177.七面山信仰の年表                      高橋俊隆

◆◆第二章 七面山と山岳信仰

◆第一節 七面山の民間信仰【七面山信仰の年表】

 七面山が日蓮宗の法華霊山となったのは、日蓮聖人の身延入山に始まります。それ以前、はるか古代から里人にとっては七面山を神体山として、山の神が祀られてきたと思われます。まず、日蓮聖人入山以後の七面山の法華信仰を年表により確認してみます。

〇(民族信仰から山岳修験信仰の時代・修験道第一次成立期―山伏衆の結成)

(平安~鎌倉~南北朝時代 七九四~一三九二年)               

池大神・龍神の民族信仰がおきます

雨畑村の人達が一の池に池大神の祠を建てます

修験者が役行者を祀ります。道教の修行者もいました

建久三 (一一九二)年七月         鎌倉幕府。頼朝征夷大将軍となります

京都と鎌倉の二大政権により世相がかわります

文永一一(一二七四)年五月一七日      日蓮聖人身延入山

永仁五 (一二九七)年九月一九日      日朗上人と波木井氏が七面山に登詣と伝えます

                      影向石・ご神木に奥之院の祠を祀ります

〇(法華信仰の時代・赤沢妙福寺が七面山を管理します・修験道第二次成立期―教派修験道の成立)

(室町時代一三九二~一四六七年)

応永二九~長禄三(一四二二~五九)年    七面大明神の堂を建てます。九世日学上人代

                      赤沢妙福寺が管理し鍵取りをします

長禄二 (一四五八)年六月二九日      妙福寺古堂建立

〇(神仏習合の時代・身延山内部整備の時代)

(戦国時代・安土桃山  一四六七~一五七三年)

                     一一世日朝上人(一四六一~一四九九年) 

寛正七 (一四六六年)           寛正の盟約(身延と中山法華経寺、京都諸寺の和合)

応仁二 (一四六八)年           万部寺と名のり現在地に移転(九世日学上人の弟子法久安師)

文明六 (一四七四)年           久遠寺伽藍の移転工事開始。一一世日朝上人

文明九 (一四七七)年           京都妙伝寺開創(西身延)。七面天女を祀ります。日意上人

                      鎌倉本覚寺を東身延とします

文明一〇(一四七八年)           『元祖化導記』行学院日朝上人

文明一四(一四八二)年           本国寺が身延と法派の正閏を争います

長享二 (一四八八)年           日真上人は妙顕寺を出て四条大宮に本隆寺を開創します

明応元 (一四九二)年           早川町薬袋、円立寺開創(日朗上人、七池の一つ)

明応五 (一四九六)年二月一一日      早川雨畑、正徳寺開創(池大神発祥の地、稻又)

                      一二世日意上人(一四九九~一五一九年)

                      一三世日伝上人(一五一九~一五四三年)

天文一三(一五四四)年霜月         七面大明神尊像開眼。一四世日鏡上人(この年一二月に入山)

身延山に格護されています。

天文五 (一五三六)年           円明院日澄上人の『日蓮聖人註画讃』(長遠寺)

七月二三日       天文法難

                     一四世日鏡上人(一五四四~一五五六年)

天文一六(一五四七)年二月         洛内一五ヵ寺が連署し比叡山の承諾を得て順次帰洛再興

          武田晴信は法華浄土宗徒の争論を禁じます

天文一八(一五四九)            ザビエルが切支丹を伝えました

天文一九(一五五〇)年           武田信玄は「明版法華経」七巻を寄進しました

弘治二 (一五五六)年           日鏡上人は西谷に善学院を建て檀林の基礎とします

一五世日叙上人(一五五六~一五七六年)

(敬慎院釈迦堂に日叙上人の位牌が祭ってあります)

                  七面山の社殿造営を進めます

永禄元 (一五五八)年           武田信玄が会式関免許(七箇条の制状)

