185.葛洪以後の道家と仏家                    高橋俊隆

葛洪以後の道家と仏家

神仙道を確立したのは後漢末三国時代初期の魏伯陽と、晋代(二六五~四一九年)の葛洪(かっこう。東晋二八三~三四三年頃)です。魏伯陽は気を重視し陰陽の二気を易によって説明します。呼吸方としての胎息が不老長生を可能にし、丹薬(仙薬)によって長寿を得るとしました。この説を進めたのが葛洪です。葛洪が著した『抱朴子』の内篇には当時の神仙思想の状況が記され、外篇には儒教思想を記しています。老荘中心の道家思想や、不老長寿を目指す神仙思想と結びついています。「抱朴」というのは老子の『道徳経』第一九章に「素(しろぎぬ)を見て朴(あらき)を抱く」とある文を採った言葉です。葛洪は役人であり「抱朴子」を別名としています。四世紀前半に葛洪により神仙としての典型的な老子像(老君・太上老君)が確立しました。墨子の鬼道とは対蹠的なものでした。葛洪の神仙道は胎息・房中(男女の交わり)と服薬(仙薬)の三つを重視します。服薬する仙薬の材料や製法により、神仙に上士・中士・下士の天仙と下士の地仙とに分かれると説きます。『抱朴子』に説く金丹を服して、不老不死の仙人を志向した人が多数いました。葛洪の神仙道の主体は仙薬にあります。

葛洪の影響を受けた人物に書聖と称された王羲之(三〇七~三六一年)がいます。王家は代々道教の信者だったといい、『抱朴子』が成ったのは三一七年ですので、葛洪から直接影響を受けたと思われます。また、老子が書いた『黄庭経』を書写していることからも、熱心な道教信者であったとされます。『黄庭経』は「外景経」と「内景経」があり、王羲之が書写したのは「外景経」といわれています。小宇宙である人間の体内に宿る神々との合一と、不老長寿の養生を書いています。唐の宮中に所蔵されていましたが、安禄山の乱(七五五~七六三年)で失われ臨模による宋代の拓本が今日に伝えられています。

三世紀の初頭から仏教は急速に浸透してきました。前述したように、中国への仏教伝来はインドにおける教理を確立していくという展開とは違い、すでに確立された教理を選択する立場から流入しました。(『日蓮聖人の歩みと教え』第一部第三章「三国仏教史」一六五頁)。三世紀から各種の密教経典が伝えられます。仏教の隆盛に刺激を受けた道家は、寺院の伽藍や経典・仏像などを摂取し、道家教団の教理を固めていきます。いわゆる、成立道教の時期に入ります。道教の生き残りを模索したのです。しかし、その仏教の翻訳は東晋の支遁(しとん。三一六~三七〇年)のように、サンスクリット語の経典を中国古来の知覚や、老荘思想の用語を用いて翻訳を試みました。たとえば、般若波羅密の真理を老荘の「道」の哲学によって説示しています。これを格義仏教といいます。これにたいし、釈道安(三一四~三八五年)は、格義仏教を脱皮して仏教本来の解釈に是正します。さらに、長安に来朝した鳩摩羅什(三四四~四一三年)による翻訳は、これまでより勝れた漢文体とします。訳経史上では鳩摩羅什以前の訳を古訳といいます。しかし、六朝期の支遁・道安・慧遠・僧肇をはじめ、随唐期には天台大師・法蔵・妙楽大師・澄観などが、『華厳経』の「理事無礙」、『法華経』を最勝とした「教相判釈」などの教理を説きますが、基本的には儒教の教理解釈の方法を採用していました。(福永光司著『道教思想史研究』三六五頁)。儒家は釈尊をインドの聖人として尊敬していました。ここに、儒家の仏教受容の特徴があります。日蓮聖人は『開目抄』に、

「孔子が此土に賢聖なし、西方に仏図という者あり、此聖人なりといゐて、外典を仏法の初門となせしこれなり。礼楽等を教て、内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため、王臣を教て尊卑をさだめ、父母を教て孝高きことをしらしめ、師匠を教て帰依をしらしむ。妙楽大師云 仏教流化実頼於茲。礼楽前駈真道後啓等。天台云 金光明経云 一切世間所有善皆因此経。若深識世法即是仏法等。止観云 我遺三聖化彼真丹等。弘決云 清浄法行経云 月光菩薩彼称顔回 光浄菩薩彼称仲尼 迦葉菩薩彼称老子。天竺指此震旦為彼等」(五三六頁)

