に愛染明王が勧請された端緒を建長六年六月二五日付けの『不動愛染感得記』(一六頁)を挙げています。ほかに、『祈祷鈔』(六八二頁)・『本尊問答抄』(一五八四頁)に、十五坦の秘法をのべるときに不動と共に如法愛染王法の名が見えるとし、愛染の役割は「不動愛染等降伏形」(『法華真言勝劣事』三〇九頁)の文や、「さいはい(幸)は愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし」(『経王殿御返事』七五〇頁頁)、また、「不動明王の剣索、愛染明王の弓箭」(『上野殿母尼御前御返事』一八一一頁)などをあげ、不動・愛染の認識についてのべています。。曼荼羅の左右に梵字(種字)で書かれた理由は、不動明王は「生死即涅槃」、愛染明王は「煩悩即菩提」を示しているといい、密教の明王部の本尊である両明王を開会して、法華経を守護する善神として統一しているといえましょう。 建治元年一一月とされる「胎蔵界金剛界大日等ノ御勧請」(『御本尊鑑』第一二、二四頁と、『御本尊集目録』第一八、二七頁)があります。ともに位置はかわりますが、金胎両界の大日如来を勧請されています。山川智応氏は金胎両界の大日如来と真言の大日如来を、このご本尊中に統一されたとのべています(『本門本尊論』二三〇頁)。浅井円道先生は大日如来の勧請について、多寶仏の脇士としての位置づけとし、これは、法華経のなかにおける大日如来の位置、また、相待妙の開顕を示したとのべています。また、金剛界大日如来・胎蔵界大日如来をそれぞれ釈迦仏・多宝仏の傍に勧請してあるのは、要するに不空の法華観智儀軌によって両界の大日如来を多宝仏の脇士と考え、以って教主釈尊の眷属たらしめようとされたものである、とのべています。(「本尊論の展開」『中世法華仏教の展開』所収二六五頁)。日蓮聖人は『法華取要抄』に、 「華厳経十方台上毘盧遮那 大日経・金剛頂経両界大日如来 宝塔品多宝如来左右脇士也。例如世王両臣。此多宝仏寿量品教主釈尊所従也」(八一二頁) と、両界の大日如来は宝塔品の多宝如来の左右の脇士であるとのべています。その多寶仏も寿量品の本仏からすれば所従であるという立場を明確にのべています。台密と純法華思想の相違を究明することは煩瑣な作業であったことでしょう。法華経の久遠実成の釈尊と大日如来の位置づけを、一目瞭然に示したのが以上の曼荼羅であったのです。密教曼荼羅に勧請しない諸尊は、善徳如来・十方分身諸仏・第六天魔王・転輪聖王・天台妙楽伝教等・天照八幡などです日蓮聖人の曼荼羅との相違をうかがえます。 一谷の住居で書かれた曼荼羅は絹地の上下に紙を張り付け簡単に表具を施して、御宝前の中央に吊るして下げるようにして掲げられたといいます。これは、妙満寺に伝わる曼荼羅に、吊るしたときの自重によってできる縦のシワがあることから推察しています(中尾尭著『日蓮聖人の法華曼荼羅』三二頁)。 この始顕本尊は、薬王品の「此経即為閻浮提人病之良薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死」の文を上部に書き、下部右下に文永八年九月一二日に御勘気を蒙り佐渡に流罪にあい、文永一〇年の七月八日にこの曼荼羅本尊を図したことを書かれています。自署を挟んで中央下部に「此法華経曼荼羅仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有也日蓮始顕之。如来現在猶多怨嫉況滅度後。法華弘通之故有留難事仏語不虚也」と書かれています。この大曼荼羅は釈尊が滅度されてから二千二百二十余年をへて、はじめて一閻浮提のなかにおいて、日蓮聖人が顕されたと書かれています。仏の未来記を地涌の菩薩が実現された、その証(法華経曼荼羅)であると受容できましょう。この讃文により「始顕本尊」(佐渡始顕大曼荼羅)と呼称して大切にしています。 勧請されている諸尊は、上段に釈迦・多寶の二仏。分身等諸仏・善徳等諸仏・四菩薩。中段に舎利弗等・文殊弥勒等・釈提桓因王等・大梵天王等・月天王等・大日天王等・天照太神・八幡大菩薩等・四輪王・阿修羅王等。下段に鬼子母尊神・十羅刹女(藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気の順に、大広目天王の方から大増長天王の方に、一列に書き込まれています)。その左右に伝教・天台大師・四方に四大天王。左右に不動・愛染明王。中央首題の下に日蓮聖人の名前と花押があり、讃文が上下に巡らされています。