日叙上人は信玄の帰依と下山の穴山梅雪の帰依をうけます

永禄七 (一五六四)            永禄の規約

永禄九 (一五六六)年           『元祖蓮公薩埵略伝』(本隆寺七世證誠院日修上人)

元亀二 (一五七一)年           『御義口伝』古写(大石寺・要法寺所蔵)

元亀三 (一五七二)年四月一一日      身延攻め(武田信玄)

天正二 (一五七四)年三月二八日      奴多山万部寺と授与されます(一五世日叙上人)

天正四 (一五七六)年           甲駿信の末寺に一〇月祖忌に登詣すべき触を出します

天正七 一五七九)年五月、        信長による安土宗論の謀略

〇(身延山鎮守七面大明神信仰が育成されはじめた時代)

       一六世日整上人晋山(一五七七~一五七八年)

(天正・文禄年間に曼荼羅に七面大明神が、始めて勧請された)

天正一〇(一五八二)年六月         信長は本能寺において殺害

          徳川家康身延山参拝

天正一一(一五八三)年           小室妙法寺は身延末寺から無本寺となります

天正一二(一五八四)年           豊臣秀吉から法華宗弘通の公許を得る(油屋日珖上人)

天正一六(一五八八)年           徳川家康会式関免許

天正二〇(一五九二)年           朝鮮出兵。文禄の役に加藤清正は二番隊主将となります

一二月八日      雲雷日宝上人曼荼羅に七面大明神を勧請します

                      一七世日新上人(一五七八~一五九二年)

文禄二 (一五九三)年           瑞龍院殿(秀吉の姉)本堂・方丈の寄進

文禄四 (一五九五)年九月         豊臣秀吉の千僧供養会

文禄五 (一五九六)年           一八世日賢上人 七面大明神宝殿常住の本尊が図顕されます

                      (七面山に七面大明神が祀られたときとします)

           七面大明神宝殿常住之守護本尊也

一八世の日賢上人(一五九二~一五九九年)宝殿造営

           村雲日秀尼本国寺日禛上人について得度(村雲門跡)

慶長四 (一五九九)年八月二五日      身延山本堂・方丈・唐門落成(村雲日秀尼)

八月二八日       日奥上人妙覚寺御影堂開眼供養

一一月         大阪城対論(日奥上人。慶長度の不受不施事件)

慶長五 (一六〇〇)年           関ヶ原の合戦。徳川家康の時代になります

慶長六 (一六〇一)年           家康は切支丹禁教令を布きます

〇(身延山の管理時代となり七面天女の神位が向上・修験道の変質期)

慶長七(一六〇二)年~元和二(一六一六)年 日重・日乾・日遠上人中興三師の時代

江戸時代(一六〇三~)

慶長八 (一六〇三)年           徳川家康征夷大将軍になります

慶長九 (一六〇四)年          「身延山掟」「町中掟」を定めます(日遠上人)

                      西谷檀林を開設します

慶長一三(一六〇八)年一一月一六日     慶長法難。常楽院日経上人刵劓刑。日遠上人本遠寺に隠棲

                      養珠夫人御真骨堂の寄進

慶長一四(一六〇九)年           養珠夫人本遠寺を創建

元和元 (一六一五)年ころより以後     幕府・諸藩の保護をうけます

                      二四世顕是院日要上人(一六一六~二三年)

元和二 (一六一六)年ころ         「身延山略譜」

          四月一七日       家康没

          一一月         幕府「身延山法度」を定めます

赤沢妙福寺が七面山・六ヶ坊を身延山に寄進して帰属する

妙福寺宝蔵照師が初代「七面山別当」となる

元和四 (一六一八)年四月四日       家康三回忌を身延山にて行う

元和五 (一六一九)年           寿福院は五重塔・奥之院祖師堂を建進

〇(女人禁制から解放、身池対論の勝利により一致派総本山としての地位を確立します。安定隆昌時代。

山頂所有権の争いがあります。七面天女信仰が地方に広がり身延詣でが盛んになります。)

