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〇七面天女いぜんの「池大神」「七がれい」といわれるように、七面山は山の斜面が崩れて岩石がごろごろしていました。古来より修験道が盛んな山といわれ、山頂にある大きな池のほとりには「池大神」が祀られています。(竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』一一二頁)。「池大神」の姿は修験道の祖といわれる役の小角の姿となっています。役小角については後述しますが、文武天皇年中(六九七〜七〇〇年)頃に活躍した修験者です。人を呪術で妖惑した罪で六九九年に伊豆に流罪されています。日蓮聖人は『忘持経事』に、「役優婆塞大峰只今云々」という一文をのべています。これは、富木氏が母の遺骨を身延山に納めた道中の難儀をのべたところです。 「峨々大山重々、漫々大河多々。登高山頭挿天、下幽谷足踏雲。非鳥難渡、非鹿難越、眼眩足冷、羅什三蔵葱嶺・役優婆塞大峰只今[云云]。然後、尋入深洞見一庵室」(一一五一頁) 高山に登れば頭は天に差しはさむようであり、幽谷に下れば足は雲を踏むような道中であり、身延山へは鳥や鹿でなければ眼がまわり足も震えてしまうような深山であるとのべ、役行者が厳しい修行をした大峰山と同じようなところであると身延山を喩えています。役行者が大峰山で修行をしたという認識と、喩えとして身延山も修験者の山として、厳しさは同格であるという認識をのべています。ただし、七面山が修験者の山であるということにはふれていません。しかし、七面山が「池大神」の姿を役の小角としているところに、修験道の霊場であった痕跡をみることができます。そうしますと、日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとして、「池の神」の信仰があったことになります。山麓に点在する村々の人たちは山岳信仰の特徴である「池の神」を祀っていました。一の池のほとりに沙竭祠ともいう「池大神宮」(池大神社)が建っています。この「池大神宮」こそが、七面山に七面天女を勧請する以前から、雨畑村の村民が信仰していた「池の大神」にほかなりません。池大神の像を作ったのは雨畑村の住人で、享保五(一七二〇)年に祀っています。池大神の姿は老爺の姿をした神像です。雨畑のいわれにより毎年三月の一の辰の日に村人が祭礼をしています。この像の容姿から役行者といわれています。はたして、池大神の正体は役行者なのでしょうか。七面山を鎮護する守護神ではないのでしょうか。末法鎮守の七面天女とは異なるのでしょうか。 七面山信仰はこの「池大神」信仰に、後年、日蓮聖人と法華経の信仰が広まってきて、七面大明神の信仰が加わります。七面大明神は身延山の鬼門をまもる鎮守神として意味づけられました。それが七面天女と呼ばれた女身の形の福神です。身延山一四世日鏡上人、一五世日叙上人、一六世日整上人などのときに、七面山が身延山の霊場として脚光をあびてきます。そして、七面山の山全体が七面天女とされます。七面山信仰のひとつに千枚供養という、紙塔婆による供養が山頂の五〇丁までの道のりにつづいています。この千枚供養には麓の滝にうたれて川に流す水向供養もあります。自己の罪障消滅や呪縛霊の供養などの信仰がうかがえます。 〇七面山の七つ池と竜神七面山には七つの池があるという伝説があります。六個の池は見た者がいるが七番目の池を見た者はいない、という神秘性をもつ伝説です。 一、「身延山の伝説」(『身延町誌』一一二二頁)にはつぎのようにあります。「七面山には、池が七つあるという。そして第七の池は決して見ることができない。もし見ると、その人は必らず目がつぶれるといわれている。ある時、信州の樵夫(きこり)が山の中で迷ってこの池のほとりに出た。清らかな水と静かな森にすっかり魅せられた樵夫は、美しく乱れている池のほとりの名も知らぬ紫の草花をむしり取って池の面へ投げた。すると、不思議にも今まで少しも波がなかった水面に渦巻が起きて、それがだんだん大きくなって、果ては岸をかむ大波がものすごい勢でおし返すようになった。そして、その波の間から竜が突然飛び出して天上した。この有様をみて驚いた樵夫は、一散に山麓へ逃げ下った。しかし、その時あわてて斧を置き忘れて来た。それで今後もし斧が発見された池があったら、それが七面山の第七の池であるといい伝えられている」とあります。 二、また、「麓の樵夫が途に迷って数日間、疲れはてて生きた心地も無く昏睡した。いく時間たったのだろうか。草葉の露か水の滴かにふと目ざめてみると夜明け近い。あたりは霞みわたって濛々としている。ぼんやりと青い草原が見える。紫色の花が麗しい。樵夫は恍然とこの太古神仙境にみとれているうち、だんだんと夜も明けてくる。今まで霞んで見えなかったが直ぐ目の前は、清らかな水を湛えた大きな池である。