176.妙法二神(身延山)                         高橋俊隆

妙法二神

日蓮聖人が身延山におられたとうじ、妙太郎・法太郎という二人の荒神がすみ、天狗の噂が高かったので、日蓮聖人が高座石の説法の折に教化されたといいます。永仁五年に日朗上人が七面山に登る途中、この地に寄り両神を祀りました。のち、妙法二神の威力が顕著になり衆生救済を願って、法華経十万部読誦を発願し「天下屋敷」と名づけたと言います。とうしょは六尺四方の木造の小さな祠で、百二十余年のあいだ近郷の信徒が護ってきました。身延山九世の日学上人の弟子、法久院日安上人が「天下屋敷」から現在のところに移し、応仁二(一四六八)年に万部寺と名のります。天正二(一五七四)年三月二八日に一五世日叙上人より、奴多山万部寺(十万部寺)の山寺号を授与されます。一〇丁ほど下がったところに七面山遙拝所があり、女人禁制の時代は、ここから七面山を遙拝し下山されたといいます。(『日蓮宗寺院大鑑』三五五頁)。「天下屋敷」は妙法二神が示現したところといい、十万部寺のあったところと伝えています。ここに寺があったころ、山手の方を「太郎峰」といい、断崖の方を「次郎尾」と呼んでいたのが、誤り伝えられて妙法二神の神名となり、「太郎坊」「次郎坊」と呼ばれるようになったといいます。さらに、これが転じて「法太郎」「妙太郎」と呼ばれるようになったといいます。万部寺には妙法二神尊像二体が安置されています。鼠取護符が授与されています。(身延・七面山敬慎院発行『七面山』五二頁)。

妙太郎・法太郎という二人の本地は荒神・天狗といわれ、妙法二神は身延の山神といわれています。妙石坊はこの二人の得度の相であり、十万部寺は示現の相をあらわした像であるといいます。妙石坊の妙とは妙法二神の妙、石は高座石の石から命名されたといいます。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収一〇〇頁)。冨士市の実相寺の妙法堂には妙心と法心という兄弟の天狗を祀っています。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』一六七頁)。また、太郎ヶ峰、次郎ヶ峰の天狗とされています。

荒神といわれるのは村人にとって守り神のような存在と思われます。荒神信仰には屋内に祀られる三宝荒神と、屋外の地荒神があります。いずれも験力あらたかな、荒々しく祟りやすい神といいます。地荒神は山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合があります。また、地荒神の多くの場合、旧家の屋敷地や山裾の自然木や小祠を信仰の対象としています。一区画の森を神聖視する地域もありますが、屋敷神となっている場合を屋敷荒神、株のような同族的な色彩の濃い集団によって祀られているものを株荒神、一定の地域の人々によって祀られているものをウブスナ荒神あるいはヘソノオ荒神などとよんでいます。妙法二神にもこのような性格がみられ、実在したと思われるところに、六尺四方の小さな祠を建て「天下屋敷」とされたといえます。

 つぎに、天狗といわれたことについてみてみます。天狗は山神の化身、あるいは、その使いともいいます。山神が死んで山にとどまる祖霊であるとしますと、天狗も同じく祖霊の性格をもつといいます。このことから、山に天狗が住んでいるという伝承には、かつて祖霊信仰があったことを示唆するといいます。愛宕山頂の奥院に明治までは「太郎坊」が祀られていました。そのほかに、八天狗と飯綱権現(飯縄智羅天狗)も境内の祠に灌頂されていました。飯縄智羅天狗の「智羅」は、愛宕山の天狗日羅坊(愛宕山太郎坊)の前身である日羅上人に由来しています。『沙石集』(巻七の二十話)には悪天狗と善天狗があり、善天狗は悪天狗の障りを制し、仏道を行じるとあります。震旦から渡ってきたのが智羅永寿天狗で、愛宕山の天狗はこれよりも古いといいます。また、『聖財集』に「日本の天狗は山臥の如し」とあり、山伏と天狗が近い関係にあると書いています。この理由のひとつに、天狗が住んでいる山は修験の道場であることがいわれています。愛宕・比良山・比叡山・鞍馬山・吉野・彦山・白山・立山・羽黒山・湯殿山・伊吹山・高野山・富士山・大峰山など、いずれも古い山岳霊場になります。このようなところに山伏と天狗の一体性が生まれたといいます。また、山伏は山神の化身といわれる天狗を祀り、天狗と一体になって超能力的な験効を身につけた、あるいは、憑依託宣させたとみることができます。これらは修験の山にある憑依現象といいます。(アンヌ・マリブッシイ稿「愛宕山の山岳信仰」『近畿霊山と修験道』所収。一一八頁)。山伏を天狗として恐れられたのはこのためです。

