178.七面山の民間伝説と信仰                高橋俊隆

・七面山の民間伝説と信仰

 七面山の山容は山岳宗教の母体となる要素を多くもっています。北方に金峰山(二五九五b)・朝日岳(二五八一b)・国師岳(二五九二b)を主峰とする秩父連山がそびえ、西北方に八ヶ岳連峰があり、南方に富士山(三七七六b)が位置します。まさに甲斐とよばれた高山の峰が連なります。雨畑の西嶺に笊嶽(ざるがたけ)があり白峰山脈の東にある横峯から、七面山(一九八九b)は東南になります。金峰山は奈良の金峰山をここに倣った山です。山麓には里宮として金桜神社が祀られ、『甲斐国志』には大勢の山伏たちが入峯し修行していたと伝えます。七面山の名も大峰山から倣ったという説もここにあります。八ヶ岳連峰に阿弥陀堂岳(二八〇七b)と権現岳(二七八六b)が高くそびえます。山の名が示すように山岳修行の霊山とされたことがわかります。

日本において山の信仰は早くから根付き土着していました。近畿地方から始まった修行をともなう山岳信仰は、奈良時代から富士山に入ってきます。甲斐修験道の歴史も八代郡一宮興法寺の縁起や、七覚山円楽寺の寺記などからみて古くから行われており、平安時代には富士山・金峰山・地蔵ヶ岳・鳳凰山・大菩薩などの山岳宗教が盛んになります。これにより七面山も修験者の霊山として修行の場となります。日蓮聖人の時代はこの延長線上にあります。とくに、冨士信仰は交通の便が整った江戸時代に更に盛んになります。これにより七面山に足をのばす山岳信仰者もふえました。

神道では山の神を大山祇神(おおやまつみのかみ)と、その娘の木花開(咲)耶姫(このはなさくやひめ)をあて、山神社・大山神祇の神名で祭祀しています。(『日本民俗大辞典』下。七四六頁)。『古事記』や『日本書紀』において、應神天皇の時代に山守部や海人(あま)が定められていたといいます。山地文化を生業による地域区分をしますと、東北日本型――熊を指標とする狩猟文化が支配的で、マタギに代表される狩猟集団は狩猟の習俗や技術を豊に伝承している。北方狩猟文化と類似される。中部・近畿日本型――林業を生業とする文化で森林経営や山林労務、あるいは木器製造を専門とする。前者は山間に定着して焼畑式の山地農耕や狩猟を行い、後者つまり木地屋は良材を求めて集団毎に移動する。西南日本型――いわゆる焼畑文化であり、焼畑・切り替え畑および狩猟を複合的に営む。焼畑と狩猟との歳時儀礼が並行して行われ、独自の焼畑儀礼を有し、狩猟においては猪を指標とすることが挙げられます。(石川純一郎著『天竜川―その風土と文化』)。また、女人禁制の風習もありました。縄文時代から狩猟生活から女性は山に入らなかったといいます。山に入るのは男性に限られていた。山の神は女性であるとする民俗学の報告が多い。山岳信仰は里の人々、いいかえれば農耕をベースにした文化の上に成り立っている。山伏の五穀断ちは農耕民について言えることで、農地の少ない山村の人々にとっては当たり前の生活であったといいます。(『日本の古代』一〇、中央公論社.菅谷文則稿、四三〇頁)。山神は全国的には女性神です。なぜ女性神なのかといいますと、「山は産なり」という中国の古い辞典によるそうです。『廣雅』に「山は産なり、よく万物を生むなり」。『釈名』(釈山)に「山は産なり、生物を産するなり」とあるように、山はあらゆる生産の場と考えられたのです。(若尾五雄稿「近畿山岳信仰と丹生」『近畿霊山と修験道』所収四七八頁) 

現在の七面山の信仰をみるときは、古来からの土着の信仰がどうであったのか、それ以後に侵入した道教・神道・仏教・国学の思想が、日蓮宗の修法にどのように関わってきたかを知ることが大事です。そして、七面山麓の集落の人たちの信仰のあり方と日蓮聖人の神祇観を通して、現在の七面山が神仏習合的な伽藍配置と、日蓮宗の守護神信仰を継続している正当性を考察しなければならないと思います。『甲斐国志』に身延山が七面大明神を祀るのは、比叡山延暦寺に山王権現を祀るのを模倣したものとし、元政上人が身延山を比叡山に似た山であるとのべたことを引いています。七面山信仰には古来より信仰されてきた山岳信仰と、日蓮聖人が身延入山を起源として発展した七面天女信仰の二つの信仰があります。ただし、七面天女信仰は古来の山岳信仰に重なって日蓮宗独自の七面山信仰となりました。このことを踏まえて七面天女信仰の成り立ちをみたいと思います。

中里日応先生は修験道の立場から、箕面山・大峰山と身延七面山の類似点を次のように図示されています。(「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収。八〇頁)。 

             ――大峯七面山――身延七面山

        ―山名――――七ッの池―――七ッの池

古真言修験道――     ――箕面山――――身延山

        ―祭神――――厳島弁財天――七面天女

        ―環境――――山下の七浦――山上の七いたがれ

 これらが綜合されて現在の身延七面山が形成されたと推測されています。つまり、身延山には箕面山の影響があり、七面山は大峰七面山の影響を受けた修験の霊山であったとのべています。また、七面天女の本地は厳島の弁財天であると推測しています。

