174.きつね・着連れ宿            高橋俊隆

〇きつね・着連れ宿

・きつね宿

寺平に入る近辺の宿を狐に似た石があったので、「きつね宿」(狐町)といいました。貞享元年の『身延山絵図』にも「きつね宿」とあります。(『御本尊鏡』八三頁)。あるいは、「着連の里」といい今の元町をいいます。元町というのは身延の町の起源という意味とのことです。(『新訂身延鏡』六七頁)。ですから、もともと住人がおり宿があったと受けとれます。『身延山絵図』(宝永後刊)には「きつね石」とあり、『身延山絵図』(波木井織部版。宝歴後刊。宝永は一七〇四~一七一一年。宝暦は一七五一~一七六四年です)には、「いなり」石、そのとなりに「禅定石」が描かれています。(北沢光昭著『身延山図経の研究』表裏見返し)。つまり、「稲荷」に関しての伝説があったということがわかります。

遠沾日亨上人(身延山三三世)が正徳二一七一二)年に著した『身延山諸堂塔建立記録』を、妙俊院日寿上人が嘉永七(一八五四)年に写した同本によりますと、稲荷大明神の拝殿が「狐町」にあり、この稲荷社の門石の由来について次のように記載しています。「吾祖当山開闢之砌社前之一石二ニ割影現シ高祖ヺ尊敬シ奉ル蓑夫著連里之鎮守是ナリ」(北沢光昭稿「身延山諸堂記」『棲神』五六号所収。一四三頁。『御本尊鑑』一〇四頁)。つまり、日蓮聖人が身延入山のときに、稲荷大明神が大石を二つに割って、御前にあらわれ迎えたということです。また、山腹の巨岩が突然に大音響とともに左右にに割れさけて、その岩のあいだから白髪の古翁が現れて日蓮聖人を迎えたといいます。日蓮聖人が素性を問いますと、蓑夫の山中に住んでいたが追いに追われて大岩のなかへ閉じ込められた哀れな者であると答えます。そして、憐れみ深い日蓮聖人が蓑夫に脚を踏み入れられたので歓喜躍如として巨岩を割って出て来たといい、実体は稲荷大明神の申し子であると明かします。(町田是正稿「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七二頁)。つまり、稲荷を強く反映した古翁が日蓮聖人をお迎えされたのです。里人はのちに巨岩の横に社殿をつくり、古翁を神人として祭祀します。これが石割稲荷社といいます。(今村是龍著『身延の伝説』三一頁)。「きつれ」の宿の里人が稲荷大明神を祀ったことから、「きつね(狐)」宿といわれるようになったといえます。古翁が身の上をのべた「蓑夫の山中に住んでいたが、追いに追われて大岩のなかへ閉じ込められた哀れな者」ということは、なにを意味しているのでしょうか。古くから蓑夫に住んでいた者。追われて大岩に閉じ込められた悪い者というイメージがわきます。それが、人間でいうなら修験者のような妖術を使う者であったともいえます。あるいは、狐の畜身が本体であったのかもしれません。

寛永六(一六二九)年に文殊坊と合併し里人から「稲荷の文殊坊」と呼ばれて親しまれていたといいます。寛永六年の二月二六日に身延山二六世智見院日暹上人不受不施禁止を寺社奉行に訴えています。この石割稲荷社の地に、元禄一四(一七〇一)年に稲荷敬神坊が造立されました。同年五月一九日に身延山三二世智寂院日省上人は紫衣参内の綸旨を賜っています。明治七年に積善坊が文殊坊のところへ移転し現在につづいています。積善坊は積善流の祈祷道場として有名で、この石割稲荷社を祭祀しています。(『日蓮宗寺院大鑑』(三三一頁)に日蓮聖人が身延入山のときに大石が前途をさまたげていたのを、稲荷大明神の力で割れたという伝説をのせています。

安永九(一七八〇)年の「みのぶ山ひとり案内」に、「此のしゅく(宿)をバきつねじゅくと申なり。これよりミのぶ町」(北沢光昭稿「みのぶ山ひとり案内」『大崎学報』一四九号所収。九〇頁)とあり、ここから身延に入ることになります。稲荷大明神が道を作ったと伝えるのも、ここが入り口であったためといえましょう。(望月真澄著『御宝物で知る身延山の歴史』一九頁)。狐に似た大きな岩が二つあったことがわかります。明治三二年の『鷲の御山』(七七頁)にも南谷に石門稲荷(太平橋より左へ半丁許り狐町入口の右側)があり、俗に石割稲荷とよんで、日蓮聖人が入山のときに奇瑞があったことを書いています。文殊坊にあり境内に禅定石があることも載せています。『身延の枝折』(昭和一六年)には「神人」が岩石のなかより出現して日蓮聖人を迎えたとあります。

石割りの道ひらき石は山側にあり、かつての道はこの方面にあったともいいます。山上の稲荷社は滿行院日順上人がおられた旧跡といいます。(宮尾しげを著『日蓮の歩んだ道』一四五頁)。 

・着連宿

狐宿とならんで着連宿の名称があります。着連宿の由来も日蓮聖人と関係しています。日蓮聖人が波木井邸にしばし休まれ、いよいよ身延の沢の現地を視察に行くことになります。着連宿の人達が道案内をされることになっていました。日蓮聖人が「みのぶ」の土地に入り、庵室の候補の場所へ案内されるとき、五月雨がそぼ降る日であったといいます。里人は日蓮聖人に雨よけの蓑を着せてあげ、里人は背中に蓑を着て道案内をしたといいます。蓑を着て歩んでいったということから、「蓑歩山」と呼んだといいます。また、里人が日蓮聖人と同じように、蓑を背に着け蓑笠をかぶり、連れだって歩かれたことから「着連れの里」・「着連宿」と呼んだといいます。(町田是正稿「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七一頁。「喜連」『身延の枝折』大正五年発行六一頁)。つまり、着連宿のいわれは、日蓮聖人が五月の雨がふるときに身延に入り、この宿の里人から蓑笠を着せていただき、道案内をする里人も同じ蓑を着て連れ立ったという言われにあります。この場所は現在の元町にあたり門前町発祥の地とされています。

さきの修験者の存在と「蓑夫」のことからしますと、日蓮聖人を草庵まで案内したのは修験者であったとは言い切れませんが、身延の沢を熟知した里人であったことは確かで、七面山までの道筋も熟知していたことは考えられましょう。日蓮聖人が雨に濡れて身体が冷えないように配慮して登山された山岳であったことは事実です。この「着連れの里」が石割稲荷社とむすびついて「狐町」となっていたことは前述しました。(『身延の枝折』昭和一六年)。『新訂身延鏡』(二七頁)に、その折りに日蓮聖人が詠まれたという、「ふるあめ(雨)を、雲にとどめよ、しゃから(沙竭羅)竜、とくしゃか(徳沙竭)のり(法)を、人にきかせよ」の一首が載せられています「きつれの宿」という呼び方と「きつね宿」という呼び方の由来は以上のことからわかります。

ここから身延の沢に向かう左の方を南谷、川の流れが見えるほうを蓮華谷といいました。蓮華谷に花之坊があり、長禄二(一四五八)年に蓮華院日応上人が建て、この場所で常に水行をされていたので蓮華谷と名付けたといいます。(『鷲の御山』七八頁)。また、総門から五町ほど入ったところを身延町としています。軒数が五百余りあり下町・中町・上町・裏町・車坂町とよびました。「みのぶ山ひとり案内」には、町の中程に甲府への道があり「片阿沢」とあります。