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【墨子・老荘思想・太平道・五斗米道】道教の成立過程を分類しますと、民間道教(原始道教)・教団道教・成立道教と年代的にみることができます。(上田正昭稿「古代信仰と道教」『道教と古代の天皇制』所収。七九頁)。まず、初期の民間信仰を基とした民間道教があります。この原始的な古代の信仰においては、アニミズムとして全てのものに精霊があるとします。この精霊を鬼神といいました。『周礼』によりますと、この鬼神は天神・地祇・人鬼の三種があるとします。また、死後の世界よりも現在の長寿と至福を求めます。この民間信仰が母体となり道教として集成されていきます。注目されるのは起源が古い墨子の思想です。 墨子(生没年不詳、紀元前四五〇~三九〇頃?)は中国戦国時代の思想家で河南魯山の人、あるいはその著書名ともいい墨家の始祖となっています。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説し、墨子十大主張を主に説いたことで知られています。はじめは儒学を学びましたが、儒学の仁の思想を差別愛であるとして、独自の墨家集団と呼ばれる学派を築きました。墨子の没後、墨家集団は三墨と呼ばれる三つの集団に分裂しますが、秦帝国が成立すると墨家集団の存在は見えなくなります。しかし、墨子の思想が中国古代の神道の基軸となっています。それは、道教という語彙を古代文献で最初に使っており(『墨子』非儒篇・耕柱篇)、上帝・人間・鬼神という三部世界構造を説いたことにあります。また、神道・神呪として呪術化した太平経の思想として展開し、三張道教、北魏の道教、陶弘景の茅山の道教など、中国古代の神道が神を肯定する思想の流れとして展開し、唐代の道教黄金時代へ影響をあたえています。(福永光司著『道教と古代の天皇制』四九頁)。神仙説は『封禅書』によりますと、紀元前四世紀の前半ころから始まったといい、各地の山岳信仰と密接な関係が見られます。 揚子江流域に栄えた戦国時代の楚(紀元前四〇〇年)の王の墓が発掘されたとき、その壁面に全景が描かれた古代神話の絵がありました。この絵を資料としたのが中国目録学の始祖といわれる前漢の劉向(りゅうきょう)の『楚辞』天問篇です。ここに、「圜則九重」(圜則(えんそく)は九重なると)・「八柱何當」(八柱は何くにか當る)・「九天之際」(九天の際(境界)は、どこまで続いているのだろうか)・「十二焉分」(十二焉くにか分かてる)・「日月安屬」(日月安くにか屬き)・「列星安陳」(列星安くにか陳(つら)なる)という語句があります。意味は「天は丸く九層の形でできており、地には八本の柱がこれを水平に支えている。天は木星の所在によって十二の分野に区分され、そこに日月が巡り列星も連なる。九層の城には四方に門がある。天はどこで重なっているのだろうか。十二の星次はどこで分かれているのだろうか。日月はどこに繋がれているのか、星星はいかなる配置になっているのか」という疑問文で書かれています。この語句には無より有を生じ陰陽の組み合わせが生まれます。そして、四象(東西南北・春夏秋冬)、八卦・九星・十二支が示されていることです。つまり、道教の主要な陰陽説・占星学的な見解が既出しているのです。つぎに、秦代(BC二二一~BC二〇六)ころからは、修行をすれば人間でも神仙になれるという思想が生まれます。これより以降は様々な神仙術が生み出されることになります。この思想を強くもっていたのは中国を統一した始皇帝です。中国の王は神の子として一番最初に皇帝と名のりました。皇帝とは三皇五帝の皇と帝の二つの漢字を引用したものです。帝は天帝や上帝のように天を統率する神のことで、始皇帝は地上の神としての君主を指す呼称として、皇の字を用いたといいます。始皇帝は万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる皇帝陵の建設などを、多くの人民の犠牲の上に行っています。また、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を実行したことでも知られています。焚書とは医薬・卜筮・農事などの実用書以外の書物を焼きすてさせることで、坑儒とは儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)という意味です。