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●●第四部 身延・七面山信仰から 

◆◆第一章 鎌倉から身延山

◆第一節 身延入山

○身延山へ出立

日蓮聖人は清澄寺登山の日、竜口首座、そして、伊豆流罪の日である文永一一(一二七四)年五月一二日に(日蓮正宗では大石寺に秘蔵されている弘安二年一〇月一二日の本尊があります(安立行編著『日蓮大聖人自伝』三二〇頁)。日蓮聖人は鎌倉の弘教を日昭上人に任せ、日向上人・日興上人・日頂上人・日持上人・日進上人・久本房(日元上人)、そして、熊王四郎の七名を伴い、鎌倉をはなれ、波木井実長氏の郷である身延に向かいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。『身延山史』(二頁)には日朗・日興・日向上人とあります。五月雨のなかを弟子や信徒に見送られて出立したといいます。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五四二頁)。佐渡流罪のときに通った極楽寺の切り通しまで見送くられたのでしょうか。日蓮聖人は感慨深く龍ノ口を過ぎ身延に向かわれたのです。

波木井氏は甲斐源氏の子孫でしたので鎌倉との交流が多く、従って身延までの街道には宿泊や休息の安全性が図られていたといいます。身延へ向かうことは、日蓮聖人が自ら決断されていたことと思われます。日興上人と日持上人がおもに身延へ誘われ、波木井実長氏の篤い信仰と、近くに南条時光が住まいしていたことが、決断の理由であったと思います。(「御書略註」『宗全』一八巻二一八頁)。

 身延へ着いた日蓮聖人は、まず、富木氏に第一報を伝えます。鎌倉の日昭上人のもとにも書状を送っていたと思いますが、弟子に宛てた書状は伝わっていません。富木氏が日蓮聖人の行動や教義などを整理し、保存する役目をもっていたといえます。その、『富木殿御書』に鎌倉からの道程をのべています。文体は穏やかにゆったりと書かれており、日蓮聖人の「流浪」の心中が現れています。このときは、漂泊の思いであったのかも知れません。 

「十二日さかわ(酒輪)、十三日たけのした(竹ノ下)、十四日くるまがへし(車返)、十五日ををみや(大宮)、十六日なんぶ(南部)、十七日このところ(身延)」(八〇九頁)

日蓮聖人は一二日の鎌倉を発ちます。延宝九(一六八一)年三月に発行された『日蓮大聖人御伝記』には、五月五日に鎌倉を発ちその夜は酒匂に宿泊したとあります。十三日は竹ノ下、十四日は車返、十五日は大宮、十六日は南部、十七日に波木井郷に入られたというのは同じです。出立された日が五日でしたら酒匂に宿泊した日も五日になります。六日から一三日の竹之下までの日数に隔たりができます。『報恩抄』に、

「同五月の十二日にかまくら(鎌倉)をいでて、此山に入れり。これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほう(報)ぜんがために、身をやぶり、命をすつれども、破れざればさてこそ候へ。又賢人の習、三度国をいさむるに用ずば、山林にまじわれということは、定るれい(例)なり。此功徳は定て上三宝、下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶り給らん」(一三三九頁)

と、五月一二日にまちがいないことです。北沢光昭先生は所蔵されている延宝中村版に五月五日とあることを確認され、真蹟遺文との違いを不審としています。ほかにも誤解をまねく記述があることから、日蓮聖人の伝記として流布されなかった、あるいは、注目されなかったのではないかとのべています。本書が要法寺系の資料を用いていることと、「冨士年表」に同書名の要法寺版一〇巻が、本書に先立ち発刊されていたとみています。

 さて、一二日に鎌倉をたち、東海道を西に進み波木井に向かいました。茅ヶ崎下町屋あたりで相模川を渡り、平塚・大磯・小磯・二宮・国府津を進み、一〇里(四〇㌔)ほどの酒匂川まで来た時に増水で渡ることができないでいました。とうじは、この酒匂で川をわたり岸にそって関本へむかう足柄路を通りました。そのとき飯山法船という修験者のたすけで酒匂(小田原)の家(地蔵堂)に泊まりました。

