168.阿弥陀堂法印定清との祈雨対決           高橋俊隆

阿弥陀堂法印定清祈雨

平頼綱と対面した二日後の四月一〇日に、幕府は旱魃が続いていたので、請雨の祈祷を真言僧の加賀法印定清(じょうせい一一八五〜一二八〇年)に命じます。定清(定誓)は鎌倉大蔵阿弥陀堂の別当をしていました。ここは、頼朝が父義朝の菩提を弔うために、御堂ヶ谷に建てた勝長寿院のことで、本尊が阿弥陀仏でした。真言宗で阿弥陀信仰をしていることから、覚鑁の新義真言宗の影響をうけ、良観の極楽寺や金沢実時の称名寺と同じ弥陀信仰がみられます。定清を推挙したのは金沢実時ともいい、『種種御振舞御書』に、

此御房たちだに御祈あらば入道殿事にあひ給ぬと覚え候。あなかしこあなかしこ、さいはざりけるとおほせ候なと、したゝかに申付候ぬ」(九八〇頁)

と、のべた「入道」とは金沢実時ではないかといいます。(山中講一郎著『日蓮自伝考』三三七頁)。

定清は広沢流と小野流の両派を受け継ぎ、のちに「定清方の祖」と呼ばれた東密の真言師です。定清は後藤実基の孫、基清の子供で、評定衆である佐渡の前司後藤基綱(一一八一〜一二五六年)の弟です。姪の三川内侍は伊東八郎左衛門祐光の妻といいます。(『本化聖典大辞林』上。九八頁)。師僧は東寺長者の宣下をうけた定豪(毫)一一五二〜一二三八年)です。定豪は民部少輔源延俊の子で、大和忍辱山流の始祖寛遍の嫡流である兼豪から潅頂をうけた真言僧です。定清はこの定豪の広沢六流のなかの忍辱山流と、小野六流のうち三宝院流醍醐寺金剛王院の実賢からも伝法しています。日蓮聖人が定清のことを『種々御振舞御書』に、

「同四月十日より阿弥陀堂法印に仰付られて雨の御いのりあり。此法印は東寺第一の智人、をむろ(御室)等の御師、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり」(九八〇頁)

と、「東寺第一の智人」といわれたのは、この野沢二流、台密の相承を極めたことを評した揶揄です。

この定清が祈雨すると翌一一日から効験があらわれます。幕府は褒美として金三〇両と馬など、かずかずのものを捧げました。鎌倉の人々も効験によろこび、これにたいし口々に日蓮聖人を嘲笑したといいます。このことを『種種御振舞御書』に、

「それに随て十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿御感のあまりに、金三十両むま(馬)やうやうの御ひきで物ありときこふ。鎌倉中の上下万人、手をたゝき口をすくめて、わらうやうは、日蓮ひが法門申て、すでに頚をきられんとせしが、とかう(左右)してゆりたらば、さではなくして念仏・禅をそしるのみならず。真言の密教なんどをもそしるゆへに、かゝる法のしるし(験)めでたしとのゝしりしかば、日蓮が弟子等けう(興)さめて、これは御あら義と申せし程に」(九八〇頁)

日蓮聖人が念仏や禅の悪口をいい、幕府にも憎まれたという庶民の感情は消えなかったようです。首を切られそこねて佐渡へ流罪され、死なずに時宗の温情で帰ってきたのだから、おとなしく幕府に従えばよいものを、懲りずに念禅の悪口をいうのみならず、こんどは真言まで誹謗したということが広まったのです。法華経でなければならないと主張した日蓮聖人を、定清の請雨の霊験はめでたいことだと嘲笑い罵ったのです。これまでは念仏などの他宗批判をされていましたが、佐渡から赦免されて帰ってきてからは、とくに真言宗の密教、真言師の祈祷が加わってきたことうかがえます。

これには日蓮聖人の信徒たちも、意外な事態におどろき動揺しました。これにより、信徒のなかにも真言の祈祷を批判するのは行き過ぎという意見がでました。しかし、日蓮聖人は子細があるとして時を待つように指示しています。この言葉になんの子細があるのかと、弟子のなかにも笑った者がいました。そうしたところ、翌、四月一二日に台風が上陸し、台風の規模は大きく家屋や人畜に被害がでました。『種種御振舞御書』に、

「阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば、龍王は法華経のかたきなり、梵釈四王にせめられなん。子細ぞあらんずらんと申せば、弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、をこつき(嘲笑)し程に、日蓮云、善無畏も不空も雨のいのりに雨はふりたりしかども、大風吹てありけるとみゆ。弘法は三七日すぎて雨をふらしたり。此等は雨ふらさぬがごとし。三七二十一日にふらぬ雨やあるべき。設ふりたりともなんの不思議かあるべき。天台のごとく、千観なんどのごとく、一座なんどこそたう(尊)とけれ。此は一定やう(様)あるべしと、いゐもあはせず大風吹来る。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を或は天に吹のぼせ、或は地に吹いれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふきころ(吹殺)し、牛馬をゝくたふれぬ。悪風なれども、秋は時なればなをゆる(許)すかたもあり。此は夏四月なり。其上、日本国にはふかず、但関東八箇国。八箇国にも武蔵・相模の両国。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら(鎌倉)、かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり。ただ事ともみへず。ひとへにこのいのりのゆへにやとをぼへて、わらひ口すくめせし人々も、けう(興)さめてありし上、我弟子どももあら不思議やと舌をふる」(九八一頁)

