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〇蓑夫(身延)『身延鏡』によりますと、老僧はこの場所は波木井の郷の乾にあたる「蓑夫の沢」というところであることを教えます。日蓮聖人が文永一一年の五月一二日に鎌倉をたち一七日に、この沢に入ったとのべます。この沢というのは約三㌔の長さの身延川のことです。沢は細い川や短い川の通称といい、広い河原を有する沢もあり、川と沢との区別は曖昧なところがあるといいます。一般的には山の斜面を刻む小さな谷で、雨が降ったときは水流がみられるところをいいます。しかし、地方によってはかなり大きな谷で、つねに水が流れていても沢とよぶところがあります。身延の沢は流れの強いところであったと思われます。また、この身延の沢は草庵の近辺だけを指すのではないことがわかります。日蓮聖人が自分の墓所を「みのぶのさわ」(『波木井殿御報』一九二四頁)に置かせてほしいとされた場所は、この身延渓谷の一帯をながめられるところに、という気持ちであったと思われます。身延川の上流に懸崖から急激に落ちる「身延の滝」(『妙法比丘尼御返事』一五六三頁)があります。また、波木井河にある滝を身延河と名づけたとのべています。(『秋元御書』(一七三九頁)。この表現からして身延川は平らな平地をゆったりと流れる川ではなく、高山の勾配と段差がはげしく小さな滝が連なるように流れていたと思わせます。このなかでも大きな「身延の滝」の近くに草庵があったので、感覚的に「身延山のほら(洞)」(『上野殿御返事』一六二一頁)と表現されています。激流により大地が大きく削りとられた場所であったと思われます。川の流れの音と水量の多いときには滝の岩を打つ音が響いていたのでしょう。 そして、老僧は波木井実長とはじめてあったところを逢島と名付けたということ、ここに、総門を建てるとき小高い山を平らに広げたこと、もとから左右に二つの大きな石があり、左に文殊坊があり、右に円柳坊があること、そして、日蓮聖人と波木井実長の御影堂(発軫閣)があることを教えます。蓑夫という地名を日蓮聖人が「身を延ぶる山」と書き改めたことも教えています。 さて、「みのぶ」の地名について、「南部」(みなべ)、「蓑夫」(みのふ)、「蓑生」(みのう)、「箕面」(みのお)などの諸説あります。 ・「南部」(みなべ) 語源を「水のほとり」を意味する「みなべ」ではという説があります。また、波木井氏は南部(なんぶ)氏といい居住地を南部といいます。この南部の地名は和歌山にもあり、そこでは「みなべ」と読んでいます。このことから、南部も元来は「みなべ」といったのではないかという説があります。(山中講一郞著『日蓮自伝考』三八一頁)。現在の和歌山県の南部(みなべ)は梅の産地として知られています。食用の梅の花ということで南高梅(なんこうばい)の花が満開となる南部梅林が有名です。 波木井実長氏の父光行氏は甲斐源氏の一族であり「なんぶ」と呼称しています。源頼朝の奥州征伐に光行が下向したことにより、糠部(ぬかのぶ)五郡の知行をすることになります。岩手県の北部から青森県、下北半島などの広い地域になります。そして、子孫の南部一族が甲斐を本領としながら、南朝を奉じて奥州における活躍をします。いわゆる、「甲南部」といわれるものですが、これを「こうなんぶ」と読みます。(中里日応稿「日蓮聖人の身延御入山と南部一族の動向」『棲神』四五号所収三九頁)。「南部」の読み方は「なんぶ」であり「みなべ」ではなかったようです。南部氏についてはほかに宮崎英修先生の『波木井南部氏事蹟考』があります。 ・「蓑夫」(みのふ)、「蓑生」(みのう) 「みのぶ」の語源は山の姿が蓑を着た人が蹲踞した姿に似ているいう説があります。また、この近辺に蓑を作る人が多く住んでいたことから「蓑夫」(みのふ)と呼ばれたといいます。ほかに、蓑父とも書かれ、「蓑生」(みのうふ)ともいいます。(町田是正著「『身延山秘話外史』一五七頁)。『報恩抄』(一二五〇頁)の末尾には「自甲州波木井郷蓑歩嶽」とあります。いずれにしましても、『波木井殿御報』(一九二四頁)にある「みのぶさわ」は、『新訂身延鏡』(一九頁)にある「蓑夫の沢」にあたります。