天狗に象徴される飛翔力は、焼畑の木おろし技術のなかで求められるものであり、天狗の赤顔は火の色であり、天狗の持つ団扇は火の鎮め煽る両用の呪具で、焼畑農民には望ましい呪具であった。(『日本の古代』一〇、中央公論社.野本寛一稿、一八八頁)。

高野山の奥之院は、昔から行人という職の人達が管理していたといいます。行人とは学僧とは違い行者のことをいいます。摩尼山の地名がしめすように鉱石があることで、この鉱石は錬金術により採掘され調剤されて、不老長寿の秘薬につくりかえられます。この行人と呼ばれた人達は、鉱石をさがし秘薬を製造した仙人のような存在ではないかと言います。吉野山の金崩の秘所や羽黒山の秘所といわれるところは、鉱石が採掘されるところといいます。(若尾五雄稿「近畿山岳信仰と丹生」『近畿霊山と修験道』所収。四六七頁)。妙法二神と称された太郎・次郎という人は、この行人の役目ももっていたと推測できます。その理由として身延文庫蔵古写本の「日進聖人仰之趣」に講坊の跡に四、五帖の田を作り波木井氏より苗を百把とりよせ、そのうちの十把をうえたときのことがのべられています。そのなかに「其後此テ籾二斗ハカリ取也。次郎太郎入道ヵモトヘヤリ入コナシテ聖人仰云、此テ秋事セントテ波木井殿御ヨヒアル也」という文章があります。ここに、次郎太郎入道という人物がでてきます。この人物は日蓮聖人の日常の生活に足となり手となっていた感があります。これは六老畑のなかの、はじめての田作をされたときのことと思われます。この「次郎太郎」とは誰なのかは不明です。(室住一妙著『純粋宗学を求めて』三二七頁)。『身延鏡』に西谷から七面山に向かう参詣路に「右の方は太郎が峰、次郎が尾。これは妙太郎、妙次郎とて天狗の棲む峰なり」とあります。そして、妙法両大善神(妙法二神)を祀る奴多山十万部寺があり、なんらかの関連があると思われます。冨士市の実相寺の妙法堂に妙心と法心という兄弟の天狗を祀っている。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』一六七頁)。荒神信仰の拡大については山伏などの、民間の修行者が大きな役割を果たしているといわれています。

また、山を居所とする山民と里で農耕をいとなむ農民が存在します。山民は狩猟を生業としますが山中の木を管理する木樵もいます。採鉱製錬に従事する山師がいます。これらの人が山中に住んでいたり、山小屋で起居していたと考えられます。(宮家準著『宗教民俗学』二七五頁)。高野山・伯耆大山・山寺立石寺など、多くの山岳信仰の霊場は狩人の伝説をもっています。(五来重編『高野山と真言密教の研究』三三頁)。山奥に追いやられた先住民の子孫が、鬼・天狗・山姥などの山人になったことがあります。そこに、漂泊者として山伏や山師などが山にはいり、里人と物心両面にわたる交流がなされていたといいます。(柳田国男著『山の人生』)。身延の山奥に棲んでいた人は、これらの人(遊行宗教者)であったという可能性を否定できません。共同体に内在的に発生した民族信仰に、山伏などがもちこんだ仏教などが影響し展開していきます。(宮家準著『宗教民俗学』三二二頁)。『葛川縁起』の開基伝承に相応は葛川の地主神である思古淵神(志古淵神)から修行の場として当地を与えられ、地主神の眷属である浄喜・浄満(常喜・常満とも)という二人の童子の導きで比良山中の三の滝に至り、七日間飲食を断つ厳しい修行を行います。その満願の日に相応は三の滝で不動明王を感得したとあります。注目したいのは地主神の眷属という浄喜・浄満の二人の童子がいたことです。妙法二神の存在と類似性があるように思います。

