181.民間信仰と伝説(七面山)               高橋俊隆

◆第二節 民間信仰と伝説

〇民間信仰と民間伝説

本題の七面天女信仰にはいるまえに、雑駁に民間信仰のことを踏まえていきたいと思います。私たちの遠い祖先から今日にいたるまで、変わらない信仰が脈々と続いていると思います。たとえば太陽や星などの天体に関すること、山や海、食糧などの生活につながるものや祖先霊などを崇拝する感情が、神という概念に捉えられ儀式という信仰形態を作り上げてきました。これらの根源は人間の素朴な信仰であり、歴史的な変革に伴って形成されたのが今日の儀礼でありましょう。ですから、七面山の信仰においても、鎌倉時代を出発点にして捉えるだけでは、人間の根本的な信仰を見逃す恐れがあります。民俗学においては民俗・民間のなかで伝承されてきた歴史的変遷を明らかにし、風俗、慣習、思考などの実態を究明します。私たちの祖先がいかに生きてきたかを知ることにより、現在の私たちの存在を認識するものです。とくに、霊魂・来世・妖怪・卜占・祈祷などの信仰は大きなウエイトを占めています。祖先の祈りは私たち子孫へ託す祈りなのです。つまり、七面山を崇拝し守ってきた人達の、信仰的な祈りを知ることが大事なのです。そこには七面山信仰の成り立ちが、他の山岳信仰と同じように根付いてきたことがうかがえると思います。まず、日本の民間信仰とその伝説をみてみます。

民間信仰

民間信仰の用語は姉崎正治氏が、明治三〇(一八九七)年に初めて用いました。(「中奥の民間信仰」『哲学雑誌』)。仏教信仰は常識の範囲に入るので民間信仰としますが、信仰習慣が一般人の常識に反するものを迷信と呼びます。民間信仰という用語をもって迷信と峻別しました。一般的には体系や普遍性をもたないものを民間信仰といいますが、地域の一部に信仰されたものは迷信や俗信とされました。それを受けて堀一郎氏が体系的に論じ、昭和四五(一九七〇)年代あたりからは、英語のfolk religionにあたる民俗宗教と称されるようになりました。この民俗宗教は神道・道教・仏教・儒教・修験道・陰陽道・キリスト教・新宗教の諸要素を包含してきた日本人の宗教性を考察します。(宮家準著『神道と修験道』八頁)。民俗信仰・庶民信仰・民俗宗教は超自然的存在に霊力を感じることから発します。経典・教義・教祖・教団をもたないので俗信的ですが、それだけの理解では弥生時代以来のカミ観念やカミ祭りなど、日本古来の基層信仰を説明できないと思います。(『日本の古代』一四、和田萃稿、二六四頁)。民間信仰の用語は、韓国・中国・台湾などにおいても同じ漢字語として使用されています。本書においては原初的な基層信仰に焦点をあてます。

日本人は縄文の昔から自然崇拝に発した信仰をもっています。教義をもたない自然発生的なもので、神の観念として個人や地域に祀られてきたものを伝承的信仰といいます。さまざまな自然神を認めるので基本的には多神教となります。山には産神としての精霊(ウブ)がおり、祖霊が宿る霊山として信仰され、天界への道とした山岳信仰に発展します。(宮家準著『修験道と日本宗教』五頁)。このような信仰は時とともに変化してきました。弥生時代におきた初期の変化は、中国大陸や朝鮮から渡来した民族との合流によります。他民族の信仰である道教に影響されました。とくに、後述するように道教の呪術信仰の影響は、現在の日本人の生活のなかに定着しています。宮家準氏はその変化がどうして起きたのかを大きく三つに捉えています。

一、内在的な進化

一定の地域に限定された単一的な形から、複合的な分科した形に展開することをいいます。縄文時代は山林から採集や狩猟した恩恵として山への信仰があります。弥生時代になると水田稲作をするようになり、山から流れ来る水は命の支えとなります。里人は山への畏敬の心から、山中には入らず山麓にて祭祀しています。(原田敏明著『日本宗教交渉史論』)。これが、日本の神道の淵源といわれます。このような民間信仰が日本民族の基層信仰を形成しました。その過程に自然宗教から民族宗教としての神道的な信仰が成立していきます。これは現代も変わらない日本人の自然信仰となっています。