一三日の朝にこの飯山入道は日蓮聖人一行を船で送ったといいます。その時に堂守が日蓮聖人の教えを受けて日蓮宗に改宗し、入道に済度法船、妻に蓮慶妙船の法号を授けたといいます。この縁により同所に日朗上人の弟子朗源上人によって、宿泊の旧跡に法船寺が創始されたと伝えられています。また、日蓮聖人を招いたといわれる「お手引き地蔵尊」がお祀りされています。南方の星が明るさをまして照らだした「竜燈の松」の枝で造像された祖師蔵が安置されています。(市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』一六〇頁)。これにより、済度山法船寺は文永一一年五月一二日の創立とされ、越中阿闍梨朗慶を開祖としています。通称を川端祖師といいます。(『日蓮宗寺院大鑑』一六〇頁)。小田原市内の風祭に文永一一年一一月に創立された玉正山妙覚寺があります。文永五年に中老僧の日忍上人が、真宗寺院の住僧順学を教化し改宗します。順学は日順と改名し文永一一年に改築し寺名もかえ、開山を日忍の師中老僧越後房日弁上人、第二世に日忍上人、そして、第三世に日順上人がなっています。(『日蓮宗寺院大鑑』一五五頁)。文永六年五月に、日蓮聖人は冨士方面の教化に巡業されたといいます。足柄の板橋(小田原)を通り九月ころに鎌倉に帰ったといいます。ここに、象の鼻に似た巨石があり、日蓮聖人はこの石の上に立って房州の故郷を望み、宝塔(石塚)を建て両親の菩提を弔います。のちに、朗慶上人が富士山、象鼻山(御塔)妙福寺を建立しますが、明治四五(一九一三)年に廃寺となり、大窪村蓮正寺と合併され御塔生福寺と改称しています。(『日蓮宗寺院大鑑』一五四頁)。

その一三日は箱根に向かわず平坦な道をえらび、関本にむかい駿東郡小山町の竹之下(字城腰)に宿泊します。関本からは二つの道筋があります。足柄街道をすすみ足柄峠をこえて関場・福泉・矢倉沢、そして、竹之下に入るコースと、関本から山北・谷峨・小山と迂回して竹之下へ入るコースがあります。竹之下は小山町(おやま)といわれていますので、足柄街道は足柄峠を越える山間をさけ、平坦な山北からのコースを選ばれたとも思えます。しかし、足柄峠は平安時代から西国から関東へ往来されており、とうじの人々のおもな往来の街道であったといいます。(市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』一六一頁)。中尾尭先生も足柄の急坂を歩まれたとみています(『日蓮』一八一頁)。また、同じ道中に蒙古迎撃のため一族とわかれて、西海に赴く武士たちと一緒の旅であったといいます。(中尾尭著『日蓮聖人のご親筆』一四六頁)。

また、竹之下の鈴木繁八氏の供養を受けたといいます。(小川泰堂居士『日蓮聖人真実伝』)。また、竹ノ下の霊場として日蓮聖人が宿泊したという要名山常唱院が鮎沢川沿いにあります。この崖下に道祖神がある細い道が鎌倉道といいます。日蓮聖人が宿泊のお礼として一幅のご本尊を書き村人に授与されたので、村人は草庵をつくり講を設け、因縁の日には法華講を催したといいます。その後、たびたび竹之下宿の火災により頽廃し、天保三(一八三一)年に蓮静寺二三世の日宥上人が常唱院として発展させたといいます。宗派は法華宗本門流です。境内には桜の古木があり「花の常唱院」とも称されています。(『要名山常唱院寺伝』)。また、日興上人の旧友で富士郡大宮庄野中村に由井五郎入道がおり、日蓮聖人一行を出迎えて喜ばれたといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。