元和五 (一六一九)年八月二四日      養珠夫人七面山登詣(一回目)

寛永元 (一六二四)年           養珠夫人大鐘寄進、日乾上人が記名

寛永六 (一六二九)年二月二六日      身延山日暹上人は不受不施禁止を寺社奉行に訴えます

寛永七 (一六三〇)年二月二一日      江戸城にて身延池上対論。遠師は本門寺、乾師は妙覚寺に晋

                     身延池上対論採決は不受不施派の敗訴となり流罪

寛永八 (一六三一)年           五重塔の寄進(加賀前田利家の側室寿福院日栄夫人)

           総本山久遠寺(身延の勝利により本末制度が施行される)

寛永九 (一六三二)年           菩提梯の造作はじまります

寛永一〇(一六三三)年           久遠寺幕府に末寺帳を提出します

寛永一三(一六三六)年           幕府は寺院に朱印・安堵状を与えます(棚経の慣例)

寛永一四(一六三七)年           真超が『破邪顕正記』にて宗門を批判します

寛永一六(一六三九)年           幕府は宗判改めの制を設け寺請け証文を定めます

寛永一七(一六四〇)年四月二二日      養珠夫人は二回目の七面山登詣(六四歳。女人禁制を解きます)

           七面大明神像が二六世日暹上人代に開眼されます

           このころ小室妙法寺と休息立正寺とに座配の諍論があります

正保元 (一六四四)年           養珠夫人の三回目の七面山登詣(七三歳)

                      二七世日境上人(一六四八~一六五九年)

慶安四 (一六五一)年           赤沢と雨畑村と山堺争いがおきます

七面山の山頂は久遠寺の支配となります

慶安五 (一六五二)年          「七面大明神由来事」亮朝院(仙寿院日閑上人)

承応三 (一六五四)年           表参道三十一丁目丁石

承応四 (一六五五)年           裏参道三十五、六丁目丁石。雨畑村からのルート

万治二 (一六五九)年           元政上人は母と身延を参詣し「身延行記」を著す

寛文二 (一六六五)年           日奠上人は諸堂を移し堂塔境内を整備します

寛文五 (一六六五)年一〇月        身延の主張が通り不受不施派が惣滅します

~六年         寛文年度の不受不施事件により悲田・恩田派が生じます

(七面天女の本地を吉祥天・功徳天とします)

寛文六 (一六六六)年           「七面大明神縁起」草山元政

                      元政上人は深草に七面天女を勧請します

寛文九 (一六六九)年           西谷檀林大講堂建立。このころ奥之院別当職制がはじまります

寛文一〇(一六七〇)年           幕府は諸寺の本寺・末寺を判明させます

寛文一三(一六七三)年           幕府は本末寺院の朱印状・安堵状を下します

延宝三 (一六七五)年中春吉辰       「七面山鐘銘等之写」身延三〇世日通上人代 建立記

猛春          「七面山神祠修営疏」不明         建立記

身延山三〇世日通上人(一六七二一六七九年)

八月          七面山本宮改築、拝殿客殿など敬慎院を建立(神社建築)

           雨畑村の「池大神宮」を再建(棟札)

延宝七 (一六七九)年           日脱上人入山身延山三一世

           関白鷹司房輔卿「七面大明神」の自筆額を奉献

延宝八 (一六八〇)年頃          「七面大明神縁起」小湊誕生寺二二世大中院日孝上人

           妙善寺七面大明神像(立像)名古屋茶屋長以(中島良延)造

貞享元 (一六八四)年           「甲州身延山久遠寺絵図」

貞享二 (一六八五)年           『蓮公行状年譜』豊臣義俊氏

〇(西谷草庵影現龍女と厳島弁財天は別のもの、これを日脱上人が結びつけます(里見泰穏先生)

身延守護の七面大明神として全国に広まります)