これは宰相の李斯の建言によるもので、儒家に対する言論統制政策として、四六〇余人の儒生を捕えて咸陽で坑殺しました。また、始皇帝は五行思想も取り入れ、秦山で「封禅の儀」を行っています。封禅の儀式とは天に感謝する儀式を封といい、地に感謝する儀式を禅といいます。司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によりますと、「正義此泰山上築土為壇以祭天、報天之功故曰封。此泰山下小山上除地、報地之功、故曰禪」とあります。つまり、封とは土を盛って壇を造り、ここに天を祀ることです。目的は天の功に報いるための儀式です。禅は泰山の下方にある小山の地をならして平らにし、そこに山川を祭り大地の功に報いることを禅といいます。大事なのは天子のみが泰山で行なえた、天地に感謝する祭祀なのです。始皇帝は秦山で封禅の儀を行った後、山東半島を巡ります。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と表現しています。僊人とは仙人のことで、始皇帝が不老不死の神仙思想に準拠した行為であるとみたのです。 これらのことからも、道教は漢時代以前の巫祝(ふしゅく)信仰や、陰陽五行説・讖諱説、道家・方士の神仙方術的信仰が基盤となっていたことがわかります。(下出積與著『道教と日本人』一五頁)。ここでいう巫(ふ、かんなぎ、みこ)は鬼神を祀り舞楽(踊り)をして神降ろし(降神)を行う女性をいいます。男子は覡(げき)といい両者をあわせて巫覡(ふげき)といい、降神により神意を世俗の人々に伝えるを役割をしました。殷・周のころは王が祭政双方を行い権力支配をしていました。時代が下ると政治と祭祀が分かれ、巫が祭祀を行うようになります。巫覡の役目は降神・解夢(夢判断)・予言(神託)・祈雨・医術(巫医、毉)・占星・呪い(除災招福)などです。祈雨は主として女巫が行い必ず舞を踊ります。巫という甲骨文字は巫女が両手で玉を供えて、神の意志を伺う姿といいます。前漢の『淮南万畢術』に巫の呪術が約百種あるといいます。(窪徳忠著『道教入門』八八頁)。漢代(前漢、紀元前二〇六~八年)には、黄帝と老子(姓は李、名は耳(じ)を始祖とする黄老信仰が加わります。さらに、百年後には老荘思想が加わります。老荘思想は老子の説く人為のない自然そのものの社会を理想境とするものと、荘子の真人(神人)を最高とする思想の二つを中心としています。荘子は「藐姑射山の神人」を説き仙人伝説の元祖といわれます。陶淵明、李白、杜甫、白居易、柳宗元などに影響をあたえ、超俗の境地を得るため隠者生活に入りました。また、仏教にも大きな影響を与え、とくに、禅宗は中国全土に広がります。初期民間道教に神仙思想を含む道教に発展し、AD一世紀の後漢に他力信仰から自力信仰に変わります。人里から山に入り神仙を目指すことから、遷人から仙人の字に変わります。この後漢には仏教の伝来があります。伝来に関して有名なのは、後漢の永平一〇(六七)年の明帝(二八~-七五年)と洛陽白馬寺に纏わる求法説話です。『後漢書』の「楚王英伝」にも仏教信仰に関する記録があります。明帝が永平寺七(六四)年に金人(像)を夢にみて西域に使いを出し、仏教を求めさせたというのが「感夢求法説話」です。このときに摩騰迦と竺法蘭を中国に迎えます。これにより、新来の仏教と儒家・道家との対立があります。このとき明帝は両者を立ち会わせます。このことについて日蓮聖人は『四条金吾殿御返事』に詳しくのべています。 「漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見博士蔡愔(いん)・王遵等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を、同永平十年丁卯の歳迎へ取て崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家・道家の人人数千人、此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙給。