諸仏諸尊のすべてに南無の帰命号が冠されていることから、総帰命の本尊ともいいます(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻二五頁)。 『霊宝目録』(行学院日朝上人筆)には、第一箱の四幅の一幅とあり、『乾師目録』にも一函のなかに四幅ある一幅と記録され、「宗祖御一代最初本尊也」とあります。『亨師目録』には西土蔵宝物録の一番目の、第一長持ちに所蔵されていたと記録しています。この長持ちは黒塗りに井桁に橘の金紋がほどこされ、このなかに始顕本尊と祖書が格護されていました。また、遠沾院日亨上人は朱筆にて、「五二歳佐渡。此本尊宗祖発軫之大曼荼羅也」と揮毫されています。古来より始顕本尊として尊重されてきたことが分かります。 さて、この御本尊は西域・漢土・日本に伝えられた種々の曼荼羅を研究し尽くしたが、日蓮聖人が図顕された本尊はそのどれにも当てはまらないとのべています。 『新尼御前御返事』に、 「此の御本尊は天竺より漢土へ渡候しあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候し人人の中にもしるしをかせ給わず。西域等の書ども開見候へば、五天竺の諸国寺寺の本尊皆しるし尽て渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入賢者等のしるされて候寺寺の御本尊、皆かんがへ尽し、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申ふみより始て多の日記にのこりなく註して候へば、其寺寺の御本尊又かくれなし。其中に此本尊はあへてましまさず」(八六六頁) このように、インド・中国、そして、日本の諸国、主要な寺院に勧請されている本尊や、中国・日本を往来する先師の文献、そして、南都寺院に記された文献のをすべて調べあげ、さらに、「かんがえ尽くし」た曼荼羅であったことがうかがえます。しかし、日蓮聖人の本尊義に反論する者は、過去の聖僧たちが図顕しなかったのは、経論に根拠がないからであると非合理性を批判します。 「人疑云、経論になきか。なければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉、木像にもつくりたてまつらざるらめと[云云]。而ども経文は眼前なり。御不審の人人は経文の有無をこそ尋べけれ。前代につくりかかぬを難ぜんとをもうは僻案なり」(八六六頁) 日蓮聖人は過去の聖賢が書き顕さなかったという前例を否定され、日蓮聖人が示す本尊の根拠は経文にあるとのべます。つまり、過去に図顕されたことがない本尊であることを示されているのです。それを、虚空会の起顕竟を証拠とします。これは、さきにのべた本門八品の寿量品の内証と、別付属をあらわしたことに他なりません。すなわち、虚空会の儀相を根拠として 「今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給、世に出現せさせ給ても四十余年、其後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品属累に事極て候」(八六六頁) と、本仏釈尊が説き顕し、上行菩薩に結要付属された内証が、未曾有の曼荼羅といわれる本尊として図顕されたのです。あきらかに末法弘通を付属された仏使の自覚から発せられています。始顕本尊の大事なところは本化上行菩薩の立場から、図顕されたということです。ですから、日蓮聖人の本尊は本門八品の会座を重要とされるのです。 日蓮聖人が本尊を図顕された威儀を、浅井円道先生は日蓮聖人は名字即為本に徹した曼荼羅として、末代凡夫を一念三千の理によって無条件に肯定するよりも「本未有善」なりと否定し、また本有仏性を強調するよりも「釈尊因行果徳二法」を妙法五字に収納し、七字の修行を起したとき始めて末代の凡夫にもこの因果の功徳が自然に譲与されることになると本尊鈔に言われたことに鑑みてそれは明白であると、『観心本尊抄』の教えをを基盤として、その具現化されたものが始顕本尊の曼荼羅であるとのべています。(「本尊論の展開」『中世法華仏教の展開』所収二七五頁)。 前述しましたように、『観心本尊抄』は能観の題目(事具一念三千・本門の題目・受持成仏)。所観の本尊(本時の娑婆世界・末法の事行・本門の本尊の相貌)。本化上行弘通(下種の妙法五字・本化地涌の責務)を説いていました。始顕本尊はこの教えを基盤としていることを踏まえなければなりません。また、望月歓厚先生がのべているように、本門八品の儀相による本尊に、一尊四士と十界曼荼羅の相違も踏まえなければなりません。