と、のべているように、仏家は儒教などの倫理を引用して、仏教をわかりやすく説明し、次第に仏教の深い教理に導いていく化儀化導をしていたのです。

三世紀の後漢に太平道や五斗米道の信仰が起き道教が成立しました。その後の三国時代(二二〇~二八〇年)、六朝時代(三一七~五八九年)の末に、皇帝の庇護を受けて巨大な道教集団が成立します。その結果、元始天尊・太上老君・天皇大帝・太一神(たいいつしん)・玉皇大帝などの、時代や地域による違いはありますが、これらの神々が作られました。仏教の大蔵経にあたる『道蔵』という経典も編纂されました。つまり、三~五世紀には神仙説が整い、道経(道蔵)という教典も編集されたのです。そして、道士・女寇と道像(天尊像)ができ、道観(寺院)ができたのです。とくに、五世紀初頭の北魏の寇謙之(こうけんし。三六五~四四八年)により、道教が大成し完成されたといいます。太上老君から天師の位を授けられたという伝説から新天師道と呼びます。『魏書』の釈老志の老の部に概略が記載されています。寇謙之は若い頃から仙道を好み張魯の術を修め、天師道の神仙になるための修行(服餌法)を行います。そして、五斗米道から脱皮し仏教の戒律を手本として「雲中音誦新科之誡」を定め、科儀という儀式と斉醮(さいしょう)という檀を設えて祈祷を行いました。南朝の陸修静(四〇六~四七七年)は最古の道書『三洞経書目録』を編集し、道教の儀軌と三洞説(洞真・洞玄・洞神)を確立します。陸修静の道教を上清派(茅山上清派)といい、これを継承したのは梁の陶弘景(四五六~五三六年)の茅山道教です。『真誥』(しんこう)という道教上清派の経典は、茅山において霊媒師である楊羲に降りた真人が、その口授した教えを許謐・許翽父子に筆写させました。それを後に陶弘景が編纂したものです。また、禁呪や符籙の発展があります。そこに仏像を模倣した道像を礼拝する天尊信仰が普及しました。ここから、道士とは道教の教義にしたがった活動を職業とする者とされます。男性の道士は乾道(けんどう)、女性の道士は坤道(こんどう)と呼ばれ、道士は頭髪をのばし特殊な髷を結います。道士の服装は道袍と称し、中国古代の漢服の一種で、頭には古代の冠巾をかぶり、足には雲履(下履き)を履きます。道士は主に道観道院などに住み宗教活動を行います。宗派によっては形態が異なります。全真教の道士は出家し、頭髪をのばしを結う者もいます。精進料理を食べ修養を重んじますが、正一教の道士は出家しない在家の道士で、髪を剃り護符を書いたり、道教儀礼を行うことを主な活動としています。一九九七現在で中国には二万五千人余りの道士がいたといいます。その教えの内容は神仙思想と不老長生が中心です。それに神学を整えて道教的倫理を備えます。注目したいのは、呪法(道術)・仙薬などが重視されていることです。また、道教においてはや霊と交流できるを、通霊(トンリン)と童(タンキー)に呼び分けています。これは道教の行者といわれる者で、通霊はの声を聞き交流を行います。童は自分の体にが乗り移るため、道教寺院や廟で降ろしの儀式を行います。そのトランス状態に入ったとき、は童の体を借りて人々の悩みや問題に答え、そして、符を書きを処方します。そして、唐代には道教の巨匠と呼ばれた司馬承禎(六四七~七三五年)がいます。司馬承禎は中岳嵩山の潘師正に師事し、上清派道教の秘法伝授されました。そのなかに「陶隠正一の法」があります。獅子の焼き物の印鑑に道教の奥義を隠法することをいいます。老子荘子に精通し、仏教の禅を取り入れた「道禅合一」を特徴とします。それまでの道教は煉丹・服薬・呪術を中心としていましたが、迷信的なもの神秘的なものから脱却し、自己開発の修養を中心としたものへと転換していきました。天台山に居を構え則天武后朝から玄宗朝にかけて宮廷に招かれます。唐時代の王の姓が老子と同じ「李」だったので、老子を祖先とし道教を重んじたといいます。晩年は玄宗の求めで長安に招聘されます。最終的には洛陽に近い王屋山の麓に陽台宮を建て、ここで『老子道徳経』を作っています。ほかに、『坐忘論』・『天隠子』・『服気精義論』・『道体論』などを著しました。

