165.虚御教書 『法華行者値難事』 赦免の動き             高橋俊隆

◆第四節  流罪赦免

五三歳 文永一一年 一二七四年

○虚御教書

日蓮聖人の弟子たちは、佐渡や海を渡った越後などに法華経を弘通し、信徒を獲得していきました。浄土宗や禅宗、真言宗が勢力をもっている地域に進出し、弟子や信徒の行動が活発になるにつれ、これを阻止する動きがでてきます。もっとも危機感をいだいたのが、佐渡の念仏者や律宗の僧侶でした。『種々御振舞御書』に、

「又念仏者集りて僉議す。かうてあらんには、我等かつえしぬ(餓死)べし。いかにもして此法師を失はばや。既に国の者も大体つきぬ。いかんがせん。念仏者の長者唯阿弥陀仏・持斉の長者性諭房・良観が弟子道観等、鎌倉に走り登て武蔵守殿に申す。此御房島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入、或は河にながす。夜もひるも高き山に登て、日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。其音声一国に聞ふと申」(九七七頁)

と、日蓮聖人がこのまま佐渡にいたら寺僧も改宗してしまい、自分たちは餓死するだろうとまでいわせています。佐渡の念仏の長者である唯阿弥陀仏や、良観の弟子である道観たちは、守護代の本間重連が排撃をしないので、鎌倉の良観に報告をして武蔵殿(北条宣時)に対処を願いでました。その理由は佐渡の信徒が安置する阿弥陀仏の像を、火に入れて燃やしたり河にながすなどの悪行をしていること。熱心な念仏信徒からすれば許せないことでしょう。また、夜も昼も高い山に登り、日月に向かってて幕府をを呪咀していると讒言したのです。執権の時宗を呪うという理由は、日蓮聖人を処断する大義名分となりますので、北条宣時が独断で幕府の命令書である御教書を行使したのです。

本間重連が佐渡にいたのか依智にいたのかは不明ですが、文永九年二月に鎌倉に向かってからも存命し、佐渡の守護代の職にあったことは確認できます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一二九頁)。文永一〇年の六月に北条宣時から虚御教書が下され、日蓮聖人への接近を禁じています。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻四五四頁)。二度の虚御教書は本間重連が鎌倉に行き、佐渡に不在のおりに代わりの者が受け取り、道観などの手によって虚御教書のとおりに、迫害が実行されたといわれています。『種々御振舞御書』に、

「武蔵の前司殿、是をきき上へ申すまでもあるまじ。先ず国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろうに入れよと私の下知を下す。又下文下る。かくの如く三度。其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし。或は其の前をとをれりと云うてろうに入れ、或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ、或は妻子をとる」(九七八頁)

と、のべているように、日蓮聖人の信者になったら佐渡から追放するという通達です。日蓮聖人の住まいの前を通ったと言う理由で入牢させ、日蓮聖人に供養したと言う理由で在所から追放し、そして、下人の者は妻子を取り上げられ売買され、奴隷のように他所で労働させられた、という信徒に対しての迫害があったのです。阿仏房も迫害されています。『千日尼御前御返事』に、

「其の故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をと(取)られなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万億供養の女人なり」(一五四五頁)

と、いうように、在所を追放され、罰金を支払い、家屋を取り上げられる、という迫害をうけていたのです。

かねてから、日蓮聖人の教団の壊滅をはかっていた良観は、重ねて弾圧を加えようとします。その行動は北条宣時にはたらきかけて、文永一〇年一二月七日に三度目の虚御教書事件を起こしました。この御教書には日蓮聖人の門徒たちが悪行をしているので、それらにたいしては柄誡(へいかい。厳重に取り締まり罰する)をくわえ、それでも違犯するものは名前を注進するようにと下知をあたえていました。悪行とは日蓮聖人の弟子や信徒が法華経を広めている行為をいうもので、それほど日蓮聖人の教えが佐渡に広まったという証拠になります。しかし、御教書の意図するのは日蓮聖人を殺害してもよいという内容に受けとれます。良観と共謀した北条宣時は日蓮聖人を迫害する目的で三度も偽作の御教書を佐渡に送ったのです。日蓮聖人はその御教書を、後述する『法華行者値難事』に載せています。すなわち、