池の表から白い靄が糸のように立ち昇る。周囲に咲き乱れた花は馥郁と鼻をつく。淘然として見ていると、その池の中心と思われるあたりが、俄に小波が立つかと、みるまに、かの淡い白雲が密集してきて、それが上の方に昇りはじめた。そこへ今しも輝き出した旭光がさし映って、それが金鱗銀鱗の霊竜の昇天のすがたに見えた。あまりの神々しさ恐ろしさに、樵夫は我を忘れて逃げ出した。一目散に駆けた。藪といわず、沢といわず、夢中になって走って、やっとの思いで村に帰ってきた。この話を村人にしたところ、一同も、この近くにそんな恐ろしい所があるのかと、身の毛もよだつ思いをした。それがきっと、あの「第七の池」だろうということになった。樵夫もこの話のあとで気づくと、大事の稼ぎ道具の斧を池の傍らに忘れていたことを憶い出したが、再び取りに往く念はとても起こらなかった。」という話しです。 この「七つ池」話のあとには、樵夫が置き忘れた斧が「第七の池」のほとりに、今でも錆びながらきっとあるだろうとつけ加えられます。この話が事実であることと、いずれは池が発見されるかもしれないという情念が錆びた斧にこめられています。しかし、ふつうの人間なら、その池を見た者は「目がつぶれる」と伝えるのは、汚れた人間が立ち寄ってはいけない、竜神が棲む神域の池であるからです。それを犯した者は失明すると言い伝えられました。その池は誰も見たことがないという神秘性をもっています。この話を聞いた子供達は山への畏敬と恐れをもち、けっして山奥には入り込もうとはしなかったでしょう。現実にこの池があるのか、大量の降雨により水がたまる池のことをいうのかわかりませんが、一説に第七番目の池は国の境にあるのであろうと噂されています。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収一〇頁)。 山の神にはその山の主となるニギミタマと、人を脅かすアラミタマを認めたのが日本人の古い神の観念といいます。このアラブル神は出雲や中国・四国地方に伝わったのが荒神で、それは多く大蛇に象徴されて祀られており、しかも、普通の信仰としてではなく呪術的対象となっているといいます。(和歌森太郎稿「山岳信仰の起源と歴史的展開」『山岳宗教の成立と展開』所収。一六頁)。ここに、畏怖心が強いほど大蛇は竜神として象徴され、呪術を駆使する修験者の登場の場となったと考えられます。大峰山にも七ツ池がります。山伏伝承では理源大師の大峰奥駆けのときは大蛇を退治して道を開いたということになっており、その大蛇をすてたのが七ツ池といいます。(五来重著『山の宗教―修験道』一八九頁)。身延七面山の池大神・竜神信仰とは由来が違うことがわかります。 早川町薬袋の円立寺の所伝によりますと、日朗上人が登詣のとき池の水で手を洗い清め、手に持っていた薬袋を投じたところ、ということから村の名を薬袋と称し、薬師堂を建てて現在に至ったとあります。七面天女の七池の一にあたる霊跡といいます。開創は明応元(一四九二)年三月とあります。(『日蓮宗寺院大鑑』三五二頁)。山頂より低いところに一の池と二の池があります。このあたりが七面山の神域となります。一の池の池畔に敬慎院があり、二の池を少し下がったところに奥之院があります。七面天女はもともと竜神で、七面山頂上にある七ッ池をすみかとすると信じられ、嵐の日には二の池付近で天にかけ昇る竜神の姿を見ると言います。(中尾尭稿「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の霊場』2所収一一七頁)。 一の池の霊池は「おいけ」と呼ばれ、かつて一艘の木舟が浮かべてありました。この木舟は富士川上流の鰍沢の黒沢から奉納されました。敬慎院に水道施設が整うまで、一の池の水を飲料に用いていました。そのとき水面の藻や落ち葉を取り除くために用いられました。また、「お砂」という池底の泥土をすくい上げるときにも使用していました。一の池の南端の淵は「お土」で白くなっています。池の広さは直径およそ三百bといいます。その底はすべて珪藻土となっています。この土の効能は切り傷・腫れ物などの皮膚の傷に効能がありました。また、熱冷ましに効能があったので池を「無熱池」とよびました。この「お土」よよばれる藻土は、植物性プランクトン(珪藻)が、長年にわたり海底に堆積化して化石化したものです。(『身延町誌』二三頁)。珪藻土は塗ると壁自身が呼吸して、空気中の湿気を吸収したり吐き出したりし、湿度をコントロールしてくれます。結露の防止にもなりますし、お部屋の乾燥を防ぎ、身体にも優しい環境を保ってくれます。空気清浄・断熱性・耐火性にも優れています。この「お土」は毎年七月下旬に池より採取していました。私も信行道場に入ったとき、この「お砂」を作った経験があります。 |
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