道教の黄金時代は一一世紀初め頃までで、道教経典からみた最初のピークは、二世紀(後漢末)ころの『太平経』あたりといいます。つぎに『抱朴子』(三一七年ころ)、『真誥』二〇巻(三六四年ころ)、五七〇年代の北周武帝(在位五六〇~五七八年)の撰とされる『無上秘要』、北宋の真宗帝の天禧三(一〇一九)年の成立という『雲笈七籤』(一二〇巻)があります。日本では『源氏物語』が書かれたころです。そして、明の英宗、正統一〇(一四四五)年の『正統道蔵』五四八五巻になります。これらが道教の基本資料となります。このうちの『無上秘要』百巻(三二巻は失)は、『古事記』が書かれる一五〇年ほど前なので、これを参考とした可能性があるといいます。この三書をもって道教の神学教理や思想哲学を学ぶことができます。また、葛玄―葛洪(『抱朴子』)―陸修静(三張道教)―陶弘景(茅山派開祖『真誥』)―陸修静(三洞説。上清派)―『無上秘要』(北周の武帝編纂)―『雲笈七籤』(張君房撰)、という流れがあります。古代日本と江南の道教との関係を調べるときは、『抱朴子』『真誥』『無上秘要』が基本となります。陶弘景は仏教を取り入れた教を説きます。「真誥」とは神のお告げの言葉を意味します。楊義という巫術者と許謐の二人が、茅山の山中に住んでいたので、彼らの道教を茅山派道教といいました。葛玄――葛洪は洞玄霊宝派といいます。陶弘景は老・易・荘の三玄の古典哲学や、さらに仏教の哲学を取り入れて江南の茅山道教の神学教理を大成します。「仰いで尋ぬるに、道経の「上清上品」は事、高真の業に極まり、仏経の「妙法蓮華」は理、一乗の致(むね)に会(かな)い、仙書「荘子」内篇は義、元(玄)任の境を窮む。この三道は以て万象を包括し、幽明を体具するに足る」(『真誥』叙録)とのべます。仏教の「妙法蓮華」と「荘子」内篇を最高に評価しています。つまり、陶弘景の茅山道教は法華経の教理を導入したのです。(福永光司著『道教と古代日本』七六頁)。また、『雲笈七纖』には中国仏教が大量に持ち込まれています。したがって、片方を排除して考えるよりも、仏教と道教を相互に理解していくことが必要になります。(福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡を歩く』二五三頁)。ここに、仏教と道教の習合が見られます。

成立して間もない頃の道教は、古来から祭祀されてきた神々や、有力な神霊を吸収してきました。仏教で説く観世音菩薩や、信義や義侠心に厚い武将の関帝(関羽、関帝聖君)なども道教に引き入れます。関羽は塩湖で知られた解県の出身で、塩の密売に関わっていたという民間伝承から、商売の神として祭られ神格化されました。これは道教の神霊体系を成立させる一つの方法として用い、道教の神々を信じさせることにありました。中国が古代より信じてきた神霊信仰は雑多ですが、主軸となっていたのは天神崇拝です。ですから、道教が多くの神々を取り入れていくには、古い天神崇拝を「道」の信仰に融合しなければならなかったのです。このため道教の教理は「道」の信仰と天神崇拝を統一するための理論といわれました。善を行い徳を積むことや、戒律を守り経典を読むことも大切な修養とされました。これにより道教の神は、善を行う者には寿命を延ばし、逆に悪をなすと寿命を縮めるとされました。そして、戒律を守り善を行うことを怠らない者は、天神に迎えられ仙に昇るとされました。ここから、戒律は宮観道教の基礎となり、勧善の書物が社会に流行します。忠臣・孝行・賢人・善人も仙人として名を列ね、「道」を体得して不老長生の神仙を目指しました。