七面大明神信仰は日蓮聖人が身延入山のときに始まったとしますと、七面山の信仰は七面大明神を守護神とする以前と以後に分かれます。それも、日蓮聖人の在世や滅後すぐに始まったのでなく、大雑把に分けますと、日蓮宗の山として公認された室町後期とそれ以前に分けられます。また、日蓮聖人の滅後から七面山信仰がおき始めた室町時代と、つぎに、七面山が身延山の飛地となり敬慎院を造立するまでの江戸初期から中期の、本格的に七面山信仰が樹立した時代。そして、身延山鎮守の七面大明神が、必ず曼荼羅に勧請される江戸後期の時代。さらに、国学の影響をうけ神仏分離令が発布され廃仏毀釈に荒廃した時代に分けられると思います。これらを起動した出来事に、身延山一一世行学院日朝上人の本堂移設前後の動向。二二世日遠上人と養珠夫人の帰依。不受不施思想による身池対論の裁断。二四世日要上人の七面山の管理下体制などがあげられます。そして、大きな事件となる安永五(一七七六)年の七面山焼失がおきます。この安永の焼失以前と以後を二つに分けてみることもできます。

七面山の信仰は長い歴史があり、歴史的な社会文化によって変遷してきました。この社会の出来事をかさねてみることにより、七面山の信仰がわかるものと思います。はっきりしていることは、七面山には古来からの民俗宗教があり、後述する雨畑村の村民が祀った「池の大神」がありました。つまり、七面山信仰は古来の七面山麓の人たちの信仰からはじまっていたのです。そこに日蓮宗の法華信仰がはいったことです。この法華信仰は法華経の守護神信仰であり、身延山鎮守の七面大明神が勧請されたのです。この過程が七面天女信仰の成立に関わる中核となります。

さらに、現在の日蓮宗の守護神信仰と祈祷修法に関してみるときは、古代からの中国神道と道教の神仙思想の影響を抜きにしては、信仰の本題が見えてきません。七面山信仰は日本の山岳信仰に入ります。中国の風水説(広東派と福建派の二派があるという)は、陰陽説や五行説にもとづき名山や霊山の山頂には竜神がいるとします。そこから山裾に向かって霊的な地脈があり竜脈とよびます。竜脈が山麓から平野部にかかる所に竜穴(土地竜神)があり、そこを中心として方位学により家・墓・廟などを建てることを最良とします。(窪徳忠著『道教入門』二七頁)。山岳信仰には同じパターンがあり、その源流となる民族信仰も同じ系統の伝説が多くみられます。これらのパターンは神道・道教、そして、仏教の影響をうけ、その背景に権力者の政治的圧力、社会の自然災害や経済状況による庶民の情勢の変化があります。人々の欲求に応じて信仰のあり方が変化し発展してきました。思想としては、神仏習合・本地垂迹による仏教的神道の展開と、神儒一致論・国学の隆盛があります。つまり、その思想がおきた社会の大きな情勢があります。そういうなかに、山麓の修行者たちは験力をつけて民間と交わりながら七面天女信仰を広めたのです。修行者や参拝者たちが増えることは、それぞれの地方に伝わる民間信仰的な要素を持ち込み定着させることになります。七面山信仰はこのような過程をたどって久遠寺の範疇をこえた日蓮宗の守護神信仰となり、山岳信仰として重要な役割をはたしているのです。(中尾尭稿「七面山の信仰」『冨士・御嶽と中部霊山』所収一一六頁)。信者の願望は長寿と蓄財が主になっています。それを叶えるため修法師は修行を重ね験者となります。その修法のなかに神道や道教の呪符などが見受けられるのです。

そのなかで問われることは、七面大明神はどのような神なのかということです。また、日蓮聖人と七面大明神の関係です。先師が指摘されたように、ほんとうに、日蓮聖人のもとに七面大明神が姿をあらわしたのでしょうか。日蓮聖人の在世における七面山との関係は甚だ稀薄です。七面山の信仰が身延山と一体となって、法華信仰の霊山となった時期は、中世後期から近世初期にかけてというのが定説化しています。現在、七面山の山腹一帯は早川町であり、山上は身延町に編入されています。土地と敬慎院などの堂宇は久遠寺の所有となっています。敬慎院は一般には本社と呼ばれ、元来は七面山別当の別当所のことをいいます。神仏が混交した霊場なのです。

先師の「七面大明神縁起」は、七面山が身延に編入される渦中において、七面天女の本地や縁起に修正を加えたとすれば、外部からしますと矛盾したところなのです。私たち宗門の者はその真実の事情を知らなければ、七面天女信仰について語れないと思います。つまり、七面天女信仰の利益と、神仏混淆の歴史的認識が必要と思われます。

 まず、身延・七面山信仰について、どのような伝説があるのかを抽出してみます。つぎに、その文献はいつころ作成されたのか、その時代の年表を作ることにより七面山信仰をさぐってみようと思います。

 ―身延山の伝説―

  石割稲荷

  寺平の御塔林

  腰掛け石    石柱にて結界されており、大峰山の亀石に似ている

  妙法二神

  西谷伝説(七面天女影現)

  高座石

願滿社

感井坊

赤沢妙福寺

 ―七面山の伝説―

ご神木

  影向石

  池大神(木仏・金石)

  七ッ池

  奥之院

  役行者

  一の池の竜神(本社)

 このなかで、古くから民間信仰として伝えられたと思われるのは、ご神木・影向石・池大神です。この三つについてみてみます。伝説は何を言おうとしているのか。何を隠そうとしたのか。その目的を明らかにすることにより、原点にある事件の真相が見えてきます。どうじに、信仰の原点となったのです。