貞享二 (一六八五)年一月        『身延鏡』身延山三一世日脱上人

貞享三 (一六八六)年          定林寺七面大明神像立像

元禄四 (一六九一)年          脱師悲田派を訴え、幕府悲田派を禁止します

元禄六 (一六九三)年          東山天皇から紫衣の綸旨を拝受。三一世日脱上人

                     参内にあたり近衛家猶子格となります(久遠寺紋)

                     七面山登山道の整備。追分感井坊建立

元禄一二(一六九九)年頃から       木版刷りの七面大明神御影を領布します(三二世日省上人)

元禄一四(一七〇一)年          七面大明神宮など日省上人の建立。日暹代開眼の像を安置

元禄一六(一七〇三)年          別当寮・籠堂を再建修復

元禄一七(一七〇四)年          燈主堂を建てます

宝永三 (一七〇六)年          久遠寺永紫衣の綸旨賜わります(日亨上人)

宝永四 (一七〇七)年          地震により諸堂が破損しました

宝永(一七〇四~一七一一年)       「身延山絵図」宝永

「池之大臣」が祀られています

智寂坊安置七面大明神像(三二世日省上人の開眼)

正徳二 (一七一二)年          身延一三三坊に発展します。空前の繁栄といわれます

                     遠沾日亨上人「身延山房跡録」を著します

                     「七面山神祠記」雨畑伝説(遠沾日亨上人といいます)

正徳三 (一七一三)年六月五日      三四世見竜院日裕上人小湊誕生寺より晋山

享保二 (一七一七)年          「七面大明神縁起」亮朝院五世日匡上人

享保四 (一七一九)年          宮原村の講中(影向石)に曼荼羅が伝わっています

享保五 (一七二〇)年          『本化別頭高祖伝』(智寂院日省上人は諸説をあげます)

(一六四六~一七二一)年         「池大神宮」遠沾日亨上人

享保五 (一七二〇)年九月        雨畑村により池大神像が祀られ三四世日裕上人が開眼されます

享保一六(一七三一)年          『本化別頭仏祖統紀』六牙院日潮上人

〇(提婆龍女説が目立つようになります)

享保一八(一七三三)年          「七面本地記」大野本遠寺一二世智静院日孝上人

元文三 (一七三八)年          潮師「開会関」額などを染筆

寛保元 (一七四一)年          『学海余滴』了義日達上人

寛保年間(一七四一~四三年)      「身延山図経」

宝暦三 (一七五三)年          社殿建立

          出開帳。四月一日から六十日間。深川浄心寺

宝暦八 (一七五八)年~一三年      七面山奥之院改築はじまります。第四十世耐慈院日辰上人

宝暦一一(一七六一)年          宮原講中(山梨県西八代郡六郷町)影向石に社殿建立

七面大明神像は敬慎院の社殿の古仏を拝戴してきたもの

宝暦一二(一七六二)年         「身延山絵図」

〇(七面山諸堂焼失と復古神道の時代)

安永五 (一七七六)年一〇月一一日夜   七面山堂宇全焼日通上人銘の釣り鐘と池大神像は残ります

安永六 (一七七七)年五月二九日     七面邪神説日唱上人牢死、除歴される(叙歴唱師事件)

安永七 (一七七八)年一月二七日     檀林能化の日遵上人は騒動の責任をもって三宅島に流刑

安永八 (一七七九)年四月        『高祖年譜攷異』(建立諦師・玄得耆師)

