173.寺平塔林(身延山)                     高橋俊隆

〇寺平塔林

逢島より一町(約一〇九㍍)ほど進んだところに太平橋があります。極楽橋のことです。橋をわたり右にまがり狭い地獄路を二~三百㍍進むと殿前(どのまえ)という丘状の場所にでます。かつて、「殿進」という豪族が館をかまえていたことから、この地名がついたといいます。あるいは、現在の鏡円坊の境内にあったとされる波木井氏の館と、波木井川をはさんで対面していたことから「殿前」と呼んだと伝えています。殿進に墳墓があり古くから小児の虫歯の守護神とされています。(町田是正稿「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七〇頁)。日蓮聖人が身延山に入るいぜんのことですから、言い伝えが確かなこととはいえません。しかし、伝承には形はかわっても真実に近い由緒があるものです。小さい子供と虫歯にかかわる悲しい出来事があったのかも知れません。

この近くに寺平山があり、舟久保などの段丘があり、平らになったところを寺平塔林といい、真言宗の寺塔があったといいます。南部藩の宇部方平太夫の報告文にも書かれているようです。(森宮義雄著『七面大明神のお話』一一二頁)。『鷲の御山』(七七頁)に、稲荷祠の上にある文殊坊の山の上が寺平塔林の場所と書いています。そして、日蓮聖人が身延に入山されるまえに真言宗の寺塔があった、ということを載せています。中里日応先生も『身延鏡』の記載から、寺平がこの地区における修験山伏の一拠点であったのではないかとのべています。(「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収)。また、『身延町史』を編集するため、寺平お塔林と覚しきところを調査されたら、古代瓦の破片を収拾されたとのべています。(中里日応稿「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収八〇頁)。また、下山地区に「寺尾根」という地名があり、そこに寺院跡の礎石が残されています。(一説に下山本国寺の前身平泉寺のあったところとか)。ここから加藤為夫が器物を発見し、それについて「灰釉の状態から、平安末から鎌倉期へかけてのものだろう」と、のべています。寺平からは紀元前二千五百年縄文中期の遺跡と遺物が発見されています。御塔林とよばれる場所から古代瓦の破片が発見されています。この布目瓦の一片は望月虎茂氏が近くの畑から採集したものです。(「身延の伝説」『身延町誌』七六頁)。それが長福寺(「南部文書」)の瓦と思われます。

御塔林は標高四〇七㍍を最高地点とする平坦な丘陵です。官公庁の土地台帳に「御塔林」(おとうばやし)とあります。風致地区に指定されているので大きな造作はできませんが、聖園墓地や身延山大学のグランド、駐車場が整備されています。身延町内の随一の景勝地となり視界が四方に広く眺望できます。西に身延山、そして、七面山の七板崖が望めます。

『新訂身延鏡』(二三頁)に身延の総門の「右の方の山の平をば寺平塔林ト申し、大聖人入山のかしら、真言宗の寺塔あり、今の多宝塔なりと申し伝えり」と書かれています。つまり、日蓮聖人が入山される前に寺院があったということです。「寺平」という地名について久遠寺発行の「身延の枝折」に、「伝説によれば、この地には往古大寺院が存在したということで、地名に関する伝説として伝えられている。その大寺院の五重の塔のあったところと伝えられている地が、「お塔林」という地名で残っている。宗祖御入山以前の伝説で、現在では地名と口碑以外には何等考証すべきものは残っていない。」とあります。ここに「宗祖御入山以前の伝説」と書かれています。伝説として認識すればよいのでしょうか。しかし、小室妙法寺の前身が真言宗の修験道場であり、七面山とつながりがあることから、七面山への経路として身延山に施設があったことは考えられます。また、身延山と七面山を経路する妙石坊の法輪石、洗足の願滿稲荷社、十万部寺などの諸堂や、妙法二神(妙太郎と妙次郎の天狗という)、役行者、七面天女などの縁由も、日蓮聖人が入山される以前から存在していた形跡があります。役行者は大峰の菊丈窟にこもって蔵王権現の示現に接します。役行者は大峰と葛城を交互に巡行したことから、役行者を見習って多くの行者が大峰と葛城を目指しました。役行者は嶺と嶺とに橋を架けて修行をし易くしようとし、山々の神々などを動員して完成させようとします。その使者としたのが前鬼と後鬼です。室町時代ころといわれる『役行者本記』には、この二人が回峯した山のなかに甲斐身延山が入っています。つまり、身延山は役行者は前鬼と後鬼を引き連れて開いた山になります。(知切光蔵著『日本の仙人』二〇頁)。また、役行者が五十歳の春に七面山を巡峰したとあります。現在、役行者像の中で最古の像(平安時代後期)は、山梨県甲府市七覚の円楽寺に祀られています。役行者伝承の生成には、甲斐から相模の修験者の活動が重要な役割を果たしてきたと考えられています。(日本大蔵経編纂会編『修験道章疏』第三巻、鈴木学術財団編『日本大蔵経』第九六巻)。