一四日は足柄街道に合流して二枚橋・沼田・裾野・大岡、そして、沼津の車返に泊まります。ここの、天台宗本光寺(車返道場)にて説法したといいます(『駿河志料』中村高平、文久元年)。とうじは車返宿があったといいます。宿泊された場所については諸説あります。裾野市深良新田に題目堂・法華堂があり、「車返し霊場」の扁額がある間口三間奥行き四間の堂といいます。室伏安平夫妻が建立した題目碑があって、「文永一一年五月一四日。自鎌倉身延御入山之砌。弘安五年一〇月二三日。自池上身延御送骨砌。御宿泊之旧地」と刻まれた石碑が明治三六年に建てられています。そのほかにも文化一一年の供養塔があるといいます。この場所について、沼津の三枚橋付近といいます。(『身延山史』二頁)。三枚橋は今の上石岡付近ともいいます。(小林小太郎氏。市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』一六五頁)。)。また、「くるまがへし」は沼津市三芳町といいます。車返しの名は、ここが登り坂になっており、加えてこの付近一帯の沼沢地に前進を阻まれた車が、やむなく引き返したことに由来するといいます。三枚橋町のとなりが三芳町です。この三芳町に連光寺があります。京都妙心寺の末寺で本尊は千手観音菩薩です。昔は車返し牧の御所の旧地にあって、北条時頼の建立で、当時は大岡院と称したといわれています。また、車返は大岡牧といいます。これらから、注目されるのは山王台・大岡にある日枝神社です。日蓮聖人はこの近辺にて法話をされたという本光寺の縁起に結びつきます。とうしょ、本光寺は車返にあり、本光寺の旧檀主関家の系図に、日蓮聖人が山王神社にて説法をされたとき、地元の古老勝地・関・斉藤・井田の四人が世話人となり一寺建立を申しあげたとあります。日蓮聖人はよろこばれ、年々に法華経を流布せよということで山号を幼名より薬王山、寺号を本門本光の意をとり本光寺と定めたとあります。日蓮聖人は岡宮日法上人にあとを託します。日法上人の弟子に轉阿闍梨日性上人がおり、三枚橋城主景山右京亮基広の三男で本光寺の開基となっています。本門法華宗の寺院で江戸時代に沼津城築城のときに旧境内地の八幡町に移転再興したといいます。

 日枝神社は平安時代からあり、山王社とも称されています。日蓮聖人は鎌倉法性寺の山王堂に身をひそめていた時期があります。この近辺はもと関白藤原師通の領地で、源義綱が比叡山の僧を殺害した事件にからんで三八歳にて死去します。師通の母は比叡山の僧と山王の祟りと思い、呪詛と障り祟りを鎮めるため、近江の日枝神社の分祀を請い大岡庄のうち八町八反を寄進したのが、現在の日枝神社といいます。日蓮聖人が山王社をお参りすることは充分に頷けますし、ここにて街頭布教をされたときに、聴聞した地元の古老たちも師通や母との縁故者であったとも考えられます。鎮魂供養のため法華経の一宇を発願されたことが根底にあると思われます。車返から大宮へ、そして南部への道中は、潤井川、芝川、富士川と三つの川を渡って行くことになります。夏の日差しが照りつけていたか、春の雪解けの水が川の増水で行く手をはばんでいたのでしょうか。また、この日に由井入道の家にて受戒され、その夜は黒田郷柏坂村の遠藤左衛門が日蓮聖人を招き、ここに宿泊したといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。しかし、後述しますように本書は一日早い記述となっており、幾分信憑性に欠けます。

一五日は浮間が原に抜ける道を歩き(紀野一義著『日蓮配流の道』一五五頁)、海を望みながら身延に進んだと思います。東海道から岩本・黒田を経て大宮へいたる古くからの高原街道を進みます。平地を歩み大宮(富士宮)に着きます。大宮の中心には冨士山霊木花咲耶姫を祀った浅間神社があります。のちの、弘安三年一〇月二四日に浅間神社に縁がある上野殿の母尼御前に、

「此の経を持つ人をば、いかでか天照太神、八幡大菩薩、冨士千眼(せんげん)大菩薩、すてさせ給べきと、たのもしき事也」(『上野殿母尼御前御返事』一八一六頁)