佐渡国流人僧日蓮引率弟子等 巧悪行之由有其聞所行之企甚以奇怪也。自今以後、於相随彼僧之輩者可令加炳誡。猶以令違犯者可被注進交名之由所候也。仍執達如件。  文永十年十二月七日  沙門  観恵 上   依智六郎左衛門尉殿」(七九八頁)

日蓮聖人はこの虚御教書について、「私の下知」「私の御教書」「虚御教書」といっています。本間重連のもとには、日蓮聖人は罪人ではあるが粗末に扱ってはいけない、殺害されることのないようにとの連絡が入っていましたので、これらの虚御教書には充分に注意をしていました。しかし、それでも、日蓮聖人を殺害する計画をねり、権力者の権威をもって断行していたことがわかります。『千日尼御前御返事』に、

「而に日蓮佐渡国へながされたりしかば彼国の守護等は国主の御計に随て日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計と申つかわし、極楽寺の良観等は武蔵前司殿の私御教書を申て、弟子に持せて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計はさてをきぬ、地頭々々等念仏者々々々等日蓮が庵室に昼夜に立そいてかよ(通)う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡国に生かわりて有か(一五四四頁)

と、日蓮聖人が佐渡に入り、塚原の三昧堂にいたときから、私御教書を振りかざして迫害していたことをのべています。また、『窪尼御前御返事』に、弘安三年に熱原地方における日興上人の教化により、四十九院や他宗徒は時宗の御教書と偽って、教団を排撃する策動が暴露した事件がおこります。日蓮聖人は時宗のことを、平頼綱などの讒言をきいて日蓮聖人を佐渡流罪に処したが、のちに後悔して赦免した人物であるとみています。ゆえに、時宗が御教書を出すことはないと伝えた文面に、佐渡での三度の虚御教書を例として、熱原の事件についても虚言であると確信していたことをのべています。

「かうのとの(守殿)は人のいゐしにつけて、くはしくもたづねずして、此御房をながしける事あさましとをぼして、ゆるさせ給てののちは、させるとが(科)もなくては、いかんが又あだ(怨)せらるべき。すへ(末)の人々の法華経を心にはあだめども、うへにそしらばいかんがとをもひて、事にかづけて人をあだむほどに、かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。これはそらみげうそ(虚御教書)と申事はみ(見)ぬさきよりすい(推)して候。さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」(一五〇三頁)

と、佐渡において本間重連からうけとった虚御教書が、三度あったことをのべています。これは、北条宣時から良観へ良観から道観に手渡され、佐渡に渡ったといわれています。『法華行者値難事』は富木氏に宛てられ、他の信徒たちにも読み聞かせるようにと指示されています。佐渡の状況を幕府内部にも知らせる目的であったと思われます。

三度目の虚御教書は本間重連の手にわたり、それが偽作であることを日蓮聖人に伝えたものと思われます。このように虚御教書を偽作して、日蓮聖人を迫害したことがわかります。塚原いらい受けつづけていた執拗な弾圧は、このような謀略も激しかったのです。この首謀者は言うまでもなく良観とその弟子であり、それほど日蓮聖人の生存が気にかかっていたのです。

□『法華行者値難事』(一四〇)

一月一四日に、「河野辺殿等中・大和阿闍梨御房等中・一切我弟子等中・三郎左衛門尉殿・謹上富木殿」(七九九頁)とあるように、富木氏に宛てて記名の信徒や、鎌倉在住の弟子・信徒に送られたものです。宛名にある野辺殿については不明で、大和(だいわ)阿闍梨を日昭とする説がありますが、中山近辺の他宗から弟子になった弟子とみられています。三郎左衛門尉は四条金吾、あるいは太田入道という説があります。真跡の八紙は中山法華経寺に所蔵されています。第八紙の奥に「法花行者逢難事」と富木氏が書き入れており、『日常目録』には「御自筆皮籠」の「御消息分」に保管されていました。端書いがいは漢文体にて書かれています。

