171.身延山の地形について                高橋俊隆

〇身延山の地形

そこに案内された日蓮聖人は、しばらく逗留することを了承されたといいます。日蓮聖人の心中において、このときは「かりそめに庵室をつくりて」(『庵室修復書』一四一〇頁)と、定住を確定したことではなかったのです。波木井氏も日蓮聖人が固辞されたので、小茅(仮住まい)の規模の草庵を建てられたといいます。(『鷲の御山』八頁)。しかし、日蓮聖人は身延の所在や環境について詳しく調べています。日蓮聖人の遺文には鎌倉時代のさまざまな分野の史料が見いだされています。それは、日蓮聖人の歴史認識にあると思います。甲斐における地誌にも貴重な文献となっています。身延の所在について『下山御消息』に、

「文永十一年夏の比、同甲州飯野御牧、波木井の郷の内、身延の嶺と申す深山に」(一三一二頁)

と、のべていますように、身延は甲斐の国、河内領の巨摩郡になります。古い文献には「駒郡」とあります。駒とは馬のことで、朝鮮の高句麗との関係が深いので巨摩という説があります。行学院日朝上人の記述には「胡麻郡」とあります。四方を山にかこまれ山と山との間の狭く細長い土地ということから、交(かい)・峡(かい)の国と呼ばれたともいいます。「甲斐」の文字が使われるようになったのは奈良時代の『風土記』のころといいます。山梨県と改められたのは明治になってからです。身延町は山梨県の南部に位置し、この地方は古くから河内地方とよばれていました。河内とは富士川とその支流の早川流域の一帯をさします。峡南地方ともよばれています。身延山は波木井郷にあります。この波木井郷は飯野御牧にある三ヶ郷の一つになります。波木井郷いがいの名称はわかっていません。飯野・御牧・波木井を三ヶ郷とするのは誤りといいます。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』二三四頁)

『甲斐国志』によりますと飯野が今の大野であるとあります。飯野牧は牛馬を飼育するところをいいます。馬城の「むまき」が古い名称です。つまり、御牧とは平安時代に朝廷(皇室)で使用する馬を飼育する牧場のことで、厩牧令で定められた令制の牧や、『延喜式』の兵部省に規定された官(公)牧のことをいいます。この『延喜式』に御牧・諸国牧・近都牧とあり、御牧はまた勅旨牧ともいい左右馬寮の直轄であって、甲斐・武蔵・信濃・上野の四ヵ国に合計三二ヵ所の牧を置いたとあります。これは馬文化をもった高句麗の集団が信濃に入り、甲斐にも伝搬して馬文化が入ったといいます。その時期は六世紀から七世紀にかけてのことで、一〇世紀には牛馬を放牧して名馬を輩出する領域に発展していたと思われます。(『日本の古代』2、中央公論社.森浩一稿、一一六頁)。官牧としての御牧は、産出した馬を年一回貢馬(くめ)として匹数を割り当てられて、朝廷か幕府へ貢進しています。この官牧と私有の牧である私牧(しのまき)があります。甲斐にある勅旨牧は三ヶ所(柏前牧・真衣牧・穂坂牧)に置かれています。私牧のなかに南部牧がありました。日蓮聖人は「南部波木井郷」(『光日房御書』一一六一頁)とのべ、また、「飯井野御牧」(『松野殿女房御返事』一三一二頁)にある波木井郷とのべています。南部牧のことを飯野御牧と呼称していたと推測されるところです。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』二三三頁)。また、この場所は波木井以南の富士川西岸の地域で、飯野御牧とあるのは、波木井、相又、大野付近の私牧を指し南部牧に含まれるといいます。時代を経るに従って耕地化され、広大な牧場とはならなかったのです。また、甲州南部牧と奥州南部牧の関連がみられます。日蓮聖人が愛でた栗鹿毛の名馬は飯野御牧の出生と思われます。

『身延町史』によりますと、「「御牧」について考察を進めて見よう。やはり甲斐国志所載の文を引くと「南部御牧、飯野御牧ハ弘安年中日蓮法師ノ書中ニ見エ飯野ハ南部ノ内ナリ今大野ニ作ル共河内領ニ在リ」と記されている。この中の「御牧」とは牧場のことであるが、このことは、延喜武左右寮の筆頭に、甲斐の三牧として真衣野、柏前、穂坂があげられている。これ等はいずれも官牧であり朝廷直轄牧場である。しかし平安後期地方武士階級の台頭(これはさきの荘園の下司職や国司庁役人であった。甲斐においても源義光の子義清が八代郡青島庄(今の市川大門町付近)の下司職として都から派遣された。やがてその一族が甲斐源氏となり、甲斐国内に覇(は)を唱えるのである)とともに武力としての馬が一層必要となったため、彼等はさきの官牧を押領(おうりょう)し、その上になお新たに牧場を開いた。特に巨摩郡は土地が広く、人口が稀薄だったため、彼等の牧場としては最適地であったのである。日蓮在世中の弘安年中とは、平安末から数えて八、九〇年に過ぎぬので、南部御牧飯野(大野)御牧は、そうした平安期末の社会状勢の中から生れた新興牧場の一つであることは間ちがいないであろう。」と記されています。身延地方は荘園や寺社領などの束縛がある土地ではなかったのです。しかし、身延・七面山の山岳と河川は信仰の霊地としては必須の条件をそなえていました。『秋元御書』に、

