169.鎌倉退出                            高橋俊隆

◆第二節 鎌倉退出

○鎌倉を去る決意

時宗との直接会見もなく、公場対決の期待をもてなかったので、日蓮聖人は鎌倉を去る決意をしました。平頼綱と会見してから三五日、鎌倉に帰って一ヶ月半ほどのことでした。その理由を身延にての『報恩抄』に、

「同五月の十二日にかまくら(鎌倉)をいでて、此山に入れり。これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほう(報)ぜんがために、身をやぶり、命をすつれども、破れざればさてこそ候へ。又賢人の習、三度国をいさむるに用ずば、山林にまじわれということは、定るれい(例)なり。此功徳は定て上三宝、下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶り給らん」(一三三九頁)

日蓮聖人は四恩に報いるために不惜身命の覚悟をもって、国主に諌言されました。しかし、これが叶わなければ聖賢の古例として、鎌倉を去る覚悟をきめました。これは、四書五経『礼記』(曲礼下第二)「為人臣之礼不顕諫、三諫而不聴則逃(逝)之」「三度、諌めて聴かれずんば即ちこれを逃「(さ)る」)、つまり、何度も諫めて、それでも主君が聞き入れなければ、いさぎよく辞職して立ち去るのがよい、という格言を身にあてたのです。また、『孝経』の文意にある儒教思想を摂取したといえます。これは、『秋元御書』に、

「謗国の失を脱れんと思はば、国主を諌暁し奉りて、死罪歟流罪歟に可被行也」(一七三八頁)

と、日本国を誹謗の国から救うため、『立正安国論』を上呈し、そのため四大法難という過程を経ての結論でした。しかし、これは鎌倉を捨てることではありません。佐渡から鎌倉に帰還した一ヶ月半の間に、日朗上人が日蓮聖人の佐渡流罪中に守っていた比企谷の法華堂を開堂供養して、妙本寺の基礎を築かれました。この法華堂に掲げられていた曼荼羅は、現在平賀本土寺に伝来している楮紙二〇枚を継いだ曼荼羅といいます。二世を継いだ日朗上人が本土寺に移されたといいます(中尾尭著『日蓮聖人の法華曼荼羅』三五頁)。

 この一ヶ月半ほどの間に、鎌倉の弟子信徒を中心にして、今後の活動について話し合ったと思われます。日蓮聖人が佐渡流罪中の幕府の膝元にいて、布教を行なった日昭上人や日朗上人は、日蓮聖人の鎌倉在住について歓迎したか否か、富木氏や池上氏たち信者は地元に招致されたのか否か、日蓮聖人が未来のために新たな布教の地を目指したのか。蒙古襲来の予言が的中し流罪を赦免され、弟子信徒の期待は高まり鎌倉にとどまることを要望したことでしょう。しかし、日蓮聖人の心身にそれほど強い行動力は見られないように思えます。三度の諫暁を拒絶された日蓮聖人は、挫折感と漂泊の思いが強かったようです。『法蓮鈔』に、

「今適(たまたま)御勘気ゆりたれども、鎌倉中にも且(しば)らくも身をやどし迹をとどむべき処なければ、かかる山中の石のはざま、松の下に身を隠し心を静むれども」(九五三頁) 

と、赦免され命は助かった身ではありましたが、幕府からは不要とされたのでした。鎌倉の地に身を留める処がない、と端的に失意をのべています。国師という地位を望むのではなく、法華経の教えにより日本の安国を創造できることを願ったのです。日蓮聖人の心中には、有徳王と覚徳比丘の往昔を期待していたと思われますが、弟子・信徒と充分に話し合い、鎌倉の弘教を主要の弟子に託して退出を決心されたのです。朝廷に法華帰信をうながすことも弟子に委託することになります。頑強な肉体も精神もこのときばかりは弱ったのです。弘安四年に池上兄弟に宛てた『八幡宮造営事』に、