と、法華経の信者にたいする守護をのべています。大宮に宿泊される日蓮聖人の感慨が深かったといいます。(田中智学氏『大国聖日蓮上人』四六五頁)。その夜は宿が決らずに困って公孫(いちょう)の木の元に休んでいたところに、黒田郷柏坂村の遠藤左衛門夫妻と出会い、家に泊まることができたといいます。本光寺の縁起には当寺所の銀杏の樹下に一宿され、遠藤夫妻が麦・酒・柏餅・鵞目二百疋を布施供養されたといいます。このとき、妻女の母乳が出にくいことを聞いた日蓮聖人は、妙符を与えて祈祷をされます。のちに、左衛門の一子が日蓮聖人に師事され、本光院日静上人と号してイチョウのそばに本光寺を建立します。これが「出乳霊場」鵞目山本光寺の起こりと伝えています。鵞目山というのは両親が日蓮聖人に金銭(鵞目)の布施をされた故事に因んでいます。通称、公孫樹(いちょうのき)の本光寺とよばれています。(『日蓮宗寺院大鑑』四八四頁)。『大宮町誌』は、文永十一年五月一五日に、日蓮聖人が十界本尊を安置して開基され、その後、上総国妙福寺の開祖・中老日秀、法孫日浄を二祖とし、堂宇を建立したとあります。日蓮聖人との故事に因み、旧暦の五月一五日に「柏談義」という法要が行われ柏餅を供養しています。(市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』一六六頁)。これに因んで、この地を柏酒とよんだといいます。

また、大泉寺縁起によると、大宮に着いた日蓮聖人の一向は、郷士由比五郎邸に泊まったといいます。日興上人は由比氏の甥にあたり、このとき、由比氏は家を挙げて歓待し、翌日、日蓮聖人は氏に戒を授けたと伝えられています。のちに、由比氏は万野原に妙覚山大泉寺を造営、血縁の六老僧日興上人を開山に招きました。このときに木像を造り日興上人が曼荼羅本尊を授与されています。文明・万治年間に再移転しています。寺宝に日蓮聖人の曼荼羅本尊が所蔵されています。また、富士山経ヶ岳に祀られていた祖師像が安置されています。万延年間(一八五四~六〇年)に京都の孝明天皇(一八三一~一八六七年)の天拝を賜ったことから、天拝祖師とよばれています。孝明天皇は明治天皇の父親になります。若くして死去していることから毒殺説などがあります。また、鎌倉の極楽寺にあったという祖師像も安置されています。(『日蓮宗寺院大鑑』四八四頁)。由比氏は冨士郡長貫河合(芝川町長貫)を領していたことから、河合入道とよばれました。この地に河合山妙興寺があります。二祖日伝上人が堂宇を建立して、はじめは妙福寺と公称されましたが、元禄年間に妙興寺と改称されました。(『日蓮宗寺院大鑑』四九八頁)。

一六日は富士山を背にして右に迂回するように進み、芝川のほとりで富士を間近に見ながら一息つかれたことでしょう。身延へ進む道程は冨士山の南側になります。あるいは、大宮から西山を経由して芝川へでるコース。この道は西山本門寺を通ります。また、西山をかこむように回って袖野・稲子から南部へ進むコースもあります。しかし、芝川から内房にはいる富士川に徒歩橋があります。日蓮聖人がここを渡られたといいます。本立寺が建てられていたといい、その跡が残っています。橋の袂に石碑が建てられています。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』一二四頁)。途中、内房に休まれています。大鹿村の三澤小次郎の叔母という老尼が日蓮聖人を供養されたといいます。『本化別頭仏祖統紀』には上野の村主である内房阿摩がおり、庄司入道を介して日蓮聖人を歓待され、ここに宿泊されたとあります。翌朝、別れに内房阿摩に与えた和歌が残っています。本成寺の縁起には、

内房にさのみは人の寝られねば、月を身延におきかえるかな

と伝えられています。この所に長遠山本成寺が建てられています。本成寺は宗門のなかで最初の改宗寺といいます。もとは真言宗の胎蔵鏡寺といいます。日蓮聖人が岩本の実相寺において一切経を閲読するときに、四十九院の僧たちは入蔵させませんでした。このとき、岩本の領主上野氏の郡代官をしていた庵原之郡内房殿がここの寺の長子であり、実相寺の厳誉律師と往還していた関係で、入蔵をゆるされたという縁がありました。胎鏡寺に東林法印と仏像法印の兄弟が住持していました。内房殿は実相寺に入蔵できないでいる日蓮聖人を自邸にまねきます。このとき母(内房尼御前『日蓮宗寺院大鑑』)と二人の弟が入信したといいます。次男は日報、三男は日浄と名のります。実相寺の学頭智海法印の知己を得たのも兄弟の力が大きかったのです。本成寺の開創年次は『大鑑』によりますと正嘉元年八月とありますが、寺号を改称して改宗した年は翌年の正嘉二年といいます。この関係で日蓮聖人はここに一泊されたといいます。(『日蓮宗寺院大鑑』四九六頁)。内房尼は「母の如きの御とし」という高齢であり、その娘が内房女房といいます。「大中臣氏」(『内房女房御返事』一七八四頁)に当たり神祇に関係した相当の身分があったようです。『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻一一八頁)。この地方の豪族である遠藤左金一族をはじめ一村の人たちが改宗したといいます。(竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』一二四頁)。