梁の武帝の末年頃(六世紀中頃)に編纂された、道教経典の『洞玄霊宝三洞奉道科戒営始』に、民衆に神々への信仰心をもたせるために神像を造ることが書かれています。造像には六種あるとし最初に无上法王元始天尊(元始天尊)・太上虚皇晨大道(太上道君)・高上老太一天尊(太上老君)の三尊の像を造ります。天尊・道君・老君と同一の神格です。その後に大羅以下、太清以上の三清天にいる無数の聖真仙(真人)や、諸天の天官や北斗の星官たちなどの、真仙の像を造ると書かれています。天尊の五百億相、道君に七十二相、老君に三十二相、真人に二十四相あるとしていることから、南朝の梁代末期には仏教の造像の影響を受けたといえます。(小林正美編『道教の斎法儀礼の思想史的研究』二二五頁)。そして、この三尊が道教の主神として選ばれたのは、『洞玄明真科経』の金籙斉法に基づくといいます。金籙斉法は発炉、上啓、三上香、謝十方、復炉の儀式で構成されています。目的は国家国土の安寧と祖先や人々の救済を叶えることにあります。のちに、三尊は三清と呼ばれ三清が三洞経の教主と考えられるようになります。南朝の陸修静の三洞説は道教の経典の種類を、洞真部、洞玄部、洞神部に分類する考え方で、それぞれ『上清経』『霊宝経』『三皇経(文)』という経典が入ります。南北朝時代の五世紀前半に、江南地方において起こりました。すなわち、∧洞真部『上清経、魏華存(仙女となり紫虚元君・南岳夫人)。許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ教示を書き残します。これが時代を得て上清経になったといいます。陶弘景(茅山道教。四五六~五三六年)はこの上清経を重視しました。陶弘景は三〇歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学んでいます。∧洞玄部『霊宝経、『霊宝経』の起源は禹の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙をなすという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にあります。江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え経典としたといいます。葛氏道は左慈からはじまる道教一派で、おもに葛家の人間に伝承されています。大乗仏教の影響を受け、輪廻転生元始天尊が衆生を救済すると説き儀礼の定めが説かれています。∧洞神部『三皇経(文)』、三皇経という名は天皇地皇人皇にあります。出自には二つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を、帛和という人物が修得したという説と、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したという説です。ここに悪鬼魍魎の退散法や、鬼神の使役法などについて書かれていたといいます。道教は主としてこの三洞説が唱えられ、この道教経典が体系化されたことにより道蔵の成立とする説があります。

このように、道教信仰は巫術や呪術による治病や徐災を行い、不老不死の神仙になろうとしました。そのために道徳意識を高める儒教や、内的修養を主体とする仏教信仰を取り入れました。しかし、民衆においては道教と仏教を区別せず、直接的な救済の能力をもつ神仏を信仰しました。(窪徳忠著『道教入門』一五頁)。とくに、道教は仏教の整頓された教理体系を取り入れ、仏教側においてもサンスクリット語の原典を漢訳するときに、わかりやすい道教の言語を引用しました。中国の伝統文化や習俗にあわせて解釈をしたといいます。このため、仏教と混同され分別しずらくなったところがあります。道教の真理思想には多様性が認められます。それは、前にのべた墨家の思想や儒学の哲学、老荘の形而上学、そのうえに仏教の教理が融合して形成されたからです。陶弘景の『真誥』をみますと、儒家の礼学や易学、黄老思想と道術、詩賦の文学作品から芸術、そして、星宿天文術、医学薬学といわれる広範な分野と領域を包摂しています。(福永光司著『道教思想史研究』三一五頁)。このようなところから、中国の思想は儒・仏・道の三教が各々補完し合い共存したといいます。まさに、隋・唐時代の仏教が取捨選択され塗り重ねられたのです。それは、三世紀から六世紀にかけての密教であり、唐の玄宗皇帝の八世紀前半には善無畏などの密教僧がインドより来て、新たな密教が伝えられます。それまでの中国の密教は道教的に解釈される傾向がありましたが、インドの天文道を交えた密教に刺激されて、中国の密教は陰陽道的色彩の強い宿曜道を発展させます。これ以前の呪術中心の密教を雑密、以後のものを純密と呼びます。(村山修一著『日本陰陽道史話』二二一頁)。仏教の影響が強かったことがわかります。

人間のもつ最大な要求・欲望は不老長生ではないでしょうか。そのためか、日本へ伝わったのは成立道教ではなく、呪術性が強い民衆道教であったと指摘されています。それをもたらしたのは道士や女冠という専門家ではなく、四世紀後半に大陸から来た渡来人や、七世紀の留学生や学問僧からでした。ですから、ある意味では教養として間接的に伝わったと見ることができましょう。(下出積與著『道教と日本人』三三頁)。ただし、古代の日本人はなぜか中国と同じ信仰をもっていたと指摘されます。『抱朴子』『真誥』『無上秘要』に、古代日本と江南との関係を知ることができるといいます。これについては後述します。