津田左右吉氏は古代の神について、自然界における神は山や海、動物の形をとることがあるので、蛇や狼、大きな樹や石、日や月、風や雷、火を神と見たとのべています。また、人間の生活になくてはならないもので、ミマクリ(用水路の分岐するところ)・井戸・竈・家の門戸・土地・食糧としての米・人の血なども神とされたといいます。生活を害するものに対しての脅威、恐怖、また、生活を保護され生命が維持されるもの。人がそれに依頼しうるもの。この二つの意味において人の力の及ばない霊力をもったものが神とされたとします。また、カミのミが語根であり霊的な力のあるものを指して言うのであり、ヘミ(蛇)のミ、ヤマツミやワダツミもこのカミのミと同じであるとのべています。(『日本古典の研究』『津田左右吉全集』第一部。二四七頁)。古代日本人は山岳・海上や川中の島を神霊の住まう所として崇めるとともに、魑魅魍魎の跋扈する異界として恐れてきました。とくに弥生時代以降、山麓に定住して水田耕作を営むようになると、山には水を授けてくれる山の神(水分神)がいるとし、蛇・狐・鹿・熊・猿・鳥など、里にしばしば現れる動物をその使いとしました。そして、神霊がいる山を禁足地とし、山麓に祠を設けてその神を祀り、春の農作祈願の祭り、秋の収穫感謝の祭りを行い、豊穣と地域の守護を祈願しました。とくに、蛇体信仰は縄文時代より見られるもので、蛇の習性が冬には地下で冬眠し、夏になると地表に蠢く姿は大地の精霊として信仰されました。その脱皮して成長する蛇体は地霊信仰と結びつきました。また、死後の霊魂は山に行って山の神と習合すると信じたことから、山麓の祠は氏神とされました。さらに、新生児も山の産神から魂を受けることによって、生を得ると考えたことから氏神は産土神と呼ばれます。そして、氏神は神社に奉仕する女性に憑依して託宣し、里人はその指示に従って生活してきました。その後、山岳修行を旨とする仏教や道教が伝来しますと、そのような恐れた山岳で修行する者があらわれ、里人は彼らを山の神の超自然的な力を得た宗教者と崇め、治病などの現世利益的な希求に応えることを期待していきます。(宮家準著『神道と修験道』四八頁)。

日本の山の信仰には狩猟文化的な要素と、農耕文化的な要素とがあります。山の神の発達史として、@狩猟民の山の神→A焼畑農耕民の山の神→B平地農民の山の神、という段階を経たという説があります。(佐々木高明著『稲作以前』)。AからBは山の神が里に来て田の神となるという、交代の信仰と似た構想をもっていますが、狩猟民の信仰を比較しなければならないといいます。(『日本の古代』一〇、松本光太郎稿、三三五頁)。野生植物や鉱物の採取、焼畑耕作などのうち重要だったのは狩猟です。狩猟に関して大伴家持は『万葉集』に、鹿や猪は朝、鶉や雉のような鳥は夕暮れに狩猟したとのべています。鷹狩りは朝早くに出る朝猟と、陽が落ちかかってから放鷹する夕猟があります。野生植物の分布についてみますと、東南アジア大陸の北部から中国南部を東西に走る照葉樹林帯、東は日本の西部を含んでいます。ここではワラビ・クズ・テンナンショウ類などのイモ類や、カシ・トチの実のような堅果を採取し、これを水晒ししてアクを抜いて食用にしています。この照葉樹林文化は古代日本の狩猟信仰につながるといいます。旧石器や縄文時代は北方につらなりますが、焼畑耕作は中国南部の照葉樹林文化の系統になるといいます。農耕の予祝儀礼としての狩猟の習俗は、日本から華南をへて中部インドまで分布しています。日本の土地は酸性土壌が多く、そのため森林を焼いて大量の木灰を土にかえす必要があります。焼畑によりリン酸や塩基類も短期的に豊富となったので畑作が可能になりました。日本の土壌に適した畑作は焼畑耕作だったのです。しかし、焼畑を三年しますと森林の回復に限界ができます。ですから、畑作に適さない土地に手を加えてまでも水田を作り稲作に固執したのです。稲作に必要な条件は山であり、その集水性だったのです。また、漁民にとっても舟を作るために山は大事だったのです。焼畑をするときは山の神の許しを得て山を借り、数年間耕作して再び山を神にお返しするという習俗があり、このときに山の神に呪文をささげます。猟犬を山の神の家来と信じて猪狩りに使う信仰もあります。(『日本の古代』一〇、鈴木重治稿、三五五頁)。

