1.佐渡出立                                高橋俊隆

○赦免状が届く(三月八日)

 二月一四日付けの赦免状は、二〇日間を過ぎた三月八日に佐渡に届きました。(『種種御振舞御書』九七八頁)、『光日房御書』一一五五頁)。日蓮聖人のもとに知らされたのも同日のことでした。鎌倉の弟子たちは日蓮聖人の赦免を心待ちにしていましたので、鎌倉を出立するのに手間がかかったとは思えません。ふつうは鎌倉から寺泊まで一二日前後で到着するといいますので、佐渡の荒波がおさまらず寺泊からの出港が遅れたと思われます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一九一頁)。

 赦免状が発せられた情報は、日蓮聖人を敵対視する者にも伝わります。とくに念仏者たちは日蓮聖人を島内から出さず殺害することを計画します。『種種御振舞御書』に、

「文永十一年二月十四日御赦免の状、同三月八日に島につきぬ。念仏者等僉議して云等、此れ程の阿弥陀仏の御敵、善導和尚・法然上人をのる(罵)ほどの者が、たまたま御勘気を蒙て此島に放されたるを、御赦免あるとていけ(生)て帰さんは心う(憂)き事也と云て、やうやうの支度ありしかども」(九七八頁)

 生きて鎌倉には帰さないとして、策略を練ったとのべています。赦免状が届いて無罪放免になっても、佐渡においてはこのような戦々恐々とした状況であったのです。

〇佐渡出立

さて、三月八日に赦免状を受け取った日蓮聖人は、生きて佐渡から出すなという念仏宗徒の不穏がありましたので、佐渡離島をできるだけ知られないように、極秘のうちに佐渡を発つことに決めました。警護の役人たちも失態をおそれ、内密に護送の準備をされたのでしょう。佐渡の信徒たちのとの別れと身支度を整え五日後の一三日、おそらく一谷入道の手配にて早朝に一谷を出立し、そして、真野町豊田の塩屋ヶ崎の八兵衛(臼杵孫兵衛ともいう)の門のあたりで、佐渡の人々との別れをされたといいます。その跡地に明和三(一七六六)年に腰掛け石を安置し、憩石堂(けいせきどう)という小堂を造ったといいます。

日蓮聖人にとりまして二年五ヶ月は辛い佐渡の流罪生活でしたが、阿佛房などの檀越との別れも辛いものでした。佐渡の信徒たちは命がけで日蓮聖人を護り給仕をされたのです。その一人の国府の尼に、ひらかなの読みやすい字で宛てたのが『国府尼御前御書』です。

「つらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すすむあし()もかへりぞかし」(一一五五頁)

と、お手紙を書かれています。佐渡の信徒との別れに心をひかれながらも、鎌倉幕府に妙法広布を諫暁する使命がありました。法華信受の一縷の期待をもっての佐渡出立でした。日蓮聖人は佐渡を離れるときに一谷に掲げられていた始顕本尊を携えて鎌倉に帰ることになります。

一谷を立った日蓮聖人はどこから船出をされたのか。流人の送還であるから、守護所の役人は佐渡の守護所が便船を仕立てるはずなので、船出も国津である松ヶ崎からされたといいます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一九三頁)松ヶ崎へ向かわれたなら、コースは一谷・真野豊田・細野・松ヶ崎と也と思います。しかし、通説では真浦(網羅)へ向かったとします。真浦から出港するならば、一谷・佐和田・新町・真野豊田・静平・赤泊・真浦(一谷・真野・梨の木街道・小佐渡山脈・大木戸・真浦)というコースを取られたと思います。佐渡を出立する日程を内密にされたことは、出港の乗船場も不意をねらったのかもしれません。

日蓮聖人は当日の一三日に船出をしました。(『種種御振舞御書』九七九頁。『光日房御書』一一五四頁)。国津の松ヶ崎から出港されたとして、東風が強く海が荒れ佐渡に引き返し、真浦の津に泊まったとのべています。松ヶ崎から出た船は荒波にたえられず、航路が波に流されて、佐渡に引き返したところが真浦だったということになります。真浦には法華堂があり日蓮聖人は近くの洞窟を宿としたといいます。また、船元の永井三郎兵衛の家に泊まられたともいいます。乗船されたと伝えられる浜に記念碑が建っており、『国府尼御前御書』の一節が刻まれています。日蓮聖人は波風のおさまるのを待ち一五日に佐渡をたち、寺泊をめざしましたが大風に流されて二日間をへて柏崎に着きました。『光日房御書』に、