本書には前述した良観が策略した佐渡赦免の虚御教書事件についてのべています。この遺文に北条宣時から出された三度目の虚御教書の全文を載せ、鎌倉の門弟に知らせました。これまで赦免運動を禁制していましたが、これより北条宣時の非法を公開して赦免運動を指示しています。そのあらわれとして、二月一四日に赦免状が出されることになります。

冒頭に法師品の「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の文と、『涅槃経』の文をひき、法華経の行者には留難があることを示し、天台大師・伝教大師の故事をあげ、釈尊にこの二人を加えた三人を法華経の行者とのべています。そして、仏記によれば末法に法華経の行者があらわれ、在世を超過した大難に値うと説かれている。これが真実ならば天台・伝教大師の値難は、それにおよぶものではないとのべます。釈尊の未来記には法華経の行者が存在して、法華経を弘通しているはずとのべ、つぎに、虚御教書にふれます。日蓮聖人の値難と比肩されるのです。昨年の十二月七日に北条宣時の花押のある、佐渡国へ下知した御教書があるとのべ、その状を記載します。

佐渡国流人僧日蓮引率弟子等 巧悪行之由有其聞所行之企甚以奇怪也。自今以後、於相随彼僧之輩者可令加炳誡。猶以令違犯者可被注進交名之由所候也。仍執達如件。  文永十年十二月七日  沙門  観恵 上   依智六郎左衛門尉殿等[云云]」(七九八頁)

御教書の内容は先に挙げたとおりです。観恵は宣時の家人で秘書役の入道といいます(『日蓮聖人遺文全集講義』第一二巻四一六頁)。この虚御教書に日蓮聖人が弟子をひきいて、「悪行を巧(たく)む」と妄言していることに反論します。この御教書には「相随彼僧之輩」(彼の僧に相随わん輩)とあります。つまり、日蓮聖人に随う者には処断を加えるべしとして、日蓮聖人を処断することに言及していません。これは、日蓮聖人が殺害されたときに、自身に責任が及ばないことを考えていたのです。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』一〇五頁)。宣時の虚御教書にたいして、外道が釈尊を大悪人と言って謀略したように、日蓮聖人も同じように謀殺されようとしていると受容します。また、釈尊の「九横の大難」に匹敵するような大難を、日蓮聖人は経験してきたと例をあげます。すなわち、日蓮聖人の弟子や信徒が暴徒に殺害されたことは、「琉璃殺釈」と類似した大難であり、佐渡においても雪を食して飢えを癒すのは「乞食空鉢」であり、佐渡の寒風と風雪に凍え着衣に窮しているのは「寒風索衣」であるとして、仏の在世よりも大難が超過していると自負し、このような値難は天台・伝教大師でさえも経験していないとのべます。しかし、法華経を弘通した釈尊・天台・伝教大師の三人に、自身を加えて「三国四師」を述べます。

「恐天台伝教未値此難。当知三人入日蓮為四人法華経行者有末法歟。喜哉当況滅度後記文。悲哉国中諸人入阿鼻獄。厭茂不記子細之。以心惟之。文永十一年[甲戍]正月十四日  日蓮  [花押]   一切諸人見聞之有志人々互語之」(七九八頁) 

 この書状に認めた虚御教書の謀略を暴露すること、そして、「三国四師」の系譜について、すべての弟子や信徒に知らせ、同心の者は法華経の行者の意識をもって、これからの行動を考えるように指導されたのです。ゆえに、追伸に天台・伝教大師などの「法四依」の弘教の分限と、「「止召三義」における地涌付属の論点から、日蓮聖人たちこそが地涌の菩薩であると確信され、つぎのように三秘をのべたのです。

「本門本尊与四菩薩戒壇南無妙法蓮華経五字残之。所詮一仏不授与故二時機未熟故也。今既時来。四菩薩出現歟。日蓮此事先知之。西王母先相青鳥 客人来相相覚鵲是也。各々為我弟子者深存此由。設及身命莫退転」(七九八頁)