二、他の宗教との習合

弥生時代・古墳時代から大和、飛鳥時代は、大陸からの渡来人が九州や関東、関西に移住してきます。渡来人により移入されたシャマニズム・道教・陰陽道・仏教などの、外来の民族信仰の影響をうけます。とくに、古代中国の江南地方や朝鮮半島(高句麗・新羅・百済)から、現在の基盤となる信仰が移入されました。卑弥呼の時代の鬼道信仰、欽明期の仏教伝来、皇極天皇の神仙思想、天武天皇の日本神道と伊勢神宮の祭祀、そして、奈良時代には国家仏教が確立します。この間、地域における氏族の祭神が、成立宗教化した神社の神とされます。とくに、蕃神(『日本書紀』欽明天皇十三年条)といわれた仏教が、八幡神や明神などの日本の神々と同居し習合し、平安仏教に展開していきます。これは、大きな民族信仰を受け入れ習合したことになります。

三、社会変動によるもの

社会の権力者により土着の民族宗教に、強制的に他宗教と習合されることをいいます。たとえば、仏教伝来により崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏が対立し大化の改新があります。壬申の乱のあと天武天皇は天照大神を皇祖神とします。大宝律令の成立などは社会の政権の変動や、社会の生業形態や組織などの変化によります。それにより、職業神や守護神が信仰されるようになり、このような社会全体の変化に誘発されることをいいます。(宮家準著『宗教民族学』三九二頁)。七面山信仰も、このような視点から考察しなければならないと思います。

民間伝説

民族信仰は地域社会で昔から語りつがれてきた神話や昔話、伝説などを素地としています。伝説は伝承地の民間において、必ず事実として信じられているから伝説となります。信じられなくなると童話(昔話)もしくは民間説話になります。(高木敏雄稿「人身御供論」『日本神話伝説研究』2.一二五頁)。このような民間伝説は文字にしないで口から耳へと伝えられたことから、伝承文芸とか口頭伝承といわれます。ですから、口承文芸は一般に、昔話伝説世間話などの民話からなります。このうち、昔話には、発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「どっとはらい」など)に代表される決まり文句があります。また、時代や場所などの固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られます。登場人物の名前も「爺」「」や「桃太郎」(桃から生まれた長男の意味しか持たない)などのように、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的に語られています。

これに対し伝説は同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が的確に示されています。登場人物も歴史上の有名な人物や、その土地に知られた人物などを詳細に示し、定義において昔話との大きな相違点とされます。柳田國男氏は伝承文芸を昔話系と伝説系とに区分し、昔話でないものを「伝説」と定義しました。つまり、伝説には伝記風の態度と要素がありますが、昔話はフィクション(創作)として語られています。伝承文芸を中核とする民族宗教は、その伝説を象徴としてとらえます。その内容をくわしく分類し解読する方法がとられ、全国に同じような伝説がみられるばあい、その類似した現象を比較し脈絡を類推します。七面山信仰においては、七面山周辺の共同体はどのように成立してきたのか、その土地柄を知ることから始まります。そして、どのように祀られ信仰され儀式が成されてきたかを調べます。つまり、伝説が自然現象にまつわるものか、当事者の異常体験によるものか、特定の地域に密着したものかなどを全体的に把握して、全国に伝わる説話との共通点をさぐることにあります。そこに、民族信仰の根底にある素朴な信仰がみえてきます。地域や家などの狭い範囲のできごとが、先祖から伝えられてきたので民間伝説といいます。(宮家準著『宗教民族学』一八四頁)。伝説は先祖の経験した記録であり、血縁・地縁などの共同体に伝えられてきました。儀式をともなう信仰伝説は、なんらかの事物(事件)に依存することによって存在します。そして、首長や祭祀を行う者は村落共同体の崩壊を防ぐために、長い歴史のなかで伝統的な軌範をつくったのです。(関敬吾著『日本の昔話』七七頁)。