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳・五典・二聖三王の書を薪につみこめてやきしかば、古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らず。あまりのはづかしさに褚(ちょ)善信・費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ」(一三八二頁) つまり、道士が頼みとする仙経がことごとく燃えてしまったのです。ここにのべている奇瑞により道士たちは仏教に帰依したとのべています。仏教の呪術力が道教の呪術に勝ったのです。また、『報恩抄』に、 「道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ」(一二二一頁) と、道教の教えが数百年という長きにわたって支持されてきたが、道教の経典である仙経は、仏教の力に到底およばないことをのべています。明帝は白馬寺の南門前、右側の壇に道教の経典を積み上げ、左側に仏教の経典を積み両方に火をつけます。このとき、右側は燃えたが左側の仏教経典は燃えなかったので、天子は「左の義、長(まされ)り」勝劣を糺しました。この故事から平安時代に「とうとや左義長、法成就の池にこそ」と、火が燃えるあいだ囃し立てたといいます。トンド・ドンドンヤキ・さいと焼き。さんくろう焼き。ほちょじ。ほっけんぎょうともいいます。また、左義長は辟邪の習俗です。このとき青竹を立て注連飾りをして燃やします。青竹が燃えてドーン、ドーンと音がすることからドンドン焼き、つまってトンドというようになりました。中国では鞭炮(ピエンパオ)・紙炮(チーパオ)・炮子(パオジー)などと呼ばれています。『荊楚歳時記』に青竹を燃やして音を立てることにより、悪鬼(山鬼)を追い払うとあります。竹がない地方では紙爆薬を燃やします。中国で祝いのときに爆竹をならすのは、道教の呪術信仰なのです。また、左義長は三毬杖から転じたといいます。これは、正月にボール遊びに使った毬杖(ぎつちよう)を、三つ組み合わせて三脚として立てたところからいわれました。三脚をサギッチョウと呼ぶともいいます。この信仰が日本に入り小正月に行われる火祭りに及びます。宮中では正月一五・一八日に、清涼殿南庭で青竹を立て扇・短冊などを結びつけて焼きました。民間では竹を立てて門松・注連縄・書き初めなどを焼き、その火で餅を焼いて食べて無病息災を祈ります。安倍清明は三毬杖焼きは三毒を退治するために行うとします。三毒とは唐土から胡鬼がもってきた病気のことです。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』一〇三頁)。中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高です。桓帝代の建和二(一四八)年に洛陽に来朝し二〇年にわたって訳経を行い、『安般守意経』『陰持入経』などの部派仏教の経典や禅観に関する三〇部余りの経典を翻訳しています。道教の成立はこの安世高が来朝する寸前の、後漢の順帝(西暦一二六~一四四年)年間というのが定説です。「道」はタオ・タオイズムといい、陰陽に象徴される二元論的な真理に、神仙思想が入る教を根本的な信仰とするのが道教です。 老荘思想をうけて後漢二世紀頃に太平道と五斗米道が台頭します。道教的宗教教団と呼ばれます。これは後漢末(二五~二二〇年)から六朝(二二二~五八九年、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称)時代にかけて形成されました。太平道(Tài píng dào)は干吉(うきつ、?~二〇〇年)と、鉅鹿(きよろく)郡(河北省南部)の張角(?~一八四年)によって組織された最初の教団です。干吉は山東省に生まれ五行・医術に勝れていたといいます。あるとき神から『太平清領書』という神書(道書)を授けられ、この神書を読ませ符水を飲ませて治病する宗教儀礼を行います。張角は大賢良師と称され、黄老の道を信じ病人に対しては自己の過失を悔い改め(罪の懺悔)させ、神に供えた霊水(符水)を飲ませ九節の杖を使って呪文を唱えます。これにより神のゆるしを請い呪術による治病を行いました。『太平経』(巻四二)に、「治得天心意使此九氣合和、九人共心故能致上皇太平也。