町田是正先生は地元の清澄町(新宿・しんしく)の里人が伝えるには、日蓮聖人が入山される以前に寺平に「長福寺」(ちゃんぷくじ)という寺があったことをのべています。そして、この長福寺を拠点として山岳修験者が蓑夫山と七面山を跋渉し、寺平には五重塔が建っていたといいます。(「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七三頁)。しかし、寺平に寺塔が建っていたという文献はありません。「寺平」という口碑は「たいら」を「ていら」と発音する地元の清住の訛りで、丘陵台地に平坦に広い場所ということから、「ていらでえら」になり「てらでえら」となったと考えられます。(今村是龍著『身延の伝説』一八頁)。しかし、「お塔林」と呼ばれた土地は五重塔があったと伝えられており、「寺」は一概に「平」が転訛したとは言い切れないようです。ただし、『延嶽詩偈集』・『身延鏡』いぜんに記載された文献はないといいます。また、宝永年代(一七〇四~)の「身延山絵図」にも記載されていません。その後の宝暦年代(一七五一~)の「身延山絵図」に「寺平山」の記載があります。

『身延町史』(八一頁)に「寺平、塔林に真言宗長福寺があり、真言当山派の修験の道場として、この地区における行者の拠点であったろうと推察されるのである。寺平の真言宗長福寺を拠点として、身延山、或は七面山等の山々を跋渉し、修行したのではないかと推察されるのである。そして日蓮聖人が文永一一年身延入山後、七面山勧請の弁財天女が、聖人説法の座に妙齢の女人に身を変えて聴聞し、法華経の功力によって、末法法華経行者守護神として、また身延山守護の善神として自ら誓願し、七面山に鎮座したのではなかろうか」、と記載されています。つまり、ここでは、役行者―箕面山―弁財天女―身延山―七面山―七面天女、という図式がなされています。

のちの、永仁五(一二九二)年に波木井実長氏は、鎌倉から身延に参詣した日朗上人と七面山に登り、山上に新たに祠を建て、末法総鎮守七面大明神と号したといいます。七面明神が史実に表れたのは、それから三百年後の天正二〇(一五九二)年に図示された、雲雷寺日宝上人(大阪雲雷寺開山身延末)の曼荼羅の中に勧請されたころといわれます。身延一八世妙雲日賢上人は文禄五(一五九六)年に、「七面大明神宝殿、常住守護本尊」を図顕しています。『日蓮教団全史』に七面信仰は、天文年間(一五三二年)より天正年間(一五七七年)、すなわち、身延一四世日鏡、一五世日叙、一六世日整のころ発生し、この三代の間に具体的信仰形態が整ったものであろうとしています。

しかし、寺があったことを載せているのは『身延鑑』のみで、『身延山図経』などにはでていません。(町田是正稿「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七三頁)。早川町黒住一七一に真言宗醍醐派の宝竜寺が一〇二〇年ころ創建されたといいます。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』一一二頁)。長福寺に関する口碑について、根拠のない伝説とも思われないので現地の精細な調査をのぞむ所以です。(町田是正著『身延山秘話外史』一五八頁)。これらのことから、身延山は大峰山と小室妙法寺をむすぶ、この地区における修験山伏の一拠点であったと推測されることです。(中里日応稿「日蓮聖人身延御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収。森宮義雄著『七面大明神のお話』五四頁)。痕跡は残らず口碑のみが伝承されたのは、小室妙法寺などの大寺院の管轄におさまる小規模な道場か、修験者の食料を確保する宿所などであったと考えられましょう。