ここに、日蓮聖人が実相寺に入蔵されたころの縁を偲び詠まれた詩など、「内房三詠」が伝わっています。(小川泰堂居士『日蓮聖人真実伝』)。

・内房三詠

日蓮聖人(日浄上人に与えられた)

全座(うつぶさ)にふす夜のあまり寝られれば月を身延に起きかへるかな

 日遠上人   谷川にうつる今宵の月影をうつぶさに寝て眺めけるかな

 元政上人   うつぶさに寝られぬものか片敷の枕の山は不尽(ふじ)のしら雪

なを、日蓮聖人が入寂されるころ四条金吾は内船を知行していたといいます。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』一六〇頁)。

また、芝川を過ぎ内船から富士川をわたり、南部(山梨県)の妙浄寺に宿泊したといいます。ここは、もと真言宗の大日山妙楽寺といって、足柄山で笙を吹いた新羅三郎源義光が創建した寺です。甲斐源氏の祈願所であり、南部氏がここを領していたときの、南部家の菩提寺になっていました。妙楽寺の住持は大輪法師といい法論のすえ、日蓮聖人の弟子となって日寿と名乗ります。寺と信徒も改宗されたことにより、甲州弘教の最初の霊場、一泊の霊場といわれ、古来、身延山法主は入山のときは一泊か、立ち寄ること慣例とされています。(『日蓮宗寺院大鑑』三四四頁)。妙浄寺と改名したのは第三世妙浄阿闍梨日養上人のころで、歴応元(一三三八)年三月といいます。開山は波木井実長氏(法寂院日円)になり寺紋に向鶴の紋を使用しています。宝物に「身延山寄進状」があります。

途中の道筋には高橋入道や西山入道などの檀越が在住していましたが、相模・駿河一帯は時宗や北条得宗家の直轄領であり重時の家人たちも多く住んでいたといいます、とくに、富士地方は北条政子の身内が多かったので弾圧を懸念して通りすぎてきました。日蓮聖人が立ち寄ったことが知れると、重時などの家人の怒りや中傷があると心配されたのです。高橋入道は加島(じま)に住んでいました。現在の富士市本市場になります。『高橋入道殿御返事』に、

「今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども、心に心をたたかいてすぎ候いき。そのゆへはするがの国は守殿の御領、ことにふじ(冨士)なんどは後家尼ごぜんの内の人人多し。故最明寺殿極楽寺殿のかたきといきどをらせ給うならば、ききつけられば各々の御なげきなるべしとをもひし心計りなり」(一〇八九頁

と、これらの信徒の家に寄らずに来たことの理由を書かれています。高橋入道は時賴の家人であったといい、妻は日興上人の叔母になります。この姻戚関係から信徒になりましたが、佐渡流罪により日蓮聖人の門下にたいする弾圧により、疎遠になっていたといいます。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻九八頁)。日蓮聖人は日興上人と相段されて、会わずに通過されたのでした。近くの岩本には実相寺がありました。南条時光氏は日蓮聖人が身延へ入ってから篤信の信徒となりますが、富士宮市の北西部一帯の上野地区の地頭をしていました。南条兵衛七郎と日蓮聖人の信頼関係はあつく、日蓮聖人は文永三年ころに墓参をされています。(第二部第四章第二節)。時光の母は松野六郎入道の娘です。この兄にあたるのが日持上人です。時光親子の日蓮聖人にたいしての信仰心は温存していたと思います。

