179.七面山のご神木と影向石                   高橋俊隆

〇ご神木と影向石

 七面山には「ご神木」といわれるイチイ(アララギ)の大木があります。根のまわりに垣根をもって結界しています。口碑では木樵が伐り倒そうとして斧を打ち込んだところ血が流れ出したといいます。七面天女の神木として崇められています。

「ご神木」の存在は山神信仰にとって特徴的にみられる信仰の一つです。木を神木と崇める信仰はアジア各地に広く認められます。(宮家準著『神道と修験道』九頁)。神木とされる木の特徴は二叉や三又、丸く穴があいているなどの特異な形をした木、栗・卯木(うつぎ)・黒文字の木などがあります。(山崎時叙稿「近江山信仰の民族的研究」『近畿霊山と修験道』所収。四三二頁)。山神信仰は犯してはならない禁忌をともなっています。そこで、神聖な祭地へ立ち入ってはいけないということで、しめ縄を張って結界を作ります。とうぜん木の伐採を禁止します。また、神聖とされる場所を汚す不浄な行為を禁じます。とくに、山林従事者の樵夫(杣夫)であっても、怪我をして流血しているときは山に入らないことがあり、男性の血を忌むことがあります。これは神道の教えによるもので、身体から離れて流れ出た血は「穢」(汚れ、ケガレ)とみなされるからです。頭髪や爪、排泄物なども同様にみることがあります。とくに、神域は女性だけでなく生傷を負って流血している男性が入ることや、神域での狩猟なども厳重に禁止されています。村人にとっての「ご神木」の存在は、樵夫が生活のために山にはいり、感謝と災厄を忌避するために、木霊(木魂)の宿る霊木として崇めたといいます。

この「ご神木」から少し道をのぼったところに「影向石」があります。日蓮宗では日朗上人が波木井氏と登詣されたとき、七面天女がこの石のところに現れたと伝えます。七面天女が姿を影現されたということから「影向石」と呼ばれました。影向石は奥之院の前庭に屹立し七面天女を祀っています。奥之院の由来によりますと、日蓮聖人は七面山に登ろうとしましたが実現できませんでした。そこで、日朗上人が波木井氏を伴って赤沢から登山し、夕暮れになって影向石のところにたどり着きます。すると、急に光るものが見えたので驚いてひれ伏し、しばらくして頭をあげると、もうそれはなくなっていました。二人はこれこそ七面天女が影向した姿に違いないと思って、この岩を「影向石」と名づけたといいます。

また、雨畑村の猟師が偶然に雨畑川から光り物をひろって家にもち帰ったところ、急に家中の者が病気になります。三軒ばかりの家でもち廻りますが皆にも同じ災いがあります。そこで信心深い人の家に祀ってもらったところ、その人の夢枕に「一の池に祀るように」とのお告げがあります。村人はお告げの通り七面山に登ります。ところが、途中で濃霧になり一歩も歩けずに一泊を明かした所が影向石のあたりであったといいます。影向石は七面天女の影現のところ、高座石は得度のところともいいます。(日高白象稿「参道にそって」『七面大明神縁起』所収一三六頁)。

また、日朗上人は身延山をでて赤沢と雨畑の里を通り、裏参道に着いたころは日が暮れていました。闇を透かしてみると、目の前に大石が立ちはだかり大蛇が石にぐるぐるトグロを巻いていました。これは日蓮聖人が説法されたときに現れた七面天女が再び現れる前兆に違いないと二人は語り合います。すると大蛇は石を七まわりして山中に登っていきます。二人はそのあとを追いますが山頂地近くで見失ってしまいます。ふと気がつくとかたわらに荒れ果てた茅葺きの祠があり、そのなかを覗くと「池大神」が祀られていました。二人はこの祠で一夜をあかし、翌日、起きて朝靄のなかをすかしてみると大きな池があります。そして、二人の前にこの池の中から七面天女が瓔珞の冠をかぶり右手に鍵、左手に宝珠をもってあらわれたと伝えます。(宮川了篤稿「七面山の信仰」(『日蓮宗の御祈祷』一三一頁)。日朗上人の所伝には「ご神木」のことは語っていません。影向石に現れた大蛇は一の池に案内し、そこに祠が祀られ「池大神」であることが語られています。そして、そのご神体とすべき七面天女が池中より出現されたと伝えます。「ご神木」と「影向石」の伝説は比較的に新しいと思われます。

