〇道教の成立過程
【亀卜】
道教信仰の起こりは新石器時代に、黄河の上・中流域に栄えた仰韶文化(BC二二〇〇年頃の彩陶文化)や、つぎの新石器時代晩期の黄河中・下流域で興った竜山文化(BC一七〇〇年頃の黒陶文化)にあるといわれます。(窪徳忠著『道教入門』八二頁)。ついで、殷王朝(BC一六〇〇~一〇四六年)には、殷墟から発見された甲骨文字(亀甲獣骨文字)に朴辞の信仰が見られます。卜占には亀や牛、鹿の骨(肩胛骨)が用いられます。亀が多く使われていますので亀卜についてみてみます。亀卜の方法は腹甲に占い事を絵文字にして刻み、良く燃える箒(はばき)という木に火をつけ、腹甲に近づけると亀裂します。この亀裂の形によって天意を伺い吉凶を判断しました。甲羅に傷をつける姿が卜であり、それを口で伝えるから占うという字ができたといいます。「ト」の字源は「止」とする説が有力です。甲骨文字は「亀甲獣骨文字」といい、亀の甲羅(腹側)や牛骨などに刻まれた中国最古の文字です。殷(商)代の卜占に使用され、その文字から「敵対する民族を征服できるか」、「先祖に生贄をささげるべきか」、「世継が生まれるか」などを占っています。殷の占いで一番多いのが祭祀で、出土した甲骨文の九割をしめています。つぎに、豊年の吉凶、風雨の有無、軍事、命令、狩猟、旅たち、病気、妊娠、出産、夢などが占われています。『魏志倭人伝』に日本人が事を始めるときや、旅たち帰国のときに骨を焼いて卜したとあります。明治維新まで対馬にこの風習がありました。(『茶の湯と陰陽五行』淡交社編一八頁)。
亀卜が重視されたのは亀が長生きだから、未来についての予知能力をもつ霊獣と考えたのです。ですから、亀は四聖獣として尊重されます。亀の甲羅にも理由があり、『易経』に人の一生は誕生以前の闇の黒冬、青年期の青春、壮年期の朱夏、老年期の老い衰えていく白秋の四期を説いています。この四季に東西南北の四方が当てられ、それぞれを四神の四聖獣が守護するとします。このうち北の玄冬が伝説上の亀(玄武)です。亀の甲羅は母体のように世界を覆い守っていると考えたのです。また、亀の背中の甲羅が円形であるのは天と陽を表し、腹部分の甲羅が平板なのは地と陰を表し、天と地に挟まれた肉が気であるとされ、亀自体が陰陽和合の聖獣であり宇宙そのものとしました。中国において水は重要な意味をもっており、鼈は甲殻類の主長であり水を支配する神亀としました。南斗の首星である斗宿に鼈星があり、五行の始め(水火木金土)は水です。(『後漢書』桓帝紀)。これは、すべては水から生成とされるとし、その宇宙の根源である水を支配するのが鼈とみるのです。十干の甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の字形の基本は亀甲にあるといわれます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一七三頁)。『抱朴子』に三千歳の亀を火にあぶり砕いて服用すれば、人は千歳の寿命を得るとあります。亀卜によって国の祭祀、軍事、狩猟、天候、疫病などを占いました。この占いをする巫師たちを貞人(ていじん)といいました。中国の山東省の大汶口(だいもんこう)遺跡の二六号墓や四号墓に、人骨の腹部に石𨩱(せきさん。石斧・玉斧)と亀甲が置かれていました。亀甲は石𨩱に代用される用途になります。湖南省長沙市の馬王堆漢墓の帛画に、亀は天上界と地上界とを往復するものとして描かれています。東アジア世界での亀は共通して神仙を象徴する動物としています。死者を無事に黄泉の世界に送りとどけ、また、死者の命が再びこの現世に甦ることを願って腹部に置かれたといいます。腹は生命の宿るところです。そこに神仙の呪具を置くことで死者の再生を祈ったのです。(『日本の古代』2、森浩一稿、一八六頁)。このような占いに道教の起源を知ることができます。
日本では弥生時代後期とされる神奈川県の三浦半島に間口洞窟遺跡があります。ここから鹿・猪・イルカの卜骨が発見されました。三浦半島出土の卜骨は、企画展のパンフレットには漁の豊凶や航海の安全を占った可能性が高いと解説しています。これを契機に各地の遺跡で発見され、鳥取市青谷上寺地遺跡で二二七点の卜骨がまとまって発見されました。弥生時代の卜骨の六割は鹿の肩甲骨が用いられています。(『歴史考古学大辞典』)。日本の卜骨の出土状況は、時代的には弥生時代から古墳時代にかけてみられます。それ以降は壱岐島のカラカミ遺跡で鹿の肩胛骨が発見され、壱岐・対馬をはじめ、出雲地方や佐渡島、北海道南部まで広範囲にみられます。楯築遺跡は岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある、弥生時代後期の首長の墳丘墓で、楯築墳丘墓(片岡山古墳)ともいい双方中円墳になります。墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、神体として亀石(神石)が伝わっています。毛糸の束をねじったような弧帯文様が全体に刻まれた石です。これは「伝世弧帯文石」といい、この弧帯文は纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれています。弧文は中国で神の台座につけられ、壺文文様に通じ円を主体に天体を表すといいます。(石野博信編『大和・纏向遺跡』一四九頁)。現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られています。万葉集』の「藤原宮の役人の作る歌」に、「わが国は常世ならむ図負(ふみお)へる神(あや)しき亀も」とあります。常世は神仙境のことで、その神仙境を背中に負った不思議な亀のことを歌っています。このことから、飛鳥の亀石という石造物は西南を向いており、西を向くと世界が泥の海になるという伝承があります。この亀石も大地を象徴していると思われ、道教との関連がみられます。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』八六頁)。伊勢神宮の外宮の正宮と、多賀宮の間にある御池の中堤を結ぶ石の橋が、亀の形に似ているので亀石と呼ばれています。外宮周辺の高倉山に古墳があり、この亀石は古墳の入口にあったと伝えています。高倉山は江戸時代まで天岩戸として参拝されていました。(『伊勢神宮のすべて』部冊宝島四四頁)。また、青斑石鼈合子は蛇紋岩製の被蓋造の合子で、八稜形の皿を鼈の腹部にはめこむ仕組みになっています。眼には深紅色で透明の琥珀をはめ込み鼈の形態が写実的に造形されています。この鼈の背に裏返しの形で北斗七星があります。不老長寿を叶える聖獣に、さらに、北斗七星の天帝を背負うイメージが鼈に形成されています。用途は仙薬七星散の容器として用いたと思われます。
霊亀・神亀・宝亀などの改元は神与の亀の出現によっています。元明天皇の霊亀元年八月条に、長さ七寸の霊亀献納のことが書かれています。このような神亀思想を理論つけ、定着させたのは天武天皇といいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一七五頁)。『古語拾遺』に御歳神が神饌の牛肉を田人が食べたのを怒って、イナゴに田の苗を枯れさせます。このとき大地主神がその祟りを知るために、片巫(志止々鳥)・肱巫(鼈輪乃米占)の占いをしたとあります。大歳神は正月一五日の鳥小屋(とんど)焼の煙にのって帰るといいます。奈良・平安時代にも亀卜は行われています。宮廷では重要な儀礼としています。これを行う卜部の卜師は、対馬・壱岐や伊豆などから派遣されていました。昭和天皇の即位の大嘗祭にも行われています。(『日本の古代』7、伊藤道治稿、四一六頁)。
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