西山郷(芝川町)には西山殿とよばれた大内太三郎平安清氏が地頭をしていました。大内氏は台密の信者であったのが日興上人の教化により日蓮聖人に帰依されたといいます。法名を安浄といいます。車返から大宮へ、大宮から南部への一五日、一六日の行程は、ゆっくりとした歩みなので、信徒と再会するかどうか、逡巡されていたその状況をうかがうことができます。冨士に拠点を置くために偵察されたわけではなく、あるいは、他宗の門徒などの奇襲を避け用心された道中であったかもしれません。また、鎌倉から平坦な行程を選ばれたのは、日蓮聖人の体力が弱まっていたためであると思われます。飢饉のため食糧を確保していたかもしれませんが、身延近辺にては不足のため買うこともできなかったとのべています。空腹をこらえながらの身延入りであったのかもしれません。

一七日に南部から内船を過ぎ身延に向かいます。横根に桜清水の祖師とよばれる玉林山実教寺があります。もとは、真言宗の寺があり不動院という山伏が住んでいました。日蓮聖人はここに立ち寄り休息されたといいます。のどの渇きをいやそうとしましたが、水が乏しい土地であったので水がありません。日蓮聖人は手にされていた桜の杖で岩をうがち諸天善神に祈ると、岩の隙間から玉のような清水が湧きいでたといいます。杖を地にさして水に困っている村人や旅人の渇きを助けるようにと祈ります。このとき、「手に結ぶ水の流れの久しきは、絶えぬみのりの(御法)の縁(えにし)なるらん」と詠まれました。その桜の杖から芽をだしたことから、桜清水の霊場,桜清水の常唱堂とよばれました。この井戸は今も水が湧いているといいます。不動院という山伏は改宗し、実教阿闍梨不動院日成上人と名のり開山となります。中老僧の日法上人に祖師像を依頼し、「お旅姿の御祖師像」、「願満高祖日蓮大菩薩」とよばれています。(『日蓮宗寺院大鑑』三三七頁。市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』一七〇頁)。

横根から身延にむかい相又川と大城(おおじろ)川が合流して、そこから波木井川となります。このところを相又とよんでいます。相又(相股)を通りかかったところで、大きな石のところで休んでいると、里史の正左衛門(薩化圧左衛門・史正左衛門)が、妻のかつに命じて日蓮聖人に粟飯を午餐に供養するよう勧めたといいます。のちに、日蓮聖人であることを知り、この縁により信仰心をもち身延山に登詣するようになります。妻かつは夫が死去すると子供をともない身延にて尼となります。法名を妙了日仏と名のり、下之坊を建てここに住み給仕をされました。妙了日仏は弘安五年に身延を下山するときに池上にともなっています。身延に納骨されてからも、御廟所の給仕をされたといいます。子供の是好麿はのちに日了と名のり自邸を寺とし、年号にちなみ大石(だいこく)山正慶寺とよびました。昔は少憩寺とも書いたといい、また、薩化(さつか)という名は、のちに粟飯にちなんで粟冠(さっか)と書いたといいます。(宮尾しげを著『日蓮の歩んだ道』一三八頁)。お産に苦しんでいた女性に、家にわき出ていた水をのませて無事に安産で子供が生まれたことから、山内にあるわき水は安産水とよばれています。法子日勢上人はのちに、日蓮聖人が村人に説法をされたという一の瀬に、妙了寺を建てたと伝えます。通称、粟飯寺とよばれています。(『日蓮宗寺院大鑑』三三六頁)。

日蓮聖人が身延に近づいたことを聞いた波木井氏一族の一条六郎信長の子太郎光家が、日蓮聖人のもとに案内につかわせます。波木井実長氏は途中まで出で迎えます。日蓮聖人と再会された場所が相又ともいいますが、通説では身延に着いた日蓮聖人は、馬よりおりて石に腰掛けて休まれていたといいます。(『身延の枝折』昭和一六年)。この石を御腰掛石といいます。里人の言い伝えでは相又が対面の場所であったといい、昔は「會又」と書いたといいます。逢島は休息をされたところと伝えています。(今村是龍著『身延の伝説』四頁)。『本化別頭仏祖統紀』には「身延澤」に着いた日蓮聖人を、実長氏は子息や親族を率いて迎えたとあります。この場所は発軫堂のところと思います。

いずれにしましても、日蓮聖人は無事に身延に到着されたのです。この場所が現在、総門を入ってすぐ左の玉垣に囲まれている所と伝えています。道中のことを『波木井殿御書』に、