つまり、「蓑夫」・「蓑歩」を「身延」としたのは、日蓮聖人の改名によるということです。「蓑夫」を「身延」と当て字されたのは、文永十二年二月十六日に「此所をば身延の嶽と申す」とのべていることから、入山されてまもないころに「身延」と当て字されていたことがわかります。日蓮聖人が入山される以前は「みのぶ」と呼ばれていたことは明らかで、その語源は「蓑」に関連していたことがわかります。「身延山」(しんえんざん)と呼称するのは、日蓮聖人がこの地において九年のあいだ「心やすく」生活することができた、とのべたことから、心身ともに安穏に法華経の人生をおくれたという、延命長寿の願いがこめられています。 ・「箕面」(みのお) 『身延町史』(八〇頁)に「甲斐国志古蹟部第一四「蓑夫ノ里」の項を引いています。これによりますと、『身延鏡』と同じように西行法師(一一一八~一一九〇年)の歌と伝える「あめしのぐ蓑夫のさとの垣柴に、すだちぞ初むるうぐひすのこえ」を紹介しています。これは「蓑夫」という地名が一般的に知られていたことがわかります。そして、鎌倉後期の私撰和歌集である藤原長清の撰、延慶三(一三一〇)年ころとされる。万葉集以後の「家集」・「私撰集」・「歌合わせ」などの撰から漏れた歌一万七千余首を、四季・雑に部立てし約六百の題に分類した「夫木和歌抄」(ふぼくわかしょう)に、「わすれては雨かと思ふ滝の音に みのお の山の名をやからまし」とある一首をあげています。そして、「和歌諸集ニ摂州豊島郡箕面山ノ歌アリ、彼ハみのおト云本州ハみのぶナリ。夫木集津守国助トアルハ蓑夫ノ滝ヲ咏スルニ似タリ。此類尚多カルへシ蓑生浦ハ筑前ニ在リ是モ諸集ニ和歌アリ」とあり、摂津箕面山「みのお」(大阪府箕面市)と、本州(山梨見)の蓑夫「みのぶ」(身延)、筑前(福岡県福津市)の蓑生「みのう」浦(訓「美乃布」、「ミノフ」ともいう)の三者が一連の関連があるように記されています。ここで注目されるのは箕面山です。 箕面山は修験者の霊場です。ここの修験者たちが蓑をかぶって身延山や七面山を登って修行をしていたので「蓑夫」とよんだという地元の説があります。このことは身延山一帯が修験者の修行の山岳であったことをしめしています。平安時代に修験者たちがこの地に往来し、摂津の箕面をとって「みのふ」と名付けたという説と同じ根拠です。昔は波木井のなかの無名の地であったのを、いつしか「みのふ」から「蓑夫」と宛て字されたと考えられています。(中里日応稿「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収三二頁)。 文化一一(一八一四)年に松平定能により成立した「甲斐国志」に、摂津の箕面山と甲斐の蓑夫と関係があると記されています。箕面山の寺伝によりますと、箕面山は役行者が六五八年あるいは六五〇年に開いた修験の山であり、大滝のもとで修行をかさね弁財天の加護をえます。これにより役小角が箕面滝の下に堂を建設し、本尊の弁財天像を安置し、箕面寺としたのが始まりといいます。役小角が奉納したと伝える弁財天像 は日本四弁財天の一つとなっています。弁財天を祀っている所から、芸能の寺としても知られ、近松門左衛門、坂田藤十郎ら上方歌舞伎関係者が大般若経を奉納しています。 修験道では役行者を開祖として崇めます。その理由は、大峰山中で守護仏の蔵王権現を感得し、摂津の箕面山の滝穴で龍樹菩薩から秘印を授かったとするところです。その役行者の修行にしたがって大峰・葛城などで峯入り修行をするのです。(『日本仏教史辞典』四六〇頁)。修験道の法流は大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されます。当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師にはじまります。本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていきました。箕面山は滝を中心にして山嶽修行のメッカとなりました。