大峰山にも「お亀石」と呼ばれる亀の甲に似た霊石があります。大地にのめり込むように岩根に据わっており、この「お亀石」は熊野までつづいているという伝説があります。回りを石の柵をもって結界をつくっています。聖護院の大峰奥駈修行の修験者たちは上からのぞみ込むようにして勤行をします。山のなかには神秘的な岩石・樹木・池沼などがあり、その神秘性に修験者たちは山岳信仰・洞窟信仰・巨巌信仰・竜神信仰などとしてとらえていきます。この「お亀石」は「影向石」とか「護法石」とよばれます。修験者はこの奇巌の上に役行者や護法童子の姿をうかべるのです。(五来重著『山の宗教―修験道』一七九頁)。つまり、山岳信仰の視点からみますと、古来から里人たちによって、七面山に「影向石」の信仰があったと思われることです

 また、赤沢の部落に妙福庵という真言宗の信仰寺院がありました。日朗上人がここに一泊されて、六軒の部落民が帰依されたといいます。この夜に日朗上人の夢枕に立たれたのが子安八幡大菩薩(子安自現大菩薩)といいます。安産守護の神として尊崇されています。九月一九日に妙福庵の住職と六人の部落民と尾根づたいに、七面山の山頂にのぼったといいます。妙福庵は身延山九世日学上人のときに妙福寺となり、二四世の日要上人のときに七面山と三道の宗説坊・神力坊・蓮華坊・肝心坊・中適坊・晴雲坊の六か坊を身延山に寄進しています。それまでは七面山も妙福寺が管理されていました。この事実は七面山信仰の形成を知るうえで大事なところと思います。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収一〇八頁)。

そして、延宝年間(一六七三〜一六八一年)に、学禅院日逢上人が始めて小さな祠を建てたと言います。宝暦一一(一七六一)年、身延山四二世日辰上人の代に本殿・拝殿を再建され、その後、七五世日修上人の代に再建されています。(今村是龍著『身延の伝説』八〇頁)。この影向石に社殿を建て七面天女を祀ったのは、甲州河内領内宮原村(六郷町宮原)の村民です。宮原の題目講中に伝わっている曼荼羅に、渡辺市右衛門を先頭にして資金を調達し、宝暦九(一七五九)年から二年をかけて、影向石の七面宮を建てたことが書かれています。講中に伝わる曼荼羅に享保四(一七一九)年のものがあります。毎年、七面天女の大祭の前日の九月一八日に、宮原の人達が影向石のしめ縄を奉納します。かつては百貫ほどの藁で長いしめ縄をつくり、それを一晩かけて運び上げ巌に張りかけたといいます。年月を経るに従い、この宮は破損したので、明治一一(一八七八)年から明治三六年にかけて本社の拝殿と庫裏を修築したあと、影向石の管理は渡辺・井上両氏を本願人としました。大正年間には村会で管理と運営を行ったことがあるといいます。また、影向石の庫裏に定林寺の住職がすみこんで登詣者の信仰指導をしていたが、戦後になってから七面山の山頂はすべて身延山の所有であるという久遠寺の主張によって両者は対立します。その結果、定林寺と大定寺の住職が九月の大祭を堺にして四年交替で給仕されています。(中尾尭稿「七面山の信仰」『冨士・御嶽と中部霊山』所収一〇五頁。「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の霊場』2所収一三一頁)。