167.鎌倉に「打ち入」                         高橋俊隆

◆◆第三章 佐渡以後

◆第一節 鎌倉に「打ち入」

○夷堂

二月一四日に赦免を聞いた弟子たちは、日蓮聖人が佐渡より鎌倉に帰られた三月二六日までの間に、小町の夷堂橋のそばに仮の庵室を用意したといいます。日昭上人の指示のもとに日朗上人が奔走されたと思います。(『本化別頭仏祖統紀』「辨阿闍梨為首」一四六頁)。この場所に現在は本覚寺が建っています。本覚寺の縁起には夷堂に四〇数日間滞在され、五月一二日に夷堂から身延に出立されたとあります。(『日蓮宗寺院大鑑』一二七頁)。二世行学院日朝上人が身延一一世となり、日蓮聖人の遺骨を分骨され東身延となのります。

名越は鎌倉の郊外になりますが、小町の夷堂橋は中心地に近く幕府にも近いところとなります。通常、謀反人として逮捕・流罪にあうような処罰を受けると、その土地や家などは官に没収され破却されてしまうので二度ともどれないといいます。現に、日蓮聖人が佐渡から帰られたときに、すでに草庵はなかったので、夷堂の地に宿所をかりたといいます(『本化高祖年譜』)。あるいは、弟子や信徒の住房や居宅に入られたともいいますが、短期間の滞在中のことですから、日蓮聖人を自宅に招き、慰労のかたわら教えを聴聞した信徒たちが多かったと思われます。四条金吾は信仰上の問題で主君から疎まれていましたが、不屈の信仰心をもっていましたので、積極的に奉仕されたと思います。

はたして、日蓮聖人は鎌倉にとどまることを考えていたのでしょうか。幕府に召喚される二週間ほどは、身体を養生されながら、今後の方針を弟子信徒とに諮ったと思います。岡元練城先生は鎌倉退出は、佐渡に流罪中のときからすでに考えつめたことであり、鎌倉にもどってきても住房を必要としなかったとのべています。(岡元錬城先生『日蓮聖人久遠の唱導師』四一四頁)。佐藤弘夫氏は日蓮聖人が鎌倉に入ることを、「帰る」「戻る」のではなく「打ち入」ると表現されていることに注目します。そして、上原専禄氏が『種種御振舞御書』の、

「三月十三日に島を立て、同三月二十六日に鎌倉へ打入ぬ」(九七九頁)。

の文から、鎌倉は日蓮聖人を拒む地とみても、もはや本拠地とは思っていなかった、という心境を紹介しています。そして、日蓮聖人の来訪を歓迎しない鎌倉に、ある決意をもって踏み込もうとする、日蓮聖人の強い意志を感じる、とのべています。(『日蓮』二五五頁)。このことは、日蓮聖人が鎌倉を去るときの心情はどうであったのか、また、その後の法華経の行者としての歩み、開祖の行く末を、どう考えていたのかという、門下にとっては重大なことと思われます。

〇三度目の諫暁

では、鎌倉に帰ってしなければならない、と祈願されていたことは何であったのでしょうか。鎌倉に帰った日蓮聖人の最初の行動は、幕府の要人に会って『立正安国論』を諫暁されています。幕府との対談(柳営の対面)は日蓮聖人が望まれ働きかけたことでした。『高橋入道殿御返事』に、

「此事を今一度平の左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候き」(一〇八八頁)

と、まずは最初に平頼綱に蒙古からの襲撃をさけるために、法華経を国家鎮護の御経として尊重させることが日蓮聖人の目的でした。つまり、国主へ諫暁するために鎌倉に帰ってきたということです。『光日房御書』に、

「おぼろげ(小縁)ならでは、かまくら(鎌倉)へはかへ(帰)るべからず」(一一五二頁)

少々のことでは赦免されないとのべた心中には、時宗に『立正安国論』の諫言をするという大願があったことがうかがえます。佐渡の艱難辛苦を耐え生き抜いてきた気力は、私的な延命欲ではなく、法華経を弘通し浸透させることでした。その最大のなすべきことが諫暁であったのです。

日蓮聖人は四月八日に幕府に召喚されます。この日は釈尊の降誕の吉日ですので、日蓮聖人がこの日を選んだのかもしれません。日蓮聖人の言葉からは、幕府から召喚されたのではなく、日蓮聖人のほうから臨んだように思われます。(岡元錬城著『日蓮聖人久遠の唱導師』四二四頁)。ただし、幕府や寺院が主催する仏教行事には、主要な人物が八幡宮などに集まりますので、平頼綱がこのときを選んだことも考えられます。この仲立ちを宿屋光則(最信)がしたともいいます。会見が行われた場所は不明ですが、評定所か執権の館、会見の場に多数の人物が同席していたことと、平頼綱が幕府の代表としていたことから侍所という説(岡元錬城著『日蓮聖人―久遠の唱導師』四二六頁。川添昭二著『日蓮と鎌倉文化』一一〇頁)、また、取り調べではなく諮問という呼び出しの場合は侍所ではないとし、平頼綱の屋敷か時宗の屋敷であった可能性が高いといいます。(山中講一郎著『日蓮自伝考』三三四頁)。