では、天狗とは具体的にどのような存在なのでしょうか。中国では天狗を、1,天空を自在に駆ける流星。2,山中にすむ狸形白首の鳥獣的鬼魅(山海経)と解説しています。天狗が史書にはじめて記載したのは舒明帝九(六三七)年、入唐僧の僧旻で奔星(ながれ星)のことを天狗といっています。中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』などは奔星のことを天狗と解説しており、元来は中国の物怪で、火球流星痕が狗に似ていることから、天の狗と呼ばれました。また、中国の奇書『山海経』二巻西山経の陰山の項に、「有獸焉 其狀如狸而白首 名曰天狗 其音如榴榴 可以禦凶」(獣あり。その状狸(山猫を指すと考えられています)のごとく白い首、名は天狗という。その声は榴榴の様。凶をふせぐによろし)とあります。

日本では平安時代に顕著だった怨霊観と通じ、人に憑いて危害を加え悩殺する怨霊、妖怪、鬼魅の畜類として天狗が想定されました。(『今昔物語』巻二十)。『愚管抄』には「天狗地狗ノシワザ」と、天狗と地狗が世を混迷に陥れているという表現をしています。狗は犬とか狼のことをいいますが、中国でいう流星や彗星の尾を引いて流れるようすを、天のイヌまたはキツネに例えています。どちらも空中を飛ぶイメージがあり、特殊な能力をもつ妖怪の扱いをされるようになります。このような人智には測りがたい力をもち世を惑わすとされた天狗が、山伏の斗藪修行をして呪法をする特異な姿に重ねられます。人を恫喝し畏怖させる行為は、自分の山を不浄で汚すことを防ぐためといいます。(知切光蔵著『仙人の世界』五九頁)。また、居住のところの産物を護るため、侵入者に恐ろし者がいるという印象をもたせ追い払う行為にでたのです。

仏教において天狗は、仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれます。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、を常食としているとされます。奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼がありませんが、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は、一般的な烏天狗の姿を彷彿させます。一般に考えられている天狗の姿は、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴をもっているか、あるいは山伏姿で羽根をつけていたり、羽団扇を持って自由に空を飛べると思われています。手足の爪が長く、金剛杖や太刀を持って神通力があるとされます。これらの姿は、深山で修行する山伏に、ワシ、タカ、トビなど猛禽の印象を重ね合わせたものです。このように、山伏の勃興期には外見により未知の庶民を刺激したのです。平安から鎌倉時代にかけて(承久の乱)現実が従来の王法仏法相即の理では納得できなくなってきます。新しい世間観・人生観の概念が求められ、老子思想に基づく自然法爾の道などが一つの基準となりました。物事が悪くなると天狗の仕業という言葉で表すようになります。天狗の所以、天狗の予言という言い回しが中世全般の通念となります。(和歌森太郎著『修験道史研究』一四八頁)。天狗草紙には日本の天狗七類として、興福・東大・延暦・園城・東寺・山伏・遁世があげられるのも、僧侶の堕落した姿にこれらが付加され、山伏天狗の観念は吉野時代から室町にはいっても世に伝えら説話を生み出しました。しかし、室町後期には山伏・修験道が流布し、庶民の天狗即山伏は切り離されていったといいます。