「文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立てまうら(網羅)というつ(津)にをりて、十四日はかのつにとどまり、同十五日に越後の寺どまり(泊)のつ(津)につ(着)くべきが、大風にはなたれ、さいわひ(幸)にふつかぢ(二日程)をすぎて、かしはざき(柏崎)につきて、次日はこう(国府)につき」(一一五四頁) 

寺泊に向かった船は、本土の左に弥彦山、角田山を見渡しながら、大風により南西に流されて米山のてまえの柏崎に着きます。東風が強く吹き荒れて流されたことになります。漂流されたとはいえ無事に本土に着船できたのです。柏崎についたのは一五日なのか、一六日なのか両説があります。寺泊から柏崎までの距離は五〇キロになります。一般的には「ふつかぢ(二日程)をすぎて」を、二日が過ぎてと読み、一泊二日の距離と解釈します。あるいは、「二日路」の行程を短縮して、その日の一五日に柏崎に着いたという説があります。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一九五頁)。とうじ、真浦から柏崎までの航路は順風で三日といいます。(新月通正著『日蓮の旅』二二四頁)。そうしますと、強風におされて予定よりも早く二日で着いた、と解釈でき、そのことを「大風にはなたれ、さいわひ(幸)にふつかぢ(二日程)をすぎて」とのべたといえます。

ここでは、一般説をとり一六日に柏崎に着いたと理解します。いずれにしても、日蓮聖人は順風にめぐまれたことにより、佐渡の念仏者たちの迫害をのがれ、無事に脱出できたのです。佐渡からの出港が天候により左右されることを、『種種御振舞御書』にのべています。

何なる事にや有けん、思はざるに順風吹来て島をばたちしかば、あはい(間合)あしければ百日五十日にもわたらず。順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ」(九七八頁)

日蓮聖人が着いたところに法華堂を造ったのが法修山妙行寺となります。柏崎から歩を進めて夕刻に番神崎に着き、下宿の大乗寺の慈福法印を教化されたといいます。慶長三(一五九八)年に大乗寺を番神堂と改め、また、妙行寺と合わせて海岸山妙行寺とし、現在のところに移っています。番神堂は妙行寺の境外仏堂として護られています。

つぎの一六日は難儀な米山峠を越え、直江津国府(上越市)に向かいます。途中、柿崎の雨池のほとりにある渡辺貞良の家で昼食をとられます。この縁で明徳五(一三九四)年に、玉沢妙法華寺の日誉上人が寺を建て霊池山妙蓮寺を建てています。門前の道路は鎌倉時代の街道といいます。越後国府はかつて承元元(一二〇七)年に親鸞が配流されたところです。日蓮聖人はその日は国府(直江津)に宿泊しますが、そこで、不穏な動きがあると察した越後国府は、日蓮聖人の一行に護衛の兵をつけました。それは、越後や信濃の念仏者は敵意をもっており、とくに、善光寺街道には善光寺の本尊、阿弥陀仏の前を通さないという僉議までなされていたからです。この暴徒が集まっているという情報が入ったためでした。

赦免後の行動は、その人の自由意思にまかされる場合があっても、日蓮聖人は時宗の召喚があって、鎌倉をめざしたのかもしれません。護兵が増員されたことは幕府の命令によると思うからです。時宗が日蓮聖人を赦免したのは、日蓮聖人の自界反逆・他国侵逼の予言に強い関心があり、それが的中したことにより、さらにその打開策を聞くことに関心が深まったといえます。いっこくも早く鎌倉にむかい、時宗に諫暁を果さんとする日蓮聖人と、時宗の思索が一致しての急ぎ旅だったのです。幕府はなんとしてでも日蓮聖人を鎌倉に呼び寄せる目的があったのです。(佐藤弘夫著『日蓮』二五四頁)。