そこで日蓮聖人を流罪にした平頼綱と会見します。時宗は同席していません。平頼綱の内心は日蓮聖人が生きて鎌倉に帰ったことを快く思っていません。その後の教団にたいする迫害からうかがえます。平頼綱のほかにも数名の高官がいたといわれ、良観の最大の庇護者で裁判関係の最高位である、一番引付頭人北条実時(金沢)があげられます。日蓮聖人に敵意をもって、ことの成り行きを伺ったと思われます。そして、時頼の側近で宿屋行時、その子の光則(最信)が指摘されています。また、「此の御房たちだに御祈あらば」と語られていることから、真言師が同席していたようです。この真言師のなかに定清がいたかもしれません。佐渡の守護北条宣時は、竜口首座に失敗したときに熱海に遁走したように、この場に来ていないと思われます。しかし、事案が蒙古対策であったので有力な評定衆が同座したことも考えられます。このときの評定衆は、三善康有・二階堂行綱・二階堂行忠・北条時広・長井時秀・佐々木氏信・安達時盛・北条時村・二階堂行有・北条宗政・宇都宮影綱・北条公時・北条北条宣時がいます。

日蓮聖人はまず、佐渡流罪はいわれのないことであると無罪をのべます。つぎに『立正安国論』に示した、他国侵逼の解決策である皆帰妙法を説きました。平頼綱は竜口斬首の首謀者でありましたが、このときには時宗の命をうけたためか威儀を和らげ、礼儀正しく接したといいます。『種々御振舞御書』に、 

「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さき(前)にはにるべくもなく威儀を和げてただ(正)しくする上、或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。一一に経文を引て申す。平左衛門尉は上の御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申。日蓮答云、今年は一定也。それにとつては日蓮已前より勘へ申をば御用ひなし。譬ば病の起を知ざらん人の病を治せば弥よ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、弥よ此国軍にまく(負)べし」(九七九頁)

この会見において、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言、ある人は禅について、それぞれの者が信仰する念仏・禅・真言を批判する理由を質問しています。平頼綱が質問したことは、爾前経にて得道できないとする理由でした。日蓮聖人はそれぞれの質問にたいし、私見ではなく経文を提示し釈尊の教えを示されて答えたのです。この質問をした心中には、自分が信じる宗派に懐疑をもったのかもしれません。それは、自界叛逆・他国侵逼を予言したことが、文永八年一〇月に筑前今津に蒙古の牒状が届き、同九年二月に時輔の乱が起こり、同一〇年三月には元の使者が太宰府に来て、日蓮聖人の予言が現実とのこととなって的中したので、幕府の要人たちは動揺していたためでした。

しかし、平頼綱は幕府内で問題となっていた、蒙古襲来の時期を知ることが会見の意図でした。熱原法難にみられるように平頼綱は執拗に教団を攻撃しています。日蓮聖人に信服する意志はなかったといえます。それよりも、軍事的な機動力をもつ良観の指導力が魅力だったのです。平頼綱は時宗の御使の様に質問します。時宗や平頼綱の最大の関心は蒙古対策にありました。得宗専制の体制のなかで侍所は北条氏が占有しており、時宗が別当として就任し次官が平頼綱でした。侍所は御家人を統括して対蒙古の防衛を指図する機関です。平頼綱の次官としての立場からして、召喚の目的もこれに関連したことといえます。

日蓮聖人は平頼綱への三回目の諫暁をされます。このことを、『撰時抄』に、 

「第三去年[文永十一年]四月八日左衛門尉語云、王地に生たれば身をば随られたてまつるやうなりとも、心をば随られたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑なし。殊に真言宗が此国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事真言師には仰付らるべからず。若大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問云、いつごろ(何頃)かよせ候べき。日蓮言、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからずきうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語たりき」(一〇五三頁)

と、のべているように、蒙古は年内に襲来すると答えました。真言亡国を説くなかにこの質問がなされたようです。つづいて、蒙古の襲撃を防ぐ対策はないかを質問され、『立正安国論』の念仏・禅・律・真言の邪義を捨て法華経に帰正することを強くのべました。日蓮聖人は幕府が真言師に蒙古退散の祈祷をさせていることを知っていたので、とくに真言宗による蒙古調伏をおこなえば国が滅ぶ、と真言亡国の諫言をしました。すなわち、『撰時抄』・『高橋入道殿御返事』に、

殊に真言宗が此国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事真言師には仰付らるべからず。若大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此国ほろぶべしと申せしかば」(一〇五三頁) 