さらに、宮家準氏は柳田国男氏の伝説のよりどころを分類した説(『日本伝説名彙』)と、関敬吾氏の伝説の分類(『日本の昔話―比較研究序説』)をあげて、柳田国男氏の伝説の分類である、一、木(木・蕨・芋・菜・薄・竹・葦)。二、石・岩。三、水(橋・清水・井・湯・池・川・渡・櫃・淵・滝・水穴)。四、塚(穴)。五、坂・峠・山(谷・洞・屋敷・城跡)。六、祠堂(地蔵・薬師・観音・不動他)と、関敬吾氏の伝説の分類である、一、説明(発生)伝説。二、歴史的伝説。三、信仰伝説の三つに分けます。つまり、一の説明伝説とは自然現象の岩・石・山・谷・坂・峠・池・沼などから発生しています。神の依り代としては樹木よりも石や岩の方が古いといいます。二の歴史的伝説は人物や事件を伝えたものです。そして、三の信仰伝説は山の神・山男・山姥・天狗・水神・河童・池沼の主・竜神・蛇・妖怪・巨人などを主体とした伝説をいいます。このような表現をする原質は、山麓に生活する人々の祖霊にあるといいます。(五来重稿「大和三輪山の山岳信仰」『近畿霊山と修験道』所収一八四頁)。日本の昔話の主人公は他の民族と違って四足獣は少なく、蛙・蛇、古くは鰐(海蛇)で爬虫類のような水棲動物や、水に関係のあるものが多いといいます。これは農耕文化との関係といわれ、銅鐸の図柄などにうかがえます。始祖伝説や三輪山の大物主神にも蛇(蛇神)が登場し、緒方一族の言い伝えもあります。(『日本伝説大系』一四「親蛇子蛇」)。狐は信田森(葛葉稲荷)神社、蒲生氏郷も狐の子という言い伝えが、偽書といわれる「江源武鑑」にあります。(『折口信夫全集』「信太妻の話」)。狼は高木加門、鹿は和泉式部の祖先と結びついています。(関敬吾著『日本の昔話』八五頁)。また、蛇神(水の神)としては、伊勢の二見が浦の蛇霊信仰、伊勢神宮の五十鈴川上流の川神・水神を、天照太神の前身神として蛇・水とする説があります。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』一九八頁)。民間信仰はこのような事物伝説に依存し、祖霊神を祭祀したところにあります。

七面山信仰を知るには、他方において七面山のそれぞれの伝説の分析によるものではなく、その神を信仰してきた地域集団の祀りかたを知ることも大事です。つまり、村の歴史(歴史伝説)における信仰体系(民間信仰伝説)のなかにある、儀式や祭礼に原初の信仰形態を見いだすことです。この祭祀が存続するためには村落共同体の人々の支持がなければならなりません。また、その村落に限られた祭祀は地方伝説といわれます。そして、特定の場所にある樹木・石・池沼などの起源を説くことを説明伝説といいます。そこで、七面山の信仰をみますと、木(ご神木)。石(影向石)。池(池大神・竜神)。人物としては役行者の存在があります。そして、天狗(妙法二神)や、七ッ池の竜神(蛇・水)などにあてはまります。つまり、七面山信仰も民間信仰に納まる範疇にあるということがわかります。たとえば、信仰の面からどのような共通性が見られるかといいますと、地上の山や海に見られる信仰は、地神(地主神)・山神・峠神・森神・岩神・石神・湖神・池神・海神・竜神などがあります。動物としては蛇・鹿・猪・蛙・狐・牛・馬・亀などを神の現れや神の使いと見ます。これらが発展して蛇を理念化した竜が海や川池の神となり、熊・猪・鹿が山の神、亀は大地を支える神となります。目に見えない自然神が、これらのものとして現れその使いとされるのです。自然動物の信仰には畏怖観が伴います。また、自然に関する神に、天体として日・月・星の信仰や神風・雷神などがあります。これは日天子・月天子・明星天子の三光天子であり、北極星を祀る北辰、北斗七星を祀る妙見尊星(菩薩)などの信仰に発展します。日蓮聖人は『四条金吾殿御消息』に、

「又かまくらどのの仰せとて、内内佐渡の国へつかはすべき由承り候。三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ、龍口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下て日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定て守護あるべきかと、たのもしたのもし」(五〇五頁)

