17.ただ我一人(いちにん)のみ能(よ)く救護(くご)をなす

 譬喩品のお経です。
 「唯我一人 能為救護」
 九月はお彼岸の行事がありますので、彼岸についてもお話ししました。
 彼の岸。
 かれのきしではなくて、かのきしと読みます。
 お釈迦さまが言われた岸は眼で見ると遠い河岸をいいます。
 川、江よりも遠く、海のように眼で見えないな先の岸かと思います。
 それを悟りの世界としてアラカン、声聞・縁覚といわれる方が修行されました。
 しかし、釈尊は72歳を過ぎた法華経の教えの展開で、誰もがひと時の間に彼岸の悟りを得ることができると説きました。
 これが「二乗作仏」です。
 日蓮聖人は「一念三千」という論理でこれを解説しています。

 日蓮聖人の教えは釈尊に忠実です。
 釈尊の教えであるお経をもとに、真意を究明されました。
 「法によって、人によらざれ」という釈尊の遺言を大事に護られました。
 それは、親の言葉を実行するということでした。

 仏教は5千・7千という巻物のお経があります。
 50年間の教えですから当然かと思います。
 そこで、私達が注意をしたいのは、釈尊が最初から最後まで同じ教えを説いていないということです。最終の目的を目指して順々に説いたということです。
 子供を育てていることを思ってください。赤ちゃんのときは大事にまもり、幼児のときには言葉を教えます。その言葉も難しいことは言わないで、火はアチチとかイタイイタイするよと言います。車はブーブーといいますでしょう。
 幼児に向かって、火傷をして皮膚や毛細血管を損傷してもとのように回復しないから、火に近づかないようにとは言いません。
 逆に中学や高校生に火はアチチというと、こちらの方が疑われてしまいます。
 つまり、釈尊の教えも相手の能力や仕事、環境によって違うということです。
 また、身分制度があったこと、文字がなかったことなども考慮しなければなりません。

 日蓮聖人は私達を救って下さる仏は釈尊と述べています。
 阿弥陀さんや薬師如来、大日如来も釈尊の口から説かれた仏であり、私達のいる娑婆を救うのは釈尊一仏と述べます。
 その親を捨てて、西にいる阿弥陀さんを大切にするのは親不孝ではないかと言われます。これを「不孝の失(とが)」と言われています。
 「失」とがとは失うということ、罪と置き換えることができます。
 日蓮聖人は「ただ我一人よく救護しています」という経文に、私達の親の徳を認められいます。       (9月18日の勉強会)

○ 念仏無間 シャリホツは法華経の譬喩品で華光如来となる 主師親の三徳
  阿弥陀は十八願で救済を説くが、五逆罪の者と正法を謗る者は除くと説いている