また、天狗と天魔と同じにされることもあり、山男・山人・天狗が同一視されることもあります。天狗と山伏との関係が、山伏には天狗が憑いているというように、山伏とは別の力量をもつ存在とされ、実体が峻別できない複雑な様相をもっていました。この天狗に大天狗と烏天狗や木っ葉天狗などとよばれる小天狗との別があるというのも、山伏が先達に導かれながら修行したレベルを投影したものです。なかにはもぐり山伏もおり、あるいは、かつては師匠について行法に励んだが、修行は厳しいので落伍したり挫折した者がおり、そのなかでも根性がまがって悪行をしたりする者、目に余る醜行や悪業を俗人は天狗のいたずらと呼んで敬遠したといいます。それが、平安末期の今昔物語以下、宇治拾遺物語・十訓抄・古今著聞集などの説話により、鎌倉期以降の仙人道はたいへんな御難をこうむることになったといいます。(知切光蔵著『日本の仙人』一八一頁)。源義経が鞍馬山にて天狗から武道を学んだと伝えられ、その鞍馬天狗の姿は袈裟を着し経巻をもった山伏の姿で、肩に羽根をつけ羽団扇を持って自由に空を飛べるように描かれた絵馬があります。鼻の高いのを大天狗、鼻先が尖ったのは小天狗、あるいは烏天狗といい、これら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが、その初期の原型であるといわれています。

天狗を星から魔怪として表現されるのは『今昔物語』にでてくる一一話です。天狗の凶猛ぶりは『源平盛衰記』『太平記』にあらわれ、戦乱好き災難をよろこぶ悪癖がみられてきます。天狗の最盛期は鎌倉から室町時代にかけてといいます。仏教を忌避していた天狗が天狗山伏と呼ばれるのは、『宇治拾遺物語』にあり『太平記』が規模が大きく目立っています。怨念が凝まって天狗となっています。天皇・武士・僧侶・仙人などが天狗として扱われ、その姿も山伏と表現されます。位の高い大天狗には名がついており、たとえば、愛宕山の「太郎坊」、鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)、比良山の「次郎坊」、比叡山の「法性坊」、英彦山の「豊前坊」、筑波山の「法印坊」、大山の「伯耆坊」、葛城山の「高間坊」、高雄山の「内供坊」、富士山の「太郎坊」、白峰の「相模坊」、などが知られています。このような天狗の名前のほとんどが、太郎坊・次郎坊・豊前坊・三尺坊と呼ばれるのは、山伏が介在した証拠となります。天狗と仙人と似たところがあり、判別が難しい面もあります。しかし、形態はかなり違っています。仙人は人助けをしますが、天狗は殺伐としています。(知切光蔵著『日本の仙人』一八二頁)。

 これに関連して、鳥のように自由に空を飛び回る天狗が住むとされ、腰掛けたりすると言われている天狗松(あるいは杉)の伝承は日本各地にあります。比叡山の東塔無動寺渓には回峯行があります。相応和尚が中国五台山の巡礼に模した修行です。毎日、真夜中に出発して行者路という峰々谷々を、二三㌔から八〇㌔の行程を跋渉します。この回峯行者を叡山の天狗さんと呼ぶのは、素早い走向と法師武者のカテゴリーとが混合して生まれた概念といいます。比叡山には修行者にとっても恐ろしい魔所と呼ばれる場所が四カ所あります。それは、東塔の天梯権現祠と狩籠ヶ丘、それに、飯室の慈忍和尚廟と横川の元三大師の御廟です。矗々と老杉がそびえ昼なお暗い墓塔の魔所には天狗が住んでいて、不浄の輩や不信の僧徒はしばしば天狗の懲らしめにあうといわれています。(『比叡山』一六五頁)。山伏の山岳信仰と天狗の相関関係を示す好例なのです。民間信仰では樹木は神霊の依り代であり、天狗は山の神であるから、天狗が樹木に棲むと信じられていました。こうした山の樹木から聞こえてくるさまざまな音が、天狗の羽音とか唸る声だと思われたのです。山岳信仰のあるところには、修験者のほかにも行人・山人などの山中生活者がいます。身延山の妙太郎・法太郎という二人の存在が荒神か天狗といわれ、それが身延の山神として妙法二神と祭祀されたことは、以上のような背景をもっていると思います。