六月八日      四七世日豊上人晋山

安永九 (一七八〇)年八月一九日     本社の宮殿(本宮)が新調され現在の基礎となる

施主尾州名護屋惣講中。尊像は大阪の布袋屋が奉献

天明四 (一七八一)年          拝殿・幣殿の再建(「七面造り」)、東面しています

天明四 (一七八一)年九月二七日より   身延山日蓮聖人五百遠忌

文政二 (一八一九)年ころから      国学者の富永仲基・服部天游が宗門批判

文政三 (一八二〇)年          本妙臨師醒悟園を建てます

文政七 (一八二四)年          祖師堂天井より出火、祖師堂・本堂など一三棟を焼失します

                     江戸への出開帳が増えます

文政一一(一八二八)年          大風雨、大洪水のため諸堂・橋・人家など流失します

文政一二(一八二九)年          五重塔より出火し堂宇二八棟、町方など大半焼失します

          優陀那日輝上人『綱要正義』を著します

天保元 (一八三〇)年           江戸深川に出開帳します

弘化三 (一八四六)年九月一〇~一九日   七面山本社永代不易千部経読誦会はじまります

嘉永二 (一八四九)年           七面大明神の江戸出開帳

嘉永三 (一八五〇)年           優陀那日輝上人『庚戌雑答』を著します

嘉永六 (一八五三)年           黒船騒動

安政五 (一八五八)年           安政の大獄

安政七 (一八六〇)年三月三日       桜田門外の変

元治二 (一八六五)年五月         七面山の所属に就いて赤沢村と雨畑村の争いがあります

〇(神仏分離令と七面天女。動揺改進時代)

明治時代(一八六八~一九一二年)

明治元 (一八六八)年           神仏分離令。七面大明神祭祀が問題となります

明治四 (一八七一)年           社寺領上知令が発布され、身延山寺領が官地となります

明治五 (一八七二)年三月二七日      神社仏閣の女人結界の制を解禁します

           四月二五日      全僧侶の肉食妻帯蓄髪を解禁します

           一一月        充治園出身の新井日薩上人は大教院教頭になります

明治七 (一八七四)年三月三日       日薩上人は久遠寺七三世日蓮宗一致派初代管長に就任します

明治七 (一八七四)年           日薩上人は山内改正十六ヶ条を定め西谷檀林を廃止します

明治八 (一八七五)年一月一〇日      身延山炎上

明治九 (一八七六)年二月三日       一致派を日蓮宗と改称する公称許可をえます

明治一一(一八七八)年           身延山久遠寺、日蓮宗総本山となる

明治一四(一八八一)年           祖師堂・御真骨堂などを再建

明治一七(一八八四)年一一月        教導職が廃止されます

明治一八(一八八五)年五月         深川浄心寺において祖師尊像・七面大明神尊像を開帳します

明治二七(一八九四)年七月         日清戦争がはじまります

明治二九(一八九六)年九月         七面山の開闢六百年祭

明治三五(一九〇二)年四月         開宗六五〇年紀念大会

明治三七(一九〇四)年二月八日       日露戦争がはじまります

明治三八(一九〇五)年九月五日     ポースマツ条約

明治四〇(一九〇七)年         身延山は布教団を組織します

大正元 (一九一三)年一〇月二七日     七面山総門新築、羽衣橋の掛け替えをします

大正三 (一九一四)年七月二八日      第一次世界大戦がおきます。

大正七 (一九一八)年一一月一一日     終戦

大正八 (一九一九)年一一月七日      七面山にて開基日朗上人六百遠忌を奉行します

大正一〇(一九二一)二月一六日       日蓮聖人生誕七百年紀念に身延山は山林復古祝典報恩会を

第一期四月十五日~、第二期十月一日におこないます

大正一一(一九二二)年           立正大師号が宣下されます

一一月二一日身延山は諡号宣下慶讃法要をおこない秩父宮殿下が御登山参拝されます

昭和一二(一九三七)年           法華宗に対して教義綱要事件がおきます

昭和一四(一九三九)年九月一日       第二次世界大戦がおきます

昭和一六(一九四一)年四月         曼荼羅国神不敬事件

昭和一七(一九四二)年           宗祖御遺文削除事件

昭和二〇(一九四五)年八月一五日      天皇陛下は無条件降伏放送をおこないます

           九月二日       終戦

昭和三七(一九六二)年一二月        妙石坊の鳥居が復元されます