 この災害については『北条九代記』(二巻本)に、「四月十二日大風、草木枯槁す。十月五日蒙古寄せ来たり、対馬に着く」と蒙古と同じく大きな事件として記録されているほどです。祈祷による雨乞いが潤いをもたらした慈雨ではなく、人々を吹き殺し牛馬などを吹き倒し、人畜・草木の生命を脅かす強風・大雨の災害となります。とりわけ鎌倉の被害が大きく、御所・若宮・建長寺・極楽寺などの堂塔や樹木が吹き飛ばされ倒壊したとのべています。それまでは日蓮聖人を笑っていた念仏者や、日蓮聖人に懐疑をもった弟子たちは、かえって日蓮聖人を恐れ不思議がっていたとのべています。日蓮聖人はこの大風の原因は定清の祈雨とし、元凶は平頼綱が採用した真言密教の祈祷にあるとして、真言宗を批判したのが『報恩抄』のつぎの文です。

「去文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印東寺第一の知者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝たりけるか。心にくし」(一二二九頁)

この災害により、幕府は日蓮聖人が真言亡国を説いたことを重視し、日蓮聖人に御所の西に愛染堂を建て一千丁の庄田を寄進すると、申し出があったとするのが『高祖年譜攷異』です。条件として念仏無間などの他宗批判をやめ、幕府の要請にしたがい国家安泰を祈願することでした。とうぜん、日蓮聖人は謗法を禁圧して正法を立てることを主張しましたの決裂します。

日蓮聖人はこの台風を他国侵逼の予兆としてみていきます。蒙古は年内に日本を攻めてくる現れと見たのです。初夏の大風はそれを示唆しているとみたのです。『八幡宮造営事』に、

「去る文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり、風は是れ天地の使いなり、まつり事あらければ風あらしと申すは是なり。又今年四月二十八日を迎えて此の風ふき来る。而るに四月二十六日は八幡のむね上と承る、三日の内の大風は疑いなかるべし」(一八六九頁)

と、その原因は幕府の悪政にあるとのべています。さらに、この二六日に鶴岡八幡宮の上棟式を真言師が修法したため、その三日後に大風がきたことも他国侵逼の予兆であると指摘しています。鎌倉は蒙古襲来の危機を強める中で、このような天災が不気味に起きていたのでした。

平頼綱が定清に祈雨を命じたことは、日蓮聖人の主張が却下されたことを意味しています。結局、日蓮聖人は平頼綱と会見し諫暁をしましたが、それが採用されることはありませんでした。日蓮聖人の生涯での三度目の諫暁も無視されました。一縷の望みをもっていたので失意に満ちます。佐渡在島中においては国家諫暁が聞き入れられ、日蓮聖人を国師として採用することの期待がありました。『光日房御書』に

「但本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしきをきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。これほどのかた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹風、立くもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立てみるなり」(一一五五頁)

と、故郷に錦を飾るという表現をされ、それはまた親子の情念として故郷の父母の墓参りに行ける立場を考えていたことがうかがえます。鎌倉退出について、四月ころに鎌倉で書かれたとされる『未驚天聴御書』につぎのようにのべています。

□『未驚天聴御書』(一四三)

「事三ヶ度に及ぶ。今諫暁を止むべし。後悔を至すことなかれ」(原漢文八〇八頁)

と、幕府に呈しての諫暁を三度に及び強訴しましたが、それに対してなんら反応がなく、想定のこととはいえ後悔してはならないとして、鎌倉を経つ決心をしたのでした。岡元錬城先生が指摘されたように、このことは佐渡にいたときから考えていたことでした。『種種御振舞御書』に、

「本よりご(期)せし事なれば、三度国をいさめん(諫)にもちゐ(用)ずば国をさるべしと」(九八二頁)

 鎌倉退出は日蓮聖人にとって後悔の念はなかったのです。鎌倉においてなすべき責務を、すべて果たしたという心境でした。この文の前には、

「これを申すと雖もいまだ天聴を驚かさざらんか」(八〇八頁)

と、のべています。いまだ朝廷にたいしての諫暁はしていませんでした。しかし、つぎの目標として朝廷を諫暁する望みをもっていたともうかがえます。この書状の宛先は不明ですが、幕府の有力者に宛てたといわれています。岡本錬城先生は新加の本書の二行断片が、京都本国寺に所蔵されていることから、宿屋最信に宛てたと推測しています。宿屋最信と京都本国寺は縁が深く、『宿屋入道再御状』などが収蔵され、『宿屋入道再御状』と本書が酷似していること、また、『立正安国論』の上呈や、諫暁行動や執権への取り次ぎを宿屋最信が仲立ちしていた(『断簡一一七』(二五一六頁)ことを理由としています。(『日蓮聖人―久遠の唱導師』四三〇頁)。

鎌倉を去るにあたり幕府に対する諫暁の対策は尽きましたが、諫暁の必要性は身延期に入っても依然、日蓮聖人の心から消えなかったことでした。また、朝廷に上奏するという意思表示であるといえます。現に、身延において弟子の教育をされ、日像上人に京都弘通を任せたことから、幕府に理解者はいない、と見限っていたことがうかがえます。その意識が平頼綱の怒りにもなっていたとも思います。

また、日蓮聖人を鎌倉から清澄寺の別当という誘いがありましたが辞退しています。『別当御房御返事』に、

「これへの別当なんどの事は、ゆめゆめをもはず候。いくらほどの事に候べき、但なばかりにてこそ候はめ」(八二七頁)

 故郷へ錦を着て帰るという成果はなかったのです。故郷の周辺には弟子や信徒が大勢いましたが、房総に帰って法陣をはることはしなかったのです。その理由は後述します。