と、佐渡流罪の難事にあたり、三光天子の守護は確実であるとのべ、身近な存在となっています。

『古事記』中巻において、倭建命が伊吹山の神に素手で戦いを挑んだ話しがあります。山に登る途中で会った白猪こそが山の神であったとされ、怒りに触れ伊勢の能褒野で絶命し白鳥となって大和へ飛んでいきます。この解釈は陰陽五行の導入によるという説があります。『日本書紀』では同条の山の神は蛇になっています。三輪山伝説でも山の神は蛇とあるように古伝は蛇なのです。熊神をみますと日本はアジア北方民族である蒙古・満州・朝鮮・アイヌに共通しています。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二一六頁)。ほかに、八幡の鳩、春日の鹿、日吉の猿、熊野の鳥、稲荷の狐というように、特定神社の神使の動物が決まっています。山の神は十二様ともいいます。通説では一年の月数といい農事に関しての解釈によります。、十二支の一二番目が亥であるからともいいます。山の神の祭日は一二日が多く(ほかに七日・九日)、月では二月と十一(一〇)月が多くみられます。これは気候・地形・地質の違いによります。これらの祭日には山稼ぎに出るのを戒めます。月日は地方により異なりますが、田の神が天や山から降りてくる祭りや、田の神を送る祭がなされています。田の神が来て田植え始めをする日をサオリ、帰るときをサノボリといい、このときに作神の祭を行います。この言葉は五行から解釈しますと「卯の三合木局」になります。サとは「卯=茆(ぼう、かや)=茂=サ」から、木気の正位の卯を示した神名といいます。つまり、サとは卯のことで、卯の神は春の農業神と捉えたのです。それに対し亥の神は秋の収穫神と捉えたのです。

卯――二月――サオリ―――田―――田の神

亥――十月――サノボリ――山―――山の神

これが、山の神と田の神の交替になります。また、『和名抄』の山神は「夜萬之加美」(やまのかみ)と訓まれます。『古事記』『日本書紀』には「山津見」「山祇」(やまつみ)とあります。「山祇」とは山を支配する男性~といわれます。しかし、日本の歳時習俗のなかに見られる山の神は、田の神と関連し女性とされます。山を女性として捉えることは古代からあり、これに陰陽五行思想が導入され、山の神を女性とする新しい理論をもったといいます。陰陽五行においては西北を山岳とします。西北は戌亥のことで亥が入ります。亥月は旧一〇月で、卦象のhttp://100.c.yimg.jp/lib/gaiji/gif/l/01074.gifhttp://100.c.yimg.jp/lib/gaiji/gif/l/01074.gifは純陰で女性を表します。ここに女性神が誕生したといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六一頁)。なを、朝鮮では山を「神山」として神聖視し、「大宗」(コマル)・「神」は山全体を神とする山岳信仰をもっています。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二一八頁)。

日本人は祖先神の山、死霊が常世に通じる安住の山という観念をもってます。古代において死者の霊が隠れ住むということから、「隠口」(隠国、こもりく)という言葉がうまれました。壬申の乱で活躍した大和豪族の子女、土形娘子(ひじかたのおとめ)を泊瀬(はつせ、桜井市初瀬の古名)の山に火葬(やきはふ)る時に、柿本人麻呂が歌一首を作っています。「こもりくの 泊瀬の山の 山の際(ま)に いさよふ雲は 妹にかもあらむ」(死者が隠れる隠口の泊瀬の山の山際に、ただよっている雲は愛する貴女なのでしょうか)。この、枕詞の「こもりく」は葬送の入口という「隠口」の意味をもっています。また、大伴坂上郎女が竹田の庄(たどころ)にて作った歌の一首に、「こもりくの 泊瀬の山は色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも」と詠んだように、「こもりく」は死者の山です。「隠口」というのは山に囲まれ隠れている所のことをいいます。泊瀬は大和の盆地から隔絶しているように、盆地の中の小盆地であることから、「こもりく」と呼んだといわれます。この「隠口」の山という言葉のなかに、死者が安らいでいる霊山という観念があります。これが山中他界観念として現れるのが、山中に死者の遺髪・遺歯・遺骨の一部を埋納し、墳墓を造って死者の冥福を祈ることです。死者の肉体が土にもどり、山懐に抱かれて子孫を見守っているという安堵感をもちます。祖霊が鎮座する霊山として尊崇されるようになります。そして、仏教思想による無常観・厭世観をもち、また、念仏往生を願い、生者が山に隠棲しこの山にて他界することをのぞんだ者もいます。(堀一郎『民間信仰』二三八頁)。死者が安らぎ棲む霊山に祖先信仰があり、生者に潤いを与える神体山としての信仰が形成されます。