後醍醐天皇が隠岐に島流しになったときには、護良親王が当寺に帰還祈祷を依頼したといいます。その後、瀧安寺という寺号を賜ったとされます。現在は大阪府箕面市箕面公園にある本山修験宗の寺院で箕面山龍安寺となっています。ここで、日蓮聖人も修行したと龍安寺の縁起にあります。日本で初めて宝くじの発祥である富くじを始めた寺院として有名です。富くじ発祥は天正三(一五七五)年に始まる「富会」であり、平成二一(二〇〇九)年には富くじが復活しています。身延も総門を入った寺平に真言宗の当山派の修験道の拠点があったといいます。(望月真澄著『御宝物で知る身延山の歴史』一五頁)。寺平にあったと考えられる真言宗の修験道場は、それなりの修験者が集まった山岳宗教地となります。 『身延町史』(八一頁)の記述を引用しますと、「箕面山は役小角開創の修験の山であり、麓には滝安寺という修験道場があり、しかも弁才天を祀るとあるので、当然山岳信仰を基本とする修験と密接な関係が予想される。さらに、大辞典には、箕面山を「ミノモサン」とあって、箕面と蓑夫は密接な関係があるように推察される。奈良朝より平安、鎌倉期の五〇〇年間に全盛を極めた修験道は、大阪、奈良の葛城山、大峰山等よりその源を発し、遂に日本全土の山岳にその足跡が及んだのである。山岳国の甲斐にも当然その足跡は印された。「蓑夫」の名称も平安以降における修験者が、この地に来て摂津の「みのも」をとって蓑夫と名付けたものであろう。往昔は前述の通り、今の身延は波木井郷の中の無名の地であったに相違ない。これを「みのふ」と名付け「蓑夫」とあて字されたのであろう。「蓑を着た杣人(そまひと)が蹲踞している形に似ているので蓑夫と名付けられた」と伝えられているが、身延山の山形はどう見ても蓑を着た杣人の蹲踞した形とは思えない。恐らく後人の付会であろうと思われる。また一説には、「蓑生」と書き、この山に「蓑草が一面に生い茂っていた」ために名付けられたと伝えられているが、身延は蓑草が生い茂るような土壌でもなく、気候も温暖ではない。むしろ高山植物が繁茂するに適した気候風土である。だから「蓑生」も後昆の牽強説に過ぎないものと推察されるのである。一体蓑は、蓑草という蓑専門の草があるわけでなく、蓑作りの材料となるものは、稲わら、スゲ、ビロウの葉、藤、棕櫚の皮等を編んで作るものであり(世界百科辞典)、当時未開の身延の地に稲わら、ビロウ、棕櫚、藤等が群生していたとは考えられず、もしあったとしたら、野生のスゲの類であろう。スゲはカヤツリ科の多年生スゲ属の総称で、温帯から寒帯に分布しており、日本にも二〇〇種類が知られており、田の畦や路傍の雑草として自生し、茎は三稜形、葉は線形で束生するが、蓑を作るには傘スゲ、ショウジョウスゲではなくてはならず、現在の身延ではこの種のものは見当たらない。こう考えると「蓑生」の名称が「身延」に変ったということは信は置けない。」と記載されています。また、この『身延町史』の稿を補足した中里日応先生の「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」(『棲神』四二号所収七九頁)に、身延の地名が蓑草によってできたのではないと重ねてのべられ、修験道の箕面山の「みのお」=「みのもさん」に関連すると推測されています。「蓑生」も後人の附合した名称と考えられています。つまり、「蓑夫」の地名は箕面山の山岳宗教地として名付けられたもので、そのほかの伝承は事実ではないとのべています。さらに、役行者が修験の道場とした箕面山と弁財天から推測できるのは、七面山信仰の起源を箕面山に求めることにより、弁財天を本地とした七面天女と結びつくと思われることです。 『日蓮聖人註画讃』に「六月一七日二始テ結庵於身延山、如許由隠于箕山ノ中二齋避于首陽下」と、「箕山」(きざん)の表記があります。箕面山とは関係ないと思われますが、許由は尭帝が位を譲ろうと言うと、汚れたことを聞いたと、潁水で耳を洗い、箕山に隠れたと伝えられる故事を引いています。 |
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