一七日は上越市の高田に入り、危険と思われた善光寺の付近を通過します。『種々御振舞御書』に、

「越後のこう(国府)、信濃の善光寺の念仏者・持斉・真言等は雲集して僉議す。島の法師原は今までいけてかへす(生還)は人かつたい(乞丐)也。我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をばとをす(通)まじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者どもあまた日蓮にそひ(添)て、善光寺をとをりしかば力及ばず。三月十三日に島を立て、同三月二十六日に鎌倉へ打入ぬ」(九七八頁)。 

と、念仏者は息を潜ませ待ち伏せします。前述したように、善光寺の周辺は念仏・禅・真言の巨大な勢力が、同じ北条氏の権威にまもられて存在していたのです。しかし、多勢の武士が日蓮聖人の身辺に付き添うように警護しています。そうとうな武士が警護してのでしょう。異様な景色のなか念仏者はなにもできず、日蓮聖人は無事に善光寺を通過します。日蓮聖人を鎌倉に帰すために、厳戒態勢が敷かれていたのでしょう。なにごともなかったのは、このとき、善光寺の門前近くをさける道を進んだからともいいます。(吉田―松代―追分)。しかし、「善光寺をとをりしかば力及ばず」と、善光寺を避けずに通ったが、他宗の者はどうすることもできなかった、とのべていますので、武士にまもられて善光寺の門前を通過したといえます。

そして、善光寺からは千曲川沿いの旧北国街道をもどり上田方面に向かいます。浅間山を今度は左手に見ながら碓氷峠をこえ、高崎で鎌倉街道に合流します。往路にて世話になった篤信の信徒と再会しながら、上ノ道を南下して藤沢・片瀬を通り、そして、二六日に大願の鎌倉に帰ってきたのです。佐渡へ護送されたときは向寒のさみしい山野も、このときは新緑に覆われ春の活気ある景色となっていたでしょう。(第二節 佐渡配流)。日蓮聖人とともに配流された弟子と苦難を乗り越え、一二日をかけての鎌倉入りでした。『報恩抄』に、 

「今日きる、あす切る、といひしほどに四箇年というに、結句は去ぬる文永十一年太歳甲戌二月の十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉に入り」(一二三八頁)

と、四年の間は処刑の噂にまどわされ、刺客にあったことも度々のことでした。しかし、赦免された日蓮聖人は、警護の武士が付き添い無事に鎌倉に帰ってきたのでした。

○御本尊(一〇)「船中御本尊」

 この本尊は三月一五日に佐渡真浦から柏崎に向かう船中にて認めたといわれ、通称「船中御本尊」といわれています。また、書体の字形から楊枝を筆代わりに用いられて書かれた、「楊枝御本尊」ともいいます(『高祖年譜攷異』)。紙幅は縦二七a、横一四.二aの小幅の本尊です。両津市の妙法寺に所蔵されています。また、依智で書かれた本尊(一、楊子本尊)とほぼ同じ時期という説があります。その理由は依智から携帯した筆と、同じ筆が使用されているとみるからです。(佐藤弘夫著『日蓮』二一三頁)。ただし、楊枝御本尊は丈五三,六a、幅三三,六aと、とうじとしては一回り大型の料紙を使用しています。佐渡の「船中御本尊」とは紙の大きさが違い、特殊な用途にするために用意されたものといえます。これにくらべ「船中御本尊」の用紙は、もちあわせた紙をとっさに使用された可能性が強いのです。字体が似ていることだけで同時期に書かれたものとは判断できません。

柳の枝を砕いて急遽つくった楊枝の筆といわれますが、竹を筆として用いたのではないかともいいます。(中尾尭文著『日蓮』一四一頁)。筆を持参して旅路を行くことは通常のことでした。矢立ては筆と墨を保存するもので、日蓮聖人も常に持ち歩かれていたと思います。船中において咄嗟に本尊を書かれたのですから、三月のまだ寒い時期ですので筆先は固まっていたと思われます。筆を固まったままの状態で使えば、楊枝などの固い素材を筆として代用したように見えると思います。