187.神仙思想(方術・道術)                  高橋俊隆

方術・道術

『荘子』の天下篇では道術に対して方術の語が用いられています。おもに方術とは禁呪(呪禁、じゅごん、呪文)、符籙(ふろく、神符、お札)、齋醮(さいしょう、祈祷)をいいます。また、これに付随して科儀という道士の思想や行為を制約する、さまざまな清規・戒律・威儀・斎法があります。中国古代の巫覡や方術士は、身を潔斎して呪術を行ったことがわかります。漢代における方術の具体的な内容は、『漢書』芸文志が数術略に挙げた天文・暦譜・五行・蓍亀(きき)(占筮)・雑占・形法(風水ならびに相術)の六家と、方技略に挙げた医経・経方(治療)・房中(男女交合の術)・神僊()の四家をはじめとして、諸子略のなかの陰陽家・小説家等にみられます。これらにより鬼神を自由に駆使する力を得て、災難を逃れ不老長生を得ようとします。元始天尊(皇上上帝)以下の神々を祀り、齋醮と科儀を整えているのが成立道教の特徴でした。道教の神々から加護を得るための設檀儀式ですが、民衆道教においては必ずしも必要としないものでした。民衆が求めたのは長生や招福という現実的な利益で、重視されたのは治病でした。また、方術は呪いや鬼神の駆使により、相手を呪縛する目的で使用されることもありました。マジックとは魔法・奇術、手品のことですが、ブラックマジック(黒呪術)とホワイトマジック(白呪術)の両方があるように、悪用と善用の両方の意味があります。呪をまじないと読めば善用となり、のろいと読めば悪用を意味します。(『日本の古代』9、金子裕之稿、三六八頁)。また、『抱朴子』に道士の術には、穀断、刃物を跳ね返す法、鬼や変化を折伏する法、毒を防ぐ法、治病法があり、山において猛獣に襲われぬ法、渡河の際に蛟竜に害されぬ法、疫病の流行している土地を歩いても感染しない法、姿を眩ます法(内篇六。微旨)、兵難を避ける法、歯を丈夫にする法、耳や目をはっきりさせる法、登山しても疲れない法(内篇十五。雑応)などが説かれています。

方術が夜行われれた例として、神功皇后が夫の仲哀天皇のために、熊襲を討つ是非を神降ろしをして神託しとたことが『古事記』に書かれています。仲哀天皇は建内宿禰を霊媒となる沙庭(審神者)とし、みずから琴を弾き、神功皇后に神が乗り移ります。その後、仲哀天皇は死去し、再度、神託を行います。『日本書紀』には神功皇后が自ら神主となり、中臣烏賊津使主を審神者とし、武内宿禰に琴を弾かせます。日蓮聖人は武内宿禰について「武内大臣神功皇后棟梁、仁徳王子臣下也」(『観心本尊抄』七一二頁)とのべた賢人的な存在とみています。その琴の頭部と尻(ことじり)にうず高く幣帛を積んで、皇后が神のお告げを聞いたとあります。琴を弾くことにより神が憑り移るとされていたのです。埴輪にある弾琴の像は招魂の姿を表しているといいます。琴をかき鳴らし舞踊を行うことは、神霊や死者の霊魂をゆり動かす呪力があると信じられていたのです。(『日本の古代』7、岸俊男稿、一二頁)。これが新羅征伐の起因となります。この呪術は夜に行うものです。朝廷や朝堂の朝という字は、臣下が朝早く天子に見えるという意味で、これを朝参といいます。これは日の神を崇拝する風習にあります。また、『古事記』清寧段によりますと、日の出とともに政を始め昼には終わる習慣がみえます。占いの方法は主に亀占・筮占・式占・算占があります。

亀占――亀の甲を焼き、その亀裂をみて占います

筮占――メドハギの茎を用いて占います。後に竹が用いられました

式占――円と方の二つの盤(式盤)を重ねて廻し十干十二支・五行を組み合わせて占います

算占――方柱形の三寸ほどの算木を用いて占います

亀占は「亀卜」のところでのべました。筮占(占筮)は五〇本の筮竹を使って占います。これを耆亀(じき)といい、のちに帰蔵といいました。ほかに、前漢末の図書目録に、数述(数字の占い)・占夢・星算(星占い)・推歩(天体の動き)・相衣器(衣服や道具による占い)・相宝(白玉の占い)・剣刀、相人(人相うらない)・相宅(家相)、相地(地相)・相六畜(家畜占い)・風角(風や音による占い)・鳥鳴(鳥の鳴き声による占い)・粥占(粥を煮るとき竹の筒を入れ、これに入った米粒の数による占い)・釜占(釜の煮え音による占い)などがありますこれらの養生・錬丹・方術という神仙術は、修験道のところにおいて再述します。(二〇六頁)。