「真言宗と申宗がうるわしき日本国の大なる呪咀の悪法なり。弘法大師と慈覚大師、此事にまどいて此国を亡さんとするなり。設二年三年にやぶるべき国なりとも、真言師にいのらする程ならば、一年半年に此国にせめらるべしと申きかせ候き。たすけんがために申を此程あだまるゝ事なれば、ゆりて候し時、さどの国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入べかりしかども、此事をいま一度平左衛門に申きかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候き」(一〇八八頁) 

と、真言宗は「大禍の根源」であると真言批判をされました。つまり、「真言亡国」を説くことが鎌倉に帰る最大の目的であったと高橋入道に語っています。三度目の諫暁は東密・台密の批判を鮮明にすることでした。

伝承によりますと、幕府は蒙古調伏の祈祷を日蓮聖人に依頼します。その恩賞として愛染堂の別当職と一千町歩の良田を寄進する、ただし、他宗を批判せぬようにとの申し込みでした。この愛染堂寄進の時期について、四月八日と加賀法印の祈雨のあととの二説があります。『本化別頭仏祖統紀』は四月八日で、平頼綱が御所の西に新たに愛染堂を建て、庄田一千町の収益を与えるとあります。平頼綱は、日蓮聖人に対し他宗批判をやめ、幕府の安泰のために蒙古調伏の祈願をせよと命じたものと思われます。『御伝土代』によると、平頼綱は日蓮聖人に対して、土地の寄進と伽藍の建立を申し出たとあります。私利私欲をもたず、皆帰妙法を誓願とする日蓮聖人としては、受け入れることができない条件でした。『御伝土代』には東郷ヶ谷の東郷入道屋敷跡に、坊地を寄進するという提案があったといいます(『富士宗学要集』五巻八頁)。

 平頼綱が執権の要請として提案した法華堂を建立し庇護するということは、日蓮聖人を幕府の言いなりに抑え込むということです。ふつうならば大きな出世であり生活も安定し名誉なことです。幕府は日蓮聖人の祈祷の力を蒙古撃退の調伏に採用しようとしたのです。このとき日蓮聖人は、『日興上人御伝草案』(『日蓮宗宗学全書』第二巻二五〇頁)によれば、「諸宗のくびを切り、諸堂を焼き払え、念仏者と相訴せん」と言って座を立ったといいます。しかし、日蓮聖人が諸宗と公場対決を願ったことは承知できますが、諸宗の僧侶の首を切れとまでは、『立正安国論』の「止施」の教えからして、日蓮聖人は強言されていないといいます。(宮崎英修著『不受布施派の源流と展開』四四頁)。ただし、邪教を説く諸僧を放置することは、国家の安泰に関わることです。

このように、日蓮聖人の信念は変わらず平頼綱の譲歩を断わりました。このことも、平頼綱とすれば憤慨の因になったといわれています。平頼綱の立場からすれば蒙古襲来という現実的な局面に、御家人を動因して防御に苦心していた時期でした。これに対し、それらを廃して一人の僧侶にその全てを託すには、現実に即応した対策とは考えられないことであったと思われます。政治的に日蓮聖人を採用する価値はないとして、捨て去った形となります。後述するように、身延に入ってから起きた熱原法難には、平頼綱が教団に迫害を加えています。佐渡流罪を赦免されたとはいえ、平頼綱においては日蓮聖人を政治的に許容できていなかったのか、このときの会見がさらに拒絶する意思を強めたのかは分かりませんが、日蓮聖人の『立正安国論』の意見は受容され得なかったのは確かです。

 また、幕府内における平頼綱と安達泰盛の関係が、日蓮聖人に影響を及ぼしていた一面があったのではないかと思います。泰盛は前述のように大学三郎と知己の仲で、佐渡赦免などに尽力したという説がありました。得宗の平頼綱と被官を代表する泰盛の対立関係は、その後、日蓮聖人が入寂されてから三年後の弘安八年に激突します。いわゆる霜月の乱です。これにより泰盛などの主要な御家人も討ち取られ、平頼綱の権力は揺るぎないものとなります。日蓮聖人を排斥する理由は複数に絡みあっていたと思われます。

『立正安国論』の奏進のときの諫暁と、平頼綱が竜口法難を仕掛け草庵で捕縛のときに諫暁したこと、そして、この四月八日の平頼綱との会見をいれて、三度の諫暁をされました。日蓮聖人はこれを「三度の高名」(『撰時抄』一〇五三頁)といっています。しかし、この「三の大事」(『撰時抄』一〇五四頁)は聞きいれられることなく、幕府は日蓮聖人の諫言を無視し、それどころか真言宗に祈祷をおこなわせたのです。平頼綱は最初より日蓮聖人の意見を聞く意思はなかったと思われます。時宗の指示があり同席者のてまえ威儀を和らげたのであって、目的は蒙古がいつ襲撃してくるか、についての意見を聞くだけのことであったのです。その表れがすぐさま定清に祈雨を命じたことでした。