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◆第二節 西谷草庵付近〇西谷草庵総門から三門までは一二町になります。日蓮聖人のとうじは、三門はありませんので元町となる宿から西谷に進み、まっすぐ庵室に入られます。『身延鏡』はこれより三門をくぐり右の通りの橋をわたり、二八七段の石段をのぼります。持国・毘沙門の二天門(白毫楼。「久遠寺」の扁額が掲げられていた)を通過し五〇間のところに本堂があります。本堂の扁額は「久成宝殿」と染筆されています。久遠実成の本師釈尊のお堂ということです。祖師堂には「応識宝殿」の扁額が掲げられています。「応識」とは法華経の予言に応じられた本化上行菩薩の恩徳をあらわしています。日蓮聖人の行学二道を認識し、私たちが知教者として立誓するための、戒壇的な祖師堂と窺えます。祖師像は中老僧の日法上人が、池上よりご真骨を身延山に移されたあと、一〇月二九日に木を取り、七七日(一二月二日)のときにご入室されたものといいます。墓碑は百日忌となる弘安六年一月二三日に建て、ご身骨を納めたあります。(『元祖化導記』・『中山祐師善根記』)。 本堂のうしろに山頂にむかう山道があります。山麓の標高は四百㍍、日蓮聖人は毎日、この峯に登り法華経の流布を祈り、生まれ故郷の小湊に向かい両親の御墓を拝んだといいます。登山の場所は麓坊の上の山から五〇町の坂を登ったといわれています。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五四九頁)。山頂には日蓮聖人の孝養を偲んで奥之院思親閣が建立されています。ここに、日蓮聖人が自らお手植えになられたという杉があります。二本は両親の供養のため、一本は道善房追福のため、もう一本は蒙古退治の祈念のためといいます。思親閣は育恩堂とよび、この地を芬陀利屈と名づけています。元政上人は「瞻望父母陟斯高」の七言八句を詩っています。 ロープウエイを登ると三つの展望台が設置されています。東と南側展望台からは富士山がよく見え、天候がよければ駿河湾、伊豆半島を見晴らすことができます。とくに三月中旬および一〇月上旬には、富士山山頂から日が昇るダイヤモンド富士が見られるため、前後数日の早朝は観望や写真撮影の参拝者で賑わいます。北側展望台からは南アルプスや甲府盆地、七面山や早川町の町並みが眺望できます。山中には雑木林が分布するほか、過去に大量に伐採された杉は、現在、植林されています。周辺には『甲州盆歌』に歌われたナンテンが見られ、山頂にはカタクリも自生しています。「仏法僧(ブッポウソウ)」と鳴くことで知られるコノハズクや、野生の猿、ニホンカモシカ、イノシシ、ツキノワグマなどが生息しています。日蓮聖人が入山されたころは狼がおり、猿が峰から峰にわたり、鹿の声が山に響いていたという『新尼御前御返事』の、 「大狼の音山に充満し、猨猴のなき谷にひびき、鹿のつまをこうる音あはれしく」(八六五頁) という場景を窺うことができます。 日蓮聖人はまっすぐに西谷方向に入られますが、『身延鏡』ではここより大蓮坂を下りて西谷にでます。そして、三昧塔頭に八角四面の御霊廟堂があり、日蓮聖人がはじめて結んだ庵室はここにあったと記しています。日蓮聖人はこのところを身延と書き改めています。そして、庵室の場所を「みのぶさわ」と呼んでいます。沢とは山合の渓谷の川をいいます。水の多い湿地に庵室が建てられたようです。『新訂身延鏡』(一二三頁)にも波木井氏の置き文を「身延沢の御事は」とあり、また、二代目弥六郎長義日教の置文にも、「身延沢の御事」とあり、「身延沢」と伝えられていたことがわかります。もともと、土着の人たちから「蓑夫の沢」と呼ばれた沢地があったことがわかります。甲府へ向かう道に「片隈(かたくま)沢」という地名がみえます。(『新訂身延鏡』二九頁)。また、「琢澤」という地名があります。(北沢光昭著『身延山図経の研究』六〇頁)。身延川は滝や沢などが入り組んだ峡谷であったようです。身延山のなかは金剛谷・醍醐谷・蓮華谷・中谷・鶯谷・西谷・東谷、そして、南谷(『身延鏡』)などの幽谷が多く松杉が茂り、谷の左右には楓の林が滋ります。したがって、川も多かったことがわかります。古来よりこの八谷に支院の坊舎が建てられたといいますが、「坊跡録一」「坊跡録二」とも鶯谷・蓮華谷・金剛谷の名がのっていないといいます。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』一七〇頁)。身延山の西側は糸魚川―静岡構造線といわれ、西方の七面山などと界をもち、この界にそって早川やその支流の春木川が流れています。 ・総門から西谷草庵まで 『甲州身延山久遠寺総絵図』 『身延鏡』 総門 発軫閣 きつね宿 三昧塔頭 『身延山絵図』(宝永) 総門 祖師堂 きつね町 きつね石 祖師御はか所 『身延山図経』 身延浄界(開会関) 発軫宝殿 稲荷宿 倉稲魂 石門 故身延旧趾 『身延山絵図』(宝歴) 総門 祖師堂 狐町 いなり 寺平山 祖師御はか所 日蓮聖人の庵室は三昧塔頭・祖師御はか所・故身延旧趾の近辺になると思われます。逢島から身延川にそいながら橋をわたって庵室に入られたと思われます。日蓮聖人はこの西谷の身延沢のところへ来る者は薪を拾う者くらいであるとのべています。(『新尼御前御返事』八六五頁)。