神仙

つぎに、神仙についてみますと、神人・仙人にも多種あります。遷人から仙人に変容したように、神仙は神遷とも書きます。要約しますと不老長寿の術を得た変化自在の超能力的人間のことで、住むところは永遠不滅の桃源郷的な神仙郷(境)です。『史記』などによりますと、神仙思想は紀元前二〇〇~三〇〇年頃の戦国時代に発達したもので、その中心は泰山の信仰にあったといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』六八頁)。また、仙人は初め僊人と書き、地上から天上へ遷っていく人という意味です。また、仙の字はもともと「∧山」と書かれていたことからも、山岳思想と結びついていることがうかがえます。神仙思想が山と結びつけられる理由は、「気」に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、人間に有益な鉱物や薬草などの資源が豊富であったためです。ときには断崖絶壁や幽玄な場所から薬草を採取します。このような風雪に耐えて育った薬草には霊力があるといいます。このような霊地から漢方を探求し金丹を作りました。漢方薬・漢方医学は道教と結びつき発展してきたのです。(福永光司著『道教と古代日本』一一九頁)。

仙人にも上中下の優劣があります。屍解仙(しかい。尸解とも)というのは、『抱朴子』によりますと、魂だけが仙人となって死体はそのまま地上に残ることをいいます。つまり、仙人になれない下位の道士が死後、魂だけが天界の仙人になったのを屍解仙といいます。中位の道士が山中で仙人になっているのを地仙といい、上位の道士が生きたまま天界の仙人になった者を天仙といいます。未完の練丹を飲用して死んだときは、魂は仙人になったと遁辞します。古い時代には屍解仙の肉体が、蝉の抜け殻のようなものとされました。しかし、時代が下ると、死体が生気を取り戻し仙人として蘇るとされました。中国には死人の口の中に蝉形の玉を入れる風習があります。蝉は地中に潜り数年経ってから再び地上に戻り脱皮を行います。こういう生態から復活を象徴しています。これは葬玉といい、目・耳・鼻・口・後陰・前陰の九竅(きゅうきょう。穴)に葬玉を入れました。呪術的信仰から玉が肉体の腐敗を防ぐとされ、また、九竅に邪悪のものが出入りしないためでした。玉蝉は蝉の孵化のように、死体もまた屍解仙になることを願ってのことです。ですから、屍解仙として蘇る途中に墓を暴いて棺を開けてしまうと、二度と屍解仙になることはできず、ただの死体に戻ってしまうとされました。昔の中国の法律では、墓あばきは即日死刑だったという所以がうかがえます。しかし、天仙、地仙というのは葛洪がのべた概念で、尸解仙が仙人の原型であるといいます。(大杉徹著『不老不死―仙人の誕生と神仙術』)。葛洪は仙人・仙道が実在する記録(巻二論仙)を示し、凡人でも神仙術を学ぶならば仙人になれることを力説しています。仏教は一切衆生の成仏と過去現在未来の輪廻を説きます。『法華経』には「後生善処」が説かれています。『抱朴子』は死後に対しての問題意識があり、その一つが屍解仙であり、登仙可能の仙道を示したものです。

また、仏典の『楞厳経』に仙人(仙道)と似たことが説かれています。仏説に説かれたインドの十行仙とは、一、地行仙。二、飛行仙。三、遊行仙。四、空行仙。五、天行仙。六、通行仙。七、道行仙。八、照行仙。九、精行仙。十、絶行仙をいい、その性能に応じて十の階級に分けています。

一、地行仙。謂其服食薬餌。能駐車一期(生死)之寿。不能軽挙。故名地行仙

     (仙薬を服食して長生きし軽挙な行動はしない)

二、飛仙。謂其飡食黄精松柏。久而身軽。故名飛行仙

      (黄精や松柏を服していれば身が軽くなり飛行することができる)

三、遊行仙。謂其久服還丹(神仙、九還の丹)。化形易骨。游戯人間。故名遊行仙

   (九丹を服すれば身骨を若くたもち自在にどこにでも行けるようになる)