「此法門申候事すでに廿九年なり。日々論義、月々難、両度流罪身つかれ、心いたみ候し」(一八六七頁) 

と、日蓮聖人の身心は奥深くまで痛みつけられていたことがわかります。このときの日蓮聖人の心境は生きて鎌倉に帰り国家諫暁をされた達成感よりも、それが受け入れられなかった挫折感が大きかったのです。日本中の謗法堕獄が目に見えている苦しみが強かったと思います。その悲しさを静め立ち直る時間が必要だったのです。

さきにふれましたが、日蓮聖人は鎌倉に長く滞在することを考えて、佐渡から鎌倉にきたのではありませんでした。『高橋入道殿御返事』に、

「但皆人のをもいて候は、日蓮をば念仏師と禅と律をそしるとをもいて候。これは物かずにてかずならず。真言宗と申宗がうるわしき日本国の大なる呪咀の悪法なり。弘法大師と慈覚大師、此事にまどいて此国を亡さんとするなり。設二年三年にやぶるべき国なりとも、真言師にいのらする程ならば、一年半年に此国にせめらるべしと申きかせ候き。たすけんがために申を此程あだまるゝ事なれば、ゆりて候し時、さどの国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入べかりしかども、此事をいま一度平左衛門に申きかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候き。又申きかせ給し後はかまくらに有べきならねば、足にまかせていでしほどに」(一〇八八頁) 

と、赦免後には鎌倉市中から追放されることを考えていたこと、そして、諫暁は幕府に反感をもたせることなので、鎌倉に滞在することの意義を見いだせない、という考えをもっていました。『下山御消息』に

「真言師等に調伏行せ給べからす。若行するほどならば、いよいよ悪かるべき由申付て、さて帰てありしに、上下共に先の如く用さりげに有上、本より存知せり、国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用ずば山林に身を隠さんとおもひし也。又上古の本文にも、三度のいさめ用ずば去といふ。本文にまかせて且く山中に罷入ぬ」(一三三五頁)

と、幕府も鎌倉市民も法華経を信仰することは、難しいことを領解していたとのべています。鎌倉の布教は弟子にまかせて、日蓮聖人は鎌倉から退出することが良策であったのです。日蓮聖人の体力は衰え、それに国師となるべき気力もつかいはたし、仏子の使命を果たし仏責もないという心のなかに、潔く後悔はしないと自分に言い聞かせたのでしょう。新月通正氏は現実社会への絶望と深い挫折感を抱きながら、警世の予言者は隠遁の道を行くが、これこそ宗教者として真実一路の旅であり、日蓮聖人は宗教者の原点にまたもどった、とのべています。(『日蓮の旅』二二六頁)。社会的には敗北であり良観が勝者であったのかもしれません。しかし、僧侶としては釈尊の金言を純真にまもった真の仏子であったと、高く評価しなければなりません。

 佐藤弘夫氏は、幕府が日蓮聖人を赦免されたのは、日蓮聖人を幕府の体制内に取り組むことにあったといいます。それは、赦免が決定された段階で既定の方針となっていた、しかし、日蓮聖人はそれを拒否されます。そのかたくたな態度に平頼綱は怒りを募らせたのではないかとのべています。(『日蓮』二五八頁)。また、佐々木馨氏は、三度にわたって国諫してきたのだから、これ以上、幕府と関わりあうことは、その体制と同じ次元に立つことになり、体制という対者と同じ次元に立つのをやめれば、逆にその体制を規定することができるとのべ、「賢人の習、三度国をいさむるに用ずば、山林にまじわれ」の言には、反体制、変革者の信念が読み取れるとのべています。(佐々木馨著『日蓮とその思想』三九頁)。身延へ入山してからの、日蓮聖人の行動をみれば一目瞭然となることですが、この時点においては不確実な将来であったと思います。 