この山人は主にきつね宿の住人であったと思われます。また、米などの食料品を用意立てていたのも、この宿の人たちと思われます。この近辺の住人たちも滅多に足をいれない不便な場所であったのです。『御本尊鑑』(一四五頁)には釈迦堂(北沢光昭著『身延山図経の研究』七五頁)のところが庵室のあった場所で、いつの頃からか「従往古為真俗葬送場」とあり、僧や俗人の葬送の場所となったとあります。これは、台風などにて山崩れや土砂災害があり地形がかわったことや、祖師堂の場所が移動したことによります。弟子や信者は日蓮聖人のご廟所の近くに埋骨を願ったからです。そこで、遠沾日亨上人は草庵の場所は清浄の霊地として四方に境界を立て、葬場を別のところに設けることを発願しました。その後も風水害により地形がかわりましたが、次第に現在のご草庵跡やご廟所が整備されたのです。 〇願滿稲荷日蓮聖人が身延に入山されたとうじ、竜王淡路の守正義という武士が身延の奥に住んでいたといいます。戦乱に敗れて身延に身をひそめていたのでしょう。日蓮聖人はこの武士を訪ね、その付近の池で足を洗って座敷に入られ歓談されました。その地を洗足村と呼ぶようになります。竜王氏が持仏としていた観音菩薩に願滿大菩薩と命名されたと伝えています。あるいは、龍王氏より以前に住んでいた人がいて、その人を氏神として祀っていたのを、日蓮聖人が願滿稲荷と命名したともいいます。この淡路の守は弘安八年に死去し、その妻は前年に死去しており、その長男の竜王守真は元徳元年、その妻は正和五年に死去されたといいます。これは位牌の記名によるもので史実としては正確とはいえないようです。竜王氏に従ってきた家臣や竜王氏の墓が現存していますが、碑銘がない自然石といいます。洗足村の八町四方は竜王氏の所有となっていることから、伝説の信憑性もあるといいます。(今村是龍著『身延の伝説』四九頁)。『身延の枝折』(大正五年発行。七七頁)に「洗足願滿社」は草創の時代などは詳らかでないとあります。願滿社より左へ五丁のところに請雨淵(あまごいふち)があります。 この願満稲荷のほかに、身延に入ったところにも先にのべた石割稲荷社があります。稲荷大明神を祭祀した民間信仰があったことになります。稲荷は農耕民が祀った神です。「山城国風土記」(逸文)に紀伊郡深草の秦氏一族の長であった秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)という人が、稲の収穫が豊であったため、お餅で的をつくって弓で射ようとした。すると餅が白い鳥となって飛び去って東山三十六峰の最南端の峰に舞い降りた。そのところに稲が実った。伊呂具は豊かさに慢心して餅を的にした過ちを悔いて、白鳥の舞い降りた峰をイナリ山と呼び、伊奈利という名の社をたてて稲荷大神をまつった。時に和銅四年二月の初午の日であったといいます。その祭神を宇迦之御魂神といいます。一説(「本朝神社考」)によりますと、空海が東寺の門前で稲を背負った老人に出会い、いろいろ教えを授けられたといい、空海はこの老人の徳を謝し同寺の鎮守として祀ったのが二月の初午の日であり、稻を荷なっていたので稲荷といったといいます。 稲荷信仰が仏教と習合し、新しい展開をしていきます。仏教の茶枳尼天という神と習合し玄狐という狐にまたがる茶枳尼天の姿から狐を稲荷神の使いとする俗信がうまれました。狐の神秘性から古来霊獣とみれれてきました。春に山から降りてきて秋に去っていくことから田の神の先触れとされ、農業神としての稲荷信仰と狐が結びついたとも考えられています。(掛下節怜稿「稲荷信仰」(『日蓮宗の御祈祷』所収一七四頁)。飯綱山は古くから山岳信仰の山として有名で、山頂には飯綱神社があり稲荷信仰の発祥の地と言われています。栃木県の飯綱神社では 本殿の床に住むオトカサマ(キツネ・ムジナ)の出入りに吉凶を占っています。長野県上田市飯綱神社ではオキツネサマ(いずな こえぞいたち)を祀らなければ田に来ていろいろいたずらをされるという言い伝えがあります。また、農耕の豊作を願う信仰に、霊験として稲荷神による治癒が付加されてきます。稲荷信仰の解明には伏見稲荷大社を中心としたものがあります。古代において秦氏が掌握し、それに真言宗とむすびつき伏見稲荷大社となったといいます。祭神は宇迦之御魂大神を主神・保食神・稲倉魂命を祭神とするものが圧倒的に多くみられ。飯綱と稲荷とが同系列の信仰といいます。茶枳尼天のダキニの法は農耕・商業・漁業・守護神、治病・託宣・はやり神など多様性をもって信仰されました。(宮本袈裟雄『里修験の研究』一九〇頁)。 この稲荷信仰から身延にも修験者がいたということに繋がるのではないかと思います。ただし、日蓮聖人の『遺文』には修験者にふれたものはないので、目立っての修験者はいなかったと思われます。しかし、修行をしながら山にすみついていた少数の者がいたことは考えられます。それは狐岩のなかから出現した稲荷大明神と、竜王淡路の守正義の願満稲荷の存在です。 稲荷大明神は身延山の入り口にあり、願満稲荷も険しいほうの七面山の入口にあります。また、妙太郎・法太郎の妙法二神の存在は看過できません。両像が造られた年次は未詳ですが、妙法二神は妙石坊に祀られ七面山の入り口になります。 |
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