所謂九人即其無形委氣之神、人職在理元氣、大神人職在理天、真人職在理地、仙人職在理四時、大道人職在理五行、聖人職在理陰陽、賢人職在理文書、皆授語、凡民職在理草木五穀、奴婢職在理財貨」。また、卷七十一に「道有九度。一名為元氣無為、二為凝靖虛無、三為數度分別可見、四為神游出去而返還、五為大道神與四時五行相類、六為刺喜、七為社謀、八為洋神、九為家先。一事者各為九、九九八十一首、殊端異文密用之、則共為一大根、以神為使。其上三九廿七者、可以度世、其中央三九廿七可使真神吏、其下三九廿七其道多耶。九節杖頗類權杖、持杖即職可理九人九氣之事。可以節制宇宙萬物可以度人得道」、とあります。九は天の数にあたり竹の棒の霊性と九節を重視します。仏教が伝来するまでは、この道教が信仰の主流でした。張角は後漢末の一八四年に、黄色い頭巾を付けて後漢に反乱を起こしたので「黄巾の乱」といいます。張角は同年に病死し、この黄巾賊の残党の一部は、『三国志』の英雄曹操に下り太平道は消滅します。 道教の分類は難しく内容も豊富で、大きく鬼神崇拝、方仙信仰、黄老学説を基礎に成立してきました。(窪徳忠著『道教入門』七九頁)。殷時代の巫術、周時代の鬼神、春秋戦国時代の黄老学説、秦・漢時代の神仙思想、教えとして老荘の思想や、神仙思想が強く入っていました。老子と荘子を道教の中心思想としたのは、前漢の紀元前一三九年に成書された『淮南子』に初めて見えます。道教は中国古代からの民間信仰を基として、自然のままに生きる「無為自然」を説いた老子を祖とします。社会や政治よりも俗事にかかわらない隠遁生活を理想とします。そして、世界は陰陽の原理でなりたっており、太一・玄という宇宙の究極に含まれるとすることが、民間の呪術思想と共通性をもっています。これらが、二~三世紀の「五斗米道」(ごとべいどう)という呪術的な活動に関連します。五斗米道は西方の巴蜀(四川省一帯)から漢中の地域に発展します。開祖は帳陵といわれ沛国豊県(江蘇省)の人とされますが伝歴は不明です。四川の鶴鳴山に入り修行していると、老子などの神仙や神々から『新出正一盟威之道』を授けられます。帳陵はこの書により治病などを行います。祭酒は主に老子の五千文の教え(『老子道徳経』)を説き姦令と呼ばれます。『老子道徳経』は五千数百字の文で上下二篇に分かれます。上篇は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まります。鬼吏は病者に平癒の祈祷をします。その方法は病人の姓名と罪の償いに服する文章を三通書かせ、一通は天に捧げるために天に近い山上に置き、一通は大地に捧げるために地に埋め、残りの一通は清めのために水に沈めます。これを「三官手書」といいます。このとき、病者から家にある五斗の米を持参させました。つまり、五斗米道の由来は祈祷料として、米五斗(約九㍑)を布施持することにあります。帳陵の子供が張衡で、その子が張魯といい、この三人をあわせて三張道教といいます。張陵は六世紀ころから張道陵と呼ばれ、北宋の徽宗皇帝(一〇八二~一一三五年)から正一靖応真君と封号されています。のちに、この系統を天師道、天師教、正一教と称します。五斗米道を三張の法ともいいます。張魯のときに鬼道を称するようになり、信者になると鬼卒とか鬼民といわれました。『魏志』東夷伝にある邪馬台国について、もとは男子が王として継承していたが、内乱の後に女子の卑弥呼を王としたとあり、卑弥呼は鬼道に事へて衆を惑わしたとあります。陳寿が鬼道とのべたのは、当時の中国において風靡していた鬼道のことで、五斗米道の張魯の創始したものといいます。つまり、災難や病気などの原因は死霊としての鬼道の祟りとし、符や呪水により免難するものです。この道教系の鬼道信仰の影響が、卑弥呼に及んでいたといいます。東夷伝に見られる宗教儀式や、そのほかの用語についても道教の影響が見え、また、老子よりも鬼神信仰を強調した墨子に関連しているともいいます。墨子は葛洪の『神仙伝』に道術の体得者として挙げられています。(重松明久著『古代国家と道教』七〇頁)。太平道と五斗米道のどちらも、治病を呪術でおこなう現世利益の信仰ですが、不老長生の神仙説は表面に出ていません。この時期に教団が整のったとされることから成立道教・教会道教といい、民間信仰を主とした民衆道教と分かれます。 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