十界曼荼羅は十界輪円具足の本尊と言います。この二つの相違をのべるなかで、曼荼羅の意義について、諸仏集会の壇場・三秘総在の妙境・人法一体の中尊・三宝総具の本尊・霊山顕現の理想境・教証の曼荼羅とあげます。優陀那日輝上人がいう霊山顕現曼荼羅と位置づけます。(『日蓮教学の研究』一七一頁)。すなわち、この曼荼羅の様相(配置)を平易に示されたのが『日女御前御返事』です。 「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん。龍樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり。是全く日蓮が自作にあらず。多宝塔中大牟尼世尊・分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊也。されば首題の五字中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等坐を屈し、日天・月天・第六天の魔王・龍王・阿修羅、其外不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚癡の龍女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、加之、日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神、総じて大小神祇等体の神つらなる、其余の用の神豈もるべきや、宝塔品云接諸大衆皆在虚空云云。此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれず。此御本尊の中に住し給、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申也(一三七五頁) この始顕本尊は富木氏から届けられた五本の筆の内より、曼荼羅揮毫のために用意をさせたと思われる太い筆を使用されました。使用されたのは中央首題、不動愛染明王、四天王、そして、日蓮聖人の署名と花押です。佐渡妙宣寺の「女人成仏の御本尊」や沙門天目に授与された曼荼羅は、同じ太い筆を使用されたといいます。日蓮聖人は曼荼羅を揮毫されるために、とくに揃えていたといわれ、とうじは太い筆を日宋貿易により輸入品として取得するほど貴重で高価であったのです。この太筆を富木氏に依頼した理由は、曼荼羅本尊を図顕されるためのものであったといえるのです。また、日蓮聖人は諸尊の名号や、経文を書かれるときに、声を出されることを習いとしていたということから、口に唱えながら揮毫されたと推測されています。口唱や復唱をする習性は、師匠から弟子に教授していく基本の教育でした。(中尾尭文著『日蓮』一七四頁)。像師の著に『龍華本尊集』があり、ここに九〇幅ほどの曼荼羅が紹介されています。像師の特異な書式は、日蓮聖人の内意を受け継ぐといいます。これは、身延にて日蓮聖人に随身して曼荼羅の揮毫などの準備を手伝い、側で見ていたからといいます。像師が身延に日朗に連れられて上ったのが建治二年のことです。像師が正式に入門したのがこの年の二月一二日でした。それ以後、弘安五年まで随身されており、日蓮聖人が池上本門寺にて入寂されたときは一四歳になっています。そして、京都の弘通を託されたことは有名なことです。 法華経の文字は金色の仏身を現すというのが法華経の説示にあります。いわゆる、「文字即仏」で、日蓮聖人の曼荼羅の図顕においても一文字が即ち真仏であることが基盤になっています。また、即是道場・戒壇・娑婆即寂光の教えを含んでいるのです。また、曼荼羅の書式の違いは讃文と授与者、顕示の年月日により判断をすべきで、図顕の目的を考察しなければなりません。 ○御本尊「女人成仏御本尊」(九)阿仏房妙宣寺には「女人成仏御本尊」という一八紙の楮紙を継いで書かれた曼荼羅があります。紙幅は縦一五七㌢、横一〇三㌢と大幅の本尊です。この本尊が『御本尊集目録』第九の本尊です。寺伝によりますと日蓮聖人が佐渡を離れるときに千日尼に形見として書き与えられたといいます。顕示の年次は不明で『御書略註』には文永一〇年二月に千日尼に与えた曼荼羅本尊の始めとありますが、『御本尊集目録』(一三頁)には筆跡からみて、始顕本尊いごの文永一〇年七月八日以降の図顕とされます。『御本尊鑑』(二頁)には文永九年から一〇年ころの御試筆類と推測されています。 |
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