「東海道十五箇国。其内に甲州飯野御牧三箇郷之内、波木井と申す。此郷之内、戌亥の方にて入りて二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山也。板を四枚ついたてたるが如し。此外を回りて四の河あり」(一七三八頁)

と、波木井郷は北に身延山(一一四八㍍)、南に鷹取山(一〇三六㍍)、東に天子山(一九八二㍍)、西に七面山(一九八二㍍)に囲まれたところとのべています。鷹取山はかつて皇室の狩猟山であり、鷹を生育して献上していた名鷹の山であったので鷹取の山と呼ばれたといいます。(「延嶽詩偈集」。町田是正稿「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七九頁)。天子山は富士郡柚野村稲子の西嶺にあり、身延からは見えがたいといいます。この外をめぐって北に早川、南に波木井川、東のほぼ中央に富士川が南流しています。波木井川にそそぐ身延川が滝となっています。草庵のそばを流れる身延川は総門付近で波木井川に合流します。波木井川は上流から流れてきた大城川と相又川とを合わせて全長四㌔の長さをもって富士川にそそいでいます。富士川の流れが速く「河水は筒中に強兵が矢を射出したるがごとし」(『新尼御前御返事』八六四頁)という当時のようすをのべています。さらに、八絋嶺とよばれる一五〇〇㍍以上の山々が連なっています。身延山は山と川に恵まれた断層地形のところで、日本を東北と西南に二つに分ける構造線(糸魚川―静岡)にあります。大地溝帯(フォッサマグナ)といわれるもので、身延山はこの東側に接近しています。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』一二二頁)。七面山・安倍峠、そのほか一千㍍以上の山並みを構成している山地を中世層と呼んでいます。静川層・櫛形山層・西八代層などがあり、静川層は身延町内に広範囲にわたり富士川の西岸に分布しています。鉱物資源としては大城付近に沸石(ゼオライト)が見られます。ゼオライトはイオン交換能をもつため、水質改良剤や土壌改良剤としても用いられます。合成ゼオライトを用いることでメタノールからガソリンを合成することに成功しています。榧の木トンネルの南の県道脇に輝銅鉱床と緑色の孔雀石があります。大久保部落にも銅鉱床があります。湯平には金鉱(砂金)の採鉱跡があります。(『身延町誌』二三頁)。身延山は玢岩(ひんがん)類の崩壊した砂礫層で、杉・檜などの生育に適した緑に恵まれた環境でした。

身延のようすを『新尼御前御返事』に、 

「あまのり(海苔)一ふくろ送給了。又大尼御前よりあまのり畏こまり入て候。此所をば身延の嶺と申。駿河の国は南にあたりたり。彼国の浮島がはらの海ぎはより、此甲斐国波木井の郷身延の嶽へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづらはし。富士河と申日本第一のはやき河、北より南へ流たり。此河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風を立並べたるがごとくなり。河水は筒中に強兵が矢を射出したるがごとし。此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ、舟破て微塵となる。かかる所をすぎゆきて、身延の嶺と申大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四ついたて(衝立)たるがごとし。峰に上てみれば草木森森たり。谷に下てたづぬれば大石連連たり。大狼の音山に充満し、猴のなき谷にひびき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひびきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬なる。たまたま見るものはやまかつ(山人)がたき木をひろうすがた、時時とぶらう人は昔なれし同法(朋)也。彼の商山の四晧が世を脱し心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山かくやありけむ。峰に上てわかめやを(生)いたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ並立たり。谷に下てあまのりやをいたると尋れば、あやまりてやみるらん、せり(芹)のみしげりふ(茂伏)したり。古郷の事はるかに思わすれて候つるに、今此のあまのりを見候て、よしなき心をもひいでて、う(憂)くつらし。かたうみ(片海)・いちかわ(市河)・こみなと(小湊)の礒のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我父母かはらせ給けんと、かたちがへ(方違)なるうらめ(恨)しさ、なみだをさへがたし。」(八六四頁) 

と、身延の地理地形や環境、同朋が訪ねてくることや生活のようすを知らせています。波木井河の中に一つの滝があり、この一つが身延河とのべています。(『秋元御書』一七三九頁)。「みのぶ山ひとり案内」には「ミな(水)上は三十三たき(滝)のながれニて、ミのぶ川と申なり」とあり、高山から流れでる水量が多かったことがわかります。ほかに、『妙法比丘尼御返事』(一五六三頁)『上野殿御返事』一五七二頁『秋元御書』(一七三九頁)などに、四山四河の地形や、昼でも日がささない深山であること、雨がふると道路に瓦礫が流れこみ通行停止になったり、堤防が決壊し河の水量がふえて舟も停止することなどをのべています。