 大峰山の釈迦岳と大日岳の間に深仙の宿(大峰中台八葉深仙大灌頂堂)があります。山伏はここで灌頂をうけて大日如来との一体感をもつ大事なところとなっています。ここの本堂は三間四方の小さな堂で役行者を本尊とし、前鬼後鬼・八大金剛童子・不動明王を祀っています。この深仙の堂は宿とよばれているように、修験者たちの参籠の場所であったといいます。地理的には熊野と金峰山のほぼ中央にあたり、入峯修行の中継地になっていました。山伏村であった前鬼から二、三時間で登れるところになります。外川の仙人堂も羽黒山伏の錫杖の振り始めといわれた所です。ここは出羽三山道に登詣する者を乗せた渡し船や筏が到着するところですが、近くに女人堂があり修験者の集まるところであったのです。この仙人堂は頼朝から追われて奥州平泉に落ちのびる途中に、義経一行が立ち寄ったといわれます。 仙人堂(外川神社)の創建は、源義経の従者の常陸坊海尊が鎌倉時代初期に開いたと伝わっています。また仙人堂付近は、松尾芭蕉が「奥の細道」に、「さみだれをあつめて涼し最上川」を、「さみだれをあつめて早し最上川」と変えた場所としても注目されています。『甲斐国史』に天文年間のことですが、甲斐地方は真言宗の当山派の修験道の寺院が多く、文政年間にかけて二四六ヶ寺に達したことを書いています。また、本山派の始め頃の修験者は「カスミ場」や「先達場」という寺院形態の施設にいたことが書かれています。「カスミ(霞)場」とは主に修験者たちが修法をして金品の布施を受けたり、宿坊(坊入れ)として金銭を得る檀那場の領域をいいます。略して「霞」と呼び、俗に山伏たちのことを「霞を食して生きている」というのは、本来は経済的な基盤となっていたことを意味しています。「先達場」も同じことです。先達は入峯回数により階層化されます。御師(おし)という正式の祈祷師がいて、檀那との仲介をしたのが先達・講元です。御師が霞廻りをすることを檀那廻りと呼んでいました。この霞を支配したのが別当です。この先達組織が形成されたのは一一世紀ころですが、霊場をめぐる支配権や守り札の発行、宿坊の有無などの違いはありました。(『日本民俗大辞典』上。三五〇頁)。

ここで、身延山の役割として考えられることは、修験者たちの食料確保と情報交換の場であったことです。天候不順のことなどがあり、ここに参籠して体力を整えたかもしれません。また、修験者といえども奥駆けの不安がともないます。同行の者どうしの励ましの場であったとも思います。行尊僧正(一〇五五~一一三五年)は、第六七代三条天皇の第一皇子、敦明親王の孫ですが、大峰・葛城・熊野などで修行を積み験力無双の高僧として知られ、院政初期の白河・堀河上皇の護持僧となっています。和歌においても西行に大きな影響を与えています。その和歌が、『金葉和歌集』(五七六)にあります。「大峰の神仙(深仙)といえる所に久しく侍りける同行ども、皆かぎり有て、まかりにければ、心ぼそきによめる。見し人は、ひとりわが身に、そわぬとも、をくれぬものは、涙なりけり」。と、この宿(深仙)に参籠していた山伏が多くいたことがわかります。その山伏たちは各々の日程などの事情をもっており、つぎからつぎへと入れ替わったようです。なかには病気のある者がいたのではないかと思われます。また、行尊僧正は藤原定家の小倉百人一首にも入る「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる、もろともにあはれと思へ山ざくら、花よりほかにしる人もなし」などの名歌があります。西行は厳しい修行を重ねる修験者が、情感豊かな人間性を吐露した行尊僧正を慕ったのです。

山岳斗藪に西の覗き東の覗きという懸崖から身をのりだして崖底に奈落を感じる修行があります。捨身行の実践として大事な修行となっています。これにより罪障を懺悔し擬死再生するのです。これほど厳しい修行ですので退転の心をおこす者もいます。谷行(たにこう)という伝説があり、修行中に罪障のあった山伏は谷行に処せられたり、死体をすてられたといいます。また、山伏の大法というものがあり、山中にて病気などで動けなくなれば、罪障の報いとして谷行に処せられたといいます。(五来重著『山の宗教―修験道』一八〇頁)。この宿にはそれぞれの事情をもつ者がいたことが察せられるのです。身延のこの所にも、七面山に登るための、それに似たような宿があったと思われるのです。

 また、深仙の宿は修験者たちの写経の場であったことが知られています。『千載和歌集』に、「前の大僧正覚忍、御たけより大峰にまかり入りて、神仙といふ所にて、金泥法華経書き奉りて埋み侍りけるに、房覚熊野のかたよりまかりけるに付て、いひおくりける。前大納言成通。おしからぬ、命は更に、おしまるゝ、君が都に、かへり来るまで」と、宿に五十日ほど籠もって法華経の如法経を書写し埋経していることがわかります。また、宿は修験者たちの近況と心情を伝える場となっていたことが知られます。このようなことから、とくに食料の補給ということからして、長期にわたる参籠を可能にできる宿の場所は人里に近いほうがよかったのです。(五来重著『山の宗教―修験道』二〇六頁)。寺平は人里に近く、これらの修験者たちが常に出入りしていた「林」と言うことから、御塔林という呼び方がされたとも思います。