〇流浪の身として身延へ

 では、鎌倉を退出して居住する処が決まっていたのでしょうか。日蓮聖人を殺害しようとする勢力は、赦免により消滅したのでしょうか。身延に入ってからも三度目の流罪という噂がたちます。鎌倉にいることは身の危険があったため、幕府の手が届かないところ、日蓮聖人を防衛できる処へ移動することが協議されたと思います。鎌倉退出を退出される日蓮聖人への、信徒たちの感情はさまざまで、いろいろな意見が出されたようです。しかし、日蓮聖人は今後の果たすべきことを、心中の奥底に醸成されていたのです。『四条金吾殿御返事』に、

「同十一年の春の比、赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ。倩(つらつら)事の情(こころ)を案ずるに、今は我身に過あらじ。或は命に及ばんとし、弘長には伊豆国、文永には佐渡の島、諌暁再三に及べば留難重畳せり。仏法中怨の誡責をも身にははや免れぬらん。然るに今山林に世を遁れ、道を進んと思しに、人々の語様々なりしかども、旁存ずる旨ありしに依て、当国当山に入て已に七年の春秋を送る」(一八〇〇頁) 

と、当初の決意は鎌倉をはなれることがであったのです。その後のことも考えがあったとのべています。その考えていたことは何であったのか。赦免された日蓮聖人は自由に行動ができる身分に回復されていました。つまり、自分の意志でこれからの計画を実行できます。上田本昌先生は流人僧ではなく「法華経の行者」としての立場で、これからの行動を選定されていかれたとのべています。(「身延山における日蓮聖人信行の諸相」『仏教文化の諸相』所収二一三頁)。

そのようななかに、日蓮聖人はかねてから招かれていた甲斐国波木井郷の領主、南部波木井実長の館に向かうことになったのでした。日興上人の母が駿河の河合領主の娘であったことから、日興上人は駿河と甲斐地方の布教に縁故があり、南条時光をはじめ、河合・松野・高橋・石川・西山などの各地の有力者を信徒として富士地方に力をもっていました。波木井実長もその一人で、文永八年の弾圧にも退転しなかった有力な信徒でした。流浪の一歩を身延に向けたのは、日興上人と波木井氏の強い要請に従ったという見方ができましょう。日蓮聖人はいっとき身延に滞在して、その後を決める気持ちでいたのです。『下山御消息』(一三三五頁)に「本文にまかせて且く山中に罷入ぬ」と、賢人の古例に習っての処世でした。日蓮聖人の本心はどうだったのか。身延に着き富木氏に最初に宛てた書状『富木殿御書』(八〇九頁)に、「結句は一人になて日本国に流浪すべきみ(身)にて候」とのべています。目的地のない流浪の旅であったのです。諸国を遍歴して法華経を弘める遊行僧に近かったのです。

そして、身支度をととのえ、五月一二日に鎌倉を出立することになりました。それは、天福元年にはじめて清澄寺に上った日でした。また、はじめて王難である伊豆流罪の色読をされた日だったのです。暗黙のうちに日蓮聖人の決意がみられるのです。そして、この出立のとき日蓮聖人は、まだ身延が棲神の聖地となることは知らなかったのです。日蓮聖人の仏使としての気力が蘇り霊山浄土となるのです。仏・菩薩、諸天善神が日蓮聖人を身延山へ招致されたといえましょう。

 この五月中旬に、元の征東軍一万五千人の兵が高麗に到着します。六月一六日に高麗は九百艘の船が、金州の港に回漕し遠征の準備がととのったことを元に奏状します。ところが、遠征の七月に近づいた六月一八日、高麗では国王の元宗が病死します。元宗の子、王椹が八月末に元から帰国して即位します。第二五代高麗王の忠烈王(一二三六〜一三〇八年)です。元宗は九月一二日に韶陵に埋葬されます。日本遠征はのびていたのです。

                                   平成二四年二月一〇日   以上