「国の恩を報ぜんがために国に留り三度は諌べし。用ずんば山林に身を隠せと云本文ありと本より存知せり。何なる山中にも篭て、命の程は法華経を読誦し奉らばや、と思より外は他事なし。時に五十三、同五月十二日かまくらを立て甲斐国へ分入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただくが如し。谷に下れば穴に入が如し。河たけ(猛)くして船渡らず。大石流れて箭をつくが如し。道は狹して縄の如し。草木しげりて路みえず。かかる所へ尋入事浅からざる宿習也。かゝる道なれども、釈迦仏は手をひき、帝釈は馬となり、梵王は身に立そひ、日月は眼に入かはらせ給故にや、同十七日甲斐国波木井の郷へ著きぬ(一九三〇頁)

 身延山へ来る心中と、途中の道が険しかったことをのべています。足柄峠をこえてからは山中のけわしい道であったようです。それは縄が一本あるような狭い道で草木が大きく茂って道もわからず、前方も見えない道を歩まれたのです。川も猛々しく流れ大きな石が上流から矢のように流れてきて、船で渡ることも恐ろしい道中であったとのべています。しかし、釈尊は手を引いて身延へ招き、諸天善神は馬となり側に付き添って道中を護ってくれたとのべています。このところを、日蓮聖人は長年の志が酬いられず、追われるように身延へきたので、苦しいいやな旅で、その気持ちが旅をやりきれないものにした、という受け取り方もありますが(紀野一義著『日蓮配流の道』一五六頁)、もう一面には、釈尊や帝釈・梵天王、そして、日月の諸天善神が道中を護って下さったとのべていることから、身延がいかに尊いところであるかを語っていると思います。浅からぬ宿習とは悪い業縁ではなく、霊山浄土と化した深い聖地と思われます。

佐渡にいたときに最蓮房に宛てた書状、『祈祷経送状』に、山籠についての心構えをのべています 

「一御山篭御志事。凡雖背末法折伏行病者にて御座候上、天下の災・国土の難強盛に候はん時、我身につみ知候はざらんより外は、いかに申候とも国主信ぜられまじく候へば日蓮尚篭居の志候。まして御分之御事はさこそ候はんずらめ。仮使山谷に篭居候とも、御病も平癒して便宜も吉候者捨身命可令弘通給」(六八九頁)

 ここに、日蓮聖人も「篭居の志」があったことをのべています。鎌倉退出をもとより考えていたと受けとれます。そして、山谷に篭居隠棲していても「不惜身命」の志をもって法華経を弘通することをのべています。このことが、籠山に課せられた日蓮聖人の行うべきことだったのです。私たちは上田本昌先生がのべられたように、本化上行菩薩としての日蓮聖人の行者意識を忘れてはならないと思います。

日蓮聖人はここまで迎えに来られた波木井実長と対面されています。古来より「逢島」(おおしま)と呼ばれ山梨県の史跡になっています。日蓮聖人と波木井氏との正式な対面は身延山に所蔵されている絵によりますと、どちらも板輿(四方輿)で描かれています。この場所を記念して発軫閣(ほっしんかく)が慶安年間(一六四八~一六五一年)に建てられました。(田中智学氏『大国聖日蓮上人』四六六頁)。発軫とは最初という意味で、ここから始まったという意味です。日蓮聖人の身延での生活がここから始まったということをいいます。昔は小高い山であったといい、総門を造るときに土地を引き広めています。そのあと、邸宅に案内されます。この旧館の場所に建てられたのが波木井山円実寺です。弘安四年一一月に開創されています。寺名は波木井氏の法名に因み日蓮聖人が命名されたと伝えています。(『日蓮宗寺院大鑑』三三三頁)。また、波木井氏の出迎えを波木井川の対岸になる梅平でうけたともいいます。その由来から逢う島となったともいいます(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五四二頁。高橋智遍先生『日蓮聖人小伝』七五五頁)。梅平には寺がありますので、この場所をさすと思いますが、発軫閣とは離れています。梅平に波木井氏の館があり、ここに一旦ご休息になり、波木井氏が身延の沢にご案内されるとき波木井川をわたり、そして、小高い丘に登ってここから身延山や鷹取山(蒼鷹山『鷲の御山』一五二頁)など、四方をのぞまれたのでしょうか。身延の地にはじめて立たれたのは発軫閣のところであったのは事実と思われます