と、本門本尊・戒壇・題目の三秘は上行菩薩に付属された要法であることを示唆して、日蓮聖人こそが本化上行の再誕として法華経を弘通していることを門下に宣言したのです。たとえに、漢の武帝の代に西王母が来る前兆として、青い鳥が西から飛来したという故事(『事文類聚』)、鵲(かさぎ)が鳴けば客人が来るという例をもって、日蓮聖人の予見力をのべたのです。そして、この四菩薩が出現して法華経が広まる時であるから、この仏勅を忘れずに、如説修行・不惜身命の信心をもって決して退転しないようにと訓示しています。

 さて、一月に元は高麗に日本遠征のために造船を命じます。高麗は一五日から作業をはじめます。全州道の辺山や羅州道の天冠山などの、海辺の山から伐採して船がつくられます。工匠と人夫をあわせて三万五千人により、大船三百、軽疾舟三百、給水用の小舟三百の、九百艘が造りはじめられます。ただし、準備が整いしだい直ぐに遠征するため急いでいたことと、南中国様式の船はコストが重なるため、高麗様式の簡略なものと指定されました。高麗は人夫の糧食三万四千石余りを負担することになります。

〇赦免の動き 

 さて、前述したようにこの虚御教書の謀略について、「一切諸人見聞之有志人々互語之」と、信徒の者はこの旨を互いに語りあうようにとのべており、これをもとに赦免活動が活発になったと思われることは、二月一四日付けで赦免状が出されていることです。鎌倉と佐渡の書状の所要日数は一四日といいます(『種々御振舞御書』九七九頁)。虚御教書は前年の一二月七日付けで、本書は明けて一月一四日付けで富木氏に宛てられています。富木氏のもとに届けられた日を一四日後としますと、一月二八日ころに富木氏は本書をうけとります。その半月後に赦免状が出されています。この半月の間に虚御教書の審議がなされ、強い赦免運動に進展したのです。この御教書を廻ってとうじの幕府内と、信徒の間の緊迫した状況がうかがえます。この一月に幕府は、諸国に生魚の交易を禁じて市津関渡泊の煩を停止しています。

鎌倉の信徒のなかでも大学三郎、比企氏一門が、早くから赦免運動を開始していたといいます。大学三郎は「坂東第一のてかき」と賞賛されるほどの書家で、書を通して安達泰盛と親交が深く、赦免の要望をされていたといいます。(『日蓮の生涯と思想』四六頁)。安達泰盛は時宗の舅で御家人を代表する勢力をもっていました。蒙古襲来の危機を持つ幕府にとって、大学三郎の赦免活動は効を奏したといえます。 

文永九年五月『真言諸宗違目』(六三八頁)  赦免運動を禁制している------------------------二月騒動がおきた

文永一〇年七月『富木殿御返事』(七四三頁) 赦免されないのは子細があるとして静止----偽御教書がでた

文永一一年一月『法華行者値難事』(七九八頁)三度目の偽御教書を鎌倉中に公開させた---宣時の策謀が判明 

赦免に反対する平頼綱・北条宣時・良観の抵抗、時宗の母や長時の後家尼の反対があったと思われるので、赦免は難儀なことであったと思います。三度にわたる偽御教書の発布は、日蓮聖人を鎌倉に帰さない策動といえます。(岡本錬城先生『日蓮聖人―久遠の唱導師』三八七頁)。しかし、幕府の要人のあいだでは文永一〇年の末頃から文永一一年にかけて、赦免の動きがあったといいます。『法華行者値難事』に示した宣時の策略と、佐渡の非法を公開したことは、赦免運動に拍車がかかります。偽御教書を作ることは「御成敗式目」によれば流罪に相当するといいます。しかし、なんらの咎めはありません。北条宣時と平頼綱は親密な関係にあったからです。北条宣時はのちの霜月騒動のときに、平頼綱と結託して反安達勢力を煽動し、安達泰盛誅伐に関与していたといいます。

そういうなかに、二月一四日付けで赦免状が発令され、副状がその二日後の二月一六日に山城入道宛てに出されました。赦免の理由は明らかではないといいますが、これはあきらかに蒙古対策のためといえます。時宗も赦免を積極的に同意したといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八六七頁)。しかし、日蓮聖人は時宗が流罪は讒言によるものであることを、早い時期から知っており、幕府内の状況をみて赦免した、と受け止めています(『窪尼御前御返事』一五〇三頁)。『聖人御難事』には時頼の伊豆流罪をあわせて、