ここに様々な伝説が生まれました。これらの伝説にも一定の展開があります。最初は村人の不思議な体験話しというものが、代々に語りつがれていくと、村人を結束させる大事な信仰となります。自然伝説の場合は事件の奇蹟が信仰される要素となり、それが神話となることもあります。その後の事件の経過や現実から、その事件の内容や特徴を類推する必要があります。個人的な事件は主人公の困窮と、逆境から始まるものが多くみられます。柳田國男氏(『昔話と伝説と神話』)によりますと、伝説は信実の報告であるとします。人物・場所・時代と結びつけて報告するのは、伝説が信実であることを強調するための叙情形式であり、それが単純であることは信実の報告を目的としているといいます。地方伝説は伝承地にある巨石・巨木・山河・動物などの巨怪神秘な存在と結びついています。この信憑性は個人や社会の文化状態にあります。地域の共同体においては、同族や仲間などの集団表象として支配されることがあります。つまり、地域共同体の伝説は、その地域に住む人達にとっては神秘的な真実なのです。(平野仁啓著「古代宗教論」『岩波講座日本歴史』第二期)。一方、移動伝説というものがあります。これは同じ伝説が各地に見られることです。共同体の結合や生活基盤がゆらぐと、土地に定着していた農民などが移動を開始するのと似ているといいます。(関敬吾著『日本の昔話』一二八頁)。一族や子孫などが事情により移住し、祖先の伝説や祭祀を新地にて継承したのです。成立していた民族信仰が時を経るに従い、新たに他からの思想や信仰の影響をうけます。

七面山の地理から住人の生業をみますと、山を居所とする山民と里で農耕をいとなむ農民が存在します。山民は狩猟を生業としますが、山中の木を管理する木樵や採鉱製錬に従事する山師もいます。山にたいしての帰依と畏怖を中核とした感情が生じて守護神霊が祀られてきます。初期の民族信仰は山や木、石、水などを崇拝する自然崇拝と、祖霊にたいする精霊崇拝を基調としています。植物では松・杉・檜・榊・楠・桜などが神木とされ、峠の一本杉、雷の落ちた木など、神格化された自然と結びついた植物が神木とされています。このような七面山の環境のなかに、他からのさまざまな思想が混入されるようになります。中国の道教の易学や神仙思想などが、日本の神道に大きく継承されます。その道教の呪術的な思想は陰陽道や修験道の源流となっています。仏教が伝えられると仏教と融和し、それまでに混入した神道・儒教・道教・陰陽道等とも融合して、仏教と神道が混入した日本独自の神仏習合・権現信仰の修験道となります。「池大神」は原初の信仰形態と思われますが、ここに超自然的な力をもった役行者の像が安置されていることは、神仙思想と古密教的な仏教思想が入っている証拠となります。平安時代になり末法思想が盛んになると、弥勒信仰が人心を捉えます。そこに、山岳を弥勒菩薩が説法している兜率天の四十九院に見立てる信仰が起きます。弥勒思想にともなって山中に阿弥陀の浄土を想定する熊野本宮や、白山などの山岳信仰がみられるようになります。「求聞持法」で有名な清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩は、古代の吉野山で山岳修行者が守護仏とした本尊でした。また、大峰山系の主峰である弥山の龍神が、天川の鎮守である弁才天として、天河大弁財天社に祀られているように、竜神が龍王や弁才天などとして祀られるようになります。素朴な山の信仰は仏教的な解釈により、山岳信仰の霊山となったのです。「七面大明神」の称号は神仏習合による神道の神をあらわします。七面山の信仰もこのような影響をうけて段階的に展開します。後述しますが、七面山の山名からは大峰山の山岳信仰と、修験道の霊山であることがわかります。これらの経緯の上に日蓮宗の七面山信仰が確立されたことを知らなければならないと思います。

ここで問題としたいことは、七面山信仰の母体となったものは何か。その母体を源として日蓮宗の祈祷の秘法が、道教の呪術信仰と類似しているのはなぜかということです。ここには中国の道教の易学や神仙思想などが、日本の神道に大きく継承されたことを追求しなければなりません。なぜなら、現在においても日本神道は渡来信仰を継承し、私たちの生活のなかに呪術信仰が見られるからです。それが、日蓮宗の加持祈祷に散見できるのです。そこで、中国や朝鮮の古代の信仰を学び、そこから順次に日本神道・陰陽道・修験道にすすみ、そして、日蓮宗の七面天女信仰について把握していきたいと思います。視点としては日本における道教の影響を知ることにあります。そして、同じ山岳信仰である高野山・比叡山・大峰山の神祇信仰をみることにより、七面山の七面大明神信仰がはっきりしてくると思います。