 日蓮聖人がはじめて身延に入ったころと現在は、大きくかわっているといいます。身延山の参詣案内を絵図にしたものをあげますと、古い資料につぎのものがあります。 

『甲州身延山久遠寺総絵図』――――――――延宝二(一六七四)年 釋禪妙撰

『久遠寺参詣記』(挿入略図) ―――――――延宝九(一六八一)年

『甲州身延山久遠寺絵図』―――――――――貞享元(一六八四)年 妙信院法悦

『身延鏡』(挿入略図) ――――――――――貞享二(一六八五)年(『身延根元記』洛陽之沙門・脱師著)

『身延山絵図』(宝永前期)――――――――一七〇四~一七一一年

『身延山図経』――――――――――――――寛保元(一七四一)年(『延嶽図経』寂妙居士・成島信遍編)

『身延山絵図』(波木井織部版。宝歴後刊)―一七五一~一七六四 

「身延鑑」(貞享二年)の挿図では位牌堂前方東に五重らしき塔があるといいます。ただし、「身延鑑」が刊行された貞享二年には、五重塔はすでに山ノ上に移建されています。『身延山図経』の著者は、弘化四(一八四七)年に出版された三浦平八の「法華宗門目録」のなかに「身延図経寂妙」とあることから、寂妙という人物が著したという兜木正亨先生の説を紹介しています。(『身延鑑』二五八頁)。

 これらの資料は日蓮聖人が身延に入山されてから四百年を経ていますので、入山当初の粗野な地形とは変わっていることは確かです。しかし、入山当初の身延の山容や、当時のことを伝えた口碑などが散見できます。このうちの、『新訂身延鑑』(平成一三年)と、『身延山図経』(『延嶽図経』)を参考にして、見ていきたいと思います。ただし、『身延鑑』は貞享二(一六八五)年の開版ではなく、その後の、宝暦一二(一七六二)年版と天保一五(一八四四)年版によっています。『身延鑑』の諸堂の配置や景観は身延山三二世日省上人代(在位一六九八~一七〇四年)いこうから、遠沾日亨上人・見龍院日裕上人・誠峰院日意上人、そして、三六世日潮上人(在位一七三六~一七四四年)ころまでの複数の資料により作成されたと見られています。(北沢光昭稿『新訂身延鏡』二四九頁)。また、著者については『日蓮宗年表』(三〇五頁)天和元(一六八一)年のところに、「この頃一円院日脱、身延鏡三巻を編纂集」とあることから、身延山三一代一円院日脱上人といいいます。京都立本寺から身延山に入られ、二〇年在山された身延中興の三祖と称せられます。(藤井教雄稿『新訂身延鏡』二五三頁)。

『身延鏡』は延宝四(一六七六)年の三月に一人の旅人が都を出立し、東海道をくだり身延山に登詣されるところから始まります。旅人が総門へ到着し山を眺望しながら休憩していますと、このとき六〇歳ほどの老僧が題目を唱えながら歩いてきます。都からはじめて登詣したことを聞き、天候も麗らかなので諸堂を案内し、自分も順礼したいとのべ身延山と諸堂などのいわれを説明しながら歩むという書き出しから始まっています。総門から三門、菩提梯、二天門、本堂、祖師堂、位牌堂、水鳴楼、御真骨堂、東の蔵、西の蔵、上の山の五重塔、丈六堂、奥の院思親閣へ登ります。ここから西谷の大講堂へ降り、身延川をわたり御廟所の三昧塔頭をお参りします。ここまでが上巻です。中巻は身延山の五岳八峰の由来、波木井氏の身延山寄進のこと、身延山歴代の先師、年中行事、武田・豊臣・徳川家代々の禁札や御会式三ヶ日は関所免許の恩典があったことを記しています。下巻は七面山と七面天女のいわれを書いています。また、武田信玄の身延攻めにふれています。

このように、『身延鑑』は諸堂の由来などを知る貴重なものです。この堂塔の景観や地名を知るには、『身延山図経』の絵図としての価値が高くなります。『身延山図経』には東海道をくだり岩淵から富士川にそって身延道を歩みます。南部・内房を進み総門へ到着します。これらの身延山案内の絵図をみて気づくことは、身延山の諸堂の配置や名称が時代によりかわっていることです。これは、身延山の発展と隆盛をあらわしているとはいえ、なぜ、名称を変えたのかと思います。『甲州身延山久遠寺総絵図』・『身延鏡』・『身延山絵図』(宝永・宝暦)・『身延山図経』にあらわされた地形や諸堂の配置の違いに、身延山の歴史を見ることができると思います。