四、空行仙。謂其乗陰陽動静。調気固精。謄身履空。故名空行仙

       (天地陰陽の動きに応じて呼吸と精気を整えれば、身は虚空を履み飛ぶことができる)

五、天行仙。謂其能鼓天池(口)。咽津液。不交世欲。故名天行仙

       (世事のことには口を挟まず世欲に交わらないこと)

六、通行仙。謂其吞吸日月精華。作意存変。以延身命。歳久功成。遂有異見。通世物情。故名通行仙

       (日月の真髄を究め長命すれば惑わずに世の物情に通じる)

七、道行仙。謂其能以咒術持身。術力成就。故名道行仙

       (呪術を身を持ち術力を鍛えること)

八、照行仙。謂其能系念一境。澄凝精思。積久功成。照用顕発。故名照行仙

       (一境に精神を集中すれば全てのものが顕発して見えてくる)

九、精行仙。謂其内以坎男离(離)女為匹配(四配)。外即采陰助陽。摂衛精気。故名精行仙

       (内外に陰陽を匹配して精気を保つこと)

十、絶行仙。謂其存想世間有為功用。運想化理。超絶世間。故名行仙

     (世間の功用になることを心がけ世間から超絶した境地を保つこと)

これは、修行により十種の通力を得るための段階を説いたものです。摂生・仙薬・房中術・養性・呪術・行法など、中国の仙道と類似しています。仏教が道教に与えた影響として、仏典をそのまま道教の経典に引用したものが見られます。これは、『楞厳経』の訳者が道教的な解釈をした一例ともいえましょう。(知切光蔵著『仙人の世界』一六七頁)。羽をもつ仙人は空を飛ぶことを表し、飛仙といわれています。仏教には浄土の天空を飛翔する天人(飛天)が説かれています。この飛天のイメージが飛仙と重なり、どちらとも区別できない存在が生じてきます。神仙思想における仙人は播を盛って鳳凰に乗る飛仙や、仙禽という動物に乗って空中を自在に飛ぶ仙人図が描かれています。元・明の時代になると隠者・賢者の姿で仙人が描かれるようになります。『列仙伝』に王子喬、『神仙伝』に蘇仙公という仙人について書かれています。仙禽とみられ長生のシンボルとなっていました。

葛洪の『神仙伝』の序では『列仙伝』を取り上げます。『列仙伝』中国道教にまつわる説話集で、後漢桓帝以降に成立したものと見られています。ここに七〇人の仙人たちの伝記が載せられています。巻上――赤松子、甯封子、馬師皇、赤将子興、黄帝、偓佺、容成公、方回、老子、関令尹、涓子、呂尚、嘨父、師門、務光、仇生、彭祖、卭疏、介子推、馬丹、平常生、陸通、葛由、江妃二女、范蠡、琴高、寇先、王子向、幼伯子、安期先生、桂父、瑕丘仲、酒客、任光、蕭史、祝鶏翁、朱仲、修羊公、稷丘君、崔文子、(補)羨門、(補)老萊子。巻下――赤須子、東方朔、鉤翼夫人、犢子、騎竜鳴、主柱、園客、鹿皮公、昌容、谿父、山図、谷春、陰生、毛女、子英、服閭、文賓、商丘子胥、子主、陶安公、赤斧、呼子先、負局先生、朱璜、黄阬丘、女几、陵陽子明、邘子、木羽、玄俗、(補)劉安、列仙伝叙。以上です。また、『神仙伝』には九〇人以上の神仙譚があります。以下の仙人が現行本に登場します。巻一――広成子老子、彭祖、魏伯陽。巻二――白石先生、黄初平王遠、伯山甫、馬鳴生、李八百、李阿。巻三――河上公、劉根、李仲甫、李意期、王興、趙瞿、王遙、李常在巻四――劉安、陰長生、張道陵。巻五――泰山老父、巫炎、劉憑、欒巴、左慈壺公 、薊子訓。巻六――李少君、孔元方、王烈、焦先、孫登、呂文敬、沈建、董奉。巻七――太玄女、西河少女、程偉の妻、麻姑、樊夫人、厳清、帛和、東陵聖母、葛玄。巻八――鳳綱、衛叔卿、墨子、孫博、天門子、玉子、沈羲、陳安世、劉政。巻九――茅君、孔安国、尹軌、介象、蘇仙公、成仙公、郭璞(後代に追加)、尹思。巻十――沈文泰、渉正