修験道のはじまりと言いますと役行者を開祖として崇めます。役行者の事績を受け継ぐ修行といわれます。その理由は、大峰山中で守護仏の蔵王権現を感得し、摂津の箕面山の滝穴で龍樹菩薩から秘印を授かったとするところです。その役行者の修行にしたがって大峰・葛城などで峯入り修行をするのです。山岳は金胎両界の曼荼羅で、山伏十二道具を身につけて十界修行をし、最後に灌頂をうけ即身成仏することが教義の中核です。ですから、修験道ではとくに宗派に偏らないと言います。(『日本仏教史辞典』四六〇頁)。七面山においても役行者の影響が残っています。これらの修験者は道場であり寝泊りするための建物を必要とします。日常品の供給や食料品、また、医薬品などを入手するためには人里に近い山麓が便利でした。

葛川明王院(かつらがわみょうおういん)は、天台修験者の参籠修行の場としても知られています。息障明王院(そくしょうみょうおういん)、葛川息障明王院、葛川寺などとも称されます。(宗教法人としての名称は「明王院」)。大津市北郊の深い山中に位置し、開基の相応は回峰行(比叡山の山上山下の霊地を巡礼し、数十キロの道のりをひたすら歩く修行)の創始者とされています。これは一日数十キロの行程をひたすら歩き通す荒行で、法華経の常不軽菩薩品の不軽菩薩の但行礼拝(たんぎょうらいはい)の教えである一切の存在を仏性あるものとしてひたすら尊敬礼拝するという精神に基づいた行とされます。相応が開いた葛川での参籠修行を葛川参籠といい、かつて旧暦六月の蓮華会(れんげえ、水無月会とも)と旧暦一〇月の法華会(霜月会とも)の年二回・各七日間にわたって行われていました。現在はこのうちの蓮華会のみが夏安居(げあんご)と称して七月一六日から二〇日までの五日間にわたって行われています。庵室(あんしつ)は天保五(一八三四)年の建立で、入母屋造、鉄板葺きの建物。内部は畳敷きで、参籠の行者が寝泊りするための建物となっています。修験者はこのような用途をそなえた場を多く必要とされていたと思います。

日蓮聖人が身延山におられたときに、これらの修験者の存在はあったのでしょうか。草庵の近くに来る者は「山かつ」(山人)のみという『遺文』があります。山人(さんじん・やまうど・やまと)とは、普通、山に住む人のことで、きこり・炭焼きなど山で働く人をいいます。村人にたいして山中にいた住民を山人または山男とよんで、先住民の子孫ともいいます。また、山人とは俗世間を離れて山深い山中に隠れ住む隠者や仙人のことをいいます。日蓮聖人も隠棲した立場で身延に住みました。日蓮聖人と同じように山深くかくれ住む人がいたと、受けとることもできます。それらの存在を『遺文』にのべなかっただけで、身辺の近くには存在していたのか。存在していたとすれば誰なのかという疑問がおきます。富木氏にたいしては状況を伝えていたと思われますが、具体的にはみえません。ですから、長福寺は伝説だけで実際には存在しないというのが定説と見受けられます。もし、修験者がいたとして、身延山から修験道の姿が見えなくなった理由はなにか。霊峯とするには欠けていたことがあったのか。修験者を阻止する何者かの存在があったのか。鉱石などの目的とするものがなかったのでしょうか。身延山にたいし、七面山は小室妙法寺などの真言宗の寺が修験道の山としていました。小室妙法寺や上沢寺には修験者がいたと想定できます。小室妙法寺から七面山へのルートは裏参道が利便性があったのでしょうか。赤沢の妙福寺が中継の宿となっていたと思われます。赤沢村の人々が七面山頂の必需品を背中に負い運ぶのは、この歴史をついでいるものと思われます。日朗上人が七面山に登るときに、この妙福寺に宿泊し村人とともに改宗の決意をします。住持は村人の代表六名をつれて七面山を案内したといいます。のちに、身延山二四世日要上人のときに妙福寺は七面山を身延山に寄進します。部落の八軒は方丈檀家となっています。(『日蓮宗寺院大鑑』三五四頁)。七面山山麓の人々は修験者に近い存在ではなかったのかと思います。七面山信仰については後述し少々検討したいと思います。