「故最明寺殿の日蓮をゆるしゝと此殿の許しゝは、禍なかりけるを人のざんげんと知て許しゝなり。今はいかに人申とも、聞ほどかすしては、人のざんげんは用給べからず」(一六七四頁)

と、罪科がないのに刑罰に処したことの不覚を恥じたためとのべています。良観が告訴したような悪党ではなく、平頼綱が危険視した亡国を呪詛する者ではなかったことを知り、時宗の善意があらわれての赦免とみます。ただ、時宗の力には限界があったように思います。竜口法難の直後には、流罪を赦免する動きがあり、その流罪も長い期間ではないような趣旨だったのです。赦免に賛同した要人がどれほどいたのでしょうか。日蓮聖人は時宗の裁断による赦免とみます。『中興入道御消息』に、

「水は濁れども又すみ、月は雲かくせども又はるゝことはりなれば、科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計ひばかりにて、ついにゆり候て、のぼ(登)りぬ」(一七一六頁) 

と、日蓮聖人の罪がないことが判明したこと。自界反逆・他国侵逼の予言が的中したことにより赦免されたことをのべ、時宗いがいの北条一門や諸大名という御家人などの要人は、日蓮聖人の赦免に反対していたとのべています。時宗はこれらの反対を押し切って赦免したということになります。(川添昭二著『北条時宗』二八五頁)。

日蓮聖人が予言された一つの、自界叛逆の同士討ちが的中したためとみていることは、『妙法比丘尼御返事』に、 

「又去文永八年九月十二日に佐渡国へ流さる。日蓮御勘気の時申せしが如く、どしうち(同士討)はじまりぬ。それを恐るるかの故に又召返されて候」(一五六一頁) 

と、のべていることからうかがえます。時宗は早い時期に赦免を考えていたことは、竜口の処刑を中止させたこと、一三日に依智に移ってからも斬首することを禁止させています。竜口のあと依智に滞在していた期間の長さと、日蓮聖人が四条金吾氏に送った書状に、「内々佐渡の国へつかはすべき由」とのべたことからうかがえます(『四条金吾殿御消息』五〇五頁)。また、自界反逆難の勧告と二月騒動が一致した事実を、時宗が流罪を赦免した理由といえます(川添昭二著「御遺文から見る日本中世史」『中央教学研修会講義録』第一四号、五九頁)。二月騒動のときには、この騒動に乗じて日蓮聖人を殺害することがないように急使をたてています。(『妙法比丘尼御返事』一五六三頁)。

それにしても長い流罪生活となりました。平頼綱たちが、この間における蒙古襲来の予言が的中したことを恐れていたという心理をうかがえます。赦免後、日蓮聖人は平頼綱と会見します。日蓮聖人の本懐はここにありましたが、平頼綱の関心は主に蒙古対策にありました。時宗の関心も蒙古の対策であったと思いますが、平頼綱の目的は日蓮聖人を支配下に置き、蒙古調伏を祈らせることであったと思われます。

 ところで、この赦免の申請について、石川修道先生はつぎのようにのべています。「玉沢妙法華寺三十三世境持院日通上人記の『玉沢手鑑草稿』によると、印東、狩野、伊東、工藤、二階堂等皆同姓也と述べて、同族であると言う。ちなみに宗祖の佐渡赦免状の判形四人とは、政所と問註所の執事職である次の四人である。二階堂行兼、菅原清長、藤原行平、二階堂光鋼。文永十一年二月十四日の赦免状は、狩野・二階堂の一門である工藤祐経の娘で印東祐昭に嫁した日昭上人の母・妙一尼が訴訟人となって申請されたもので、許可した政所と問註所の執事四人のうち二人が二階堂の人物であった。実は、鎌倉幕府の中には反日蓮派のみでなく、親日蓮派も存在していたのである」と、妙一女が申請したこと、また、幕府の審査役員のなかに教団と関係の者がいたことをのべています。

 一月二三日に佐渡に天変がおきます。申時(午後四時ころ)に西方に太陽が二、三個、見えたといいます。そして、二月五日には、こんどは東方に明星が二つならんで見え、その中間は三寸ばかりであったといいます。日蓮聖人は日本国の先代にもない大難とみます。『法華取要抄』に、

「而今年佐渡国土民口云 今年正月廿三日申時西方二日出現。或云 三日出現等[云云]。二月五日東方明星二並出。其中間三寸計等[云云]。此大難日本国先代未有之歟。(中略)問曰 此等大中小諸難因何起之乎。答曰最勝王経云 見行非法者当生於愛敬 於行善法人苦楚而治罰等[云云]。法華経云 涅槃経云 金光明経云 由愛敬悪人治罰善人故 星宿及風雨皆不以時行等[云云]。大集経云 仏法実隠没乃至如是不善業悪王悪比丘毀壊我正法等。仁王経云 聖人去時七難必起等。又云 非法非律繋縛比丘如獄囚法。当爾之時法滅不久等。又云 諸悪比丘多求名利於国王太子王子前自説破仏法因縁破国因縁。其王不別信聴此語等[云云]」齎此等明鏡引向当時日本国浮於天地宛如符契。有眼我門弟見之。当知此国有悪比丘等 向天子王子将軍等 企讒訴失聖人世也(八一六頁)

 そして、この大難がおきた理由は、経文によれば悪比丘により正法が毀られ捨て去られ、しかも、私利私欲にはしり、国王や天子に邪法を説いたため、破仏・破国の因縁となったという文をあげます。日蓮聖人は門弟にたいし、眼前の状況はまさに悪比丘が跋扈し、天子や王子、将軍などに正法を弘持する聖僧を讒訴するからであるとのべます。すなわち、地涌の菩薩である日蓮聖人を讒奏したことにより起きた大難であるとのべたのです。また、これは「一天四海皆帰妙法」を実現することに繋がるとのべています。 

□『弥源太殿御返事』(一四二)

二月二一日付けの北条弥源太時盛に宛てた書状です。『朝師本』の写本が伝えられています。『覚性房御返事』には「いやげんだ」(一一八九頁)とあります。北条弥源太は鎌倉初期の信徒であることがわかっています。『十一通御書』に、「殊貴殿者相模守殿同姓」(四三〇頁)とあることから、北条一門の武士であること、また、時房の子で時宗の叔父にあたる時盛ではないことが、弘安元年七月に道隆が没したことを知らせていることから判明しています。

 本書に日蓮聖人は法華経の行者として、三類の強敵や佐渡流罪に処せられているが、それにも退転しないで弟子檀那となっていることは不思議な縁であるとのべています。弥源太は佐渡に使者を遣わして、自身が帯刀していた刀二振りをおくっています。

「相構て能々御信心候て、霊山浄土へまいり候へ。又御祈祷のために御太刀同じく刀あはせて二つ送り給はて候。(中略)南無妙法蓮華経は死出の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給べし。日蓮さきに立候はば、御迎にまいり候事もやあらんずらん。又さきに行せ給はば、日蓮必閻魔法王にも委く申べく候。此事少もそら事あるべからず。日蓮法華経の文の如くならば通塞の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を期し給へ」(八〇六頁) 

と、のべていることから、後生の祈願の依頼をうけ、それについての御返事と思われます。この太刀は尼崎本興寺に格護されている国宝の「数珠丸」といわれています。太刀の奉納は弥源太の滅罪と霊山浄土に往詣するためのものであったことがうかがえます。日蓮聖人は霊山浄土に導く通塞の案内者であるとのべ、「後生善処」の安心を伝えています。末文に日蓮聖人が安房の御厨のある地に生まれたことを第一の果報とのべ、消息の主題ではないので詳しくは書かないが意図とするところを、推量してほしいとのべています。彌源太も同じ房総(安州)の人であったので、天照太神に縁が深いことから、自身との縁も深いことをのべられたとも思えます。そして、懈怠なく信心に励み所願を成就するようにとのべ、妻にも伝えるようにと諭しています。

このころ一遍が時宗を開きました。正月二三日の夕方、西の空に太陽が二つ(三つともいう)見え、また、二月五日には明星が二つならんで現れたのをみた日蓮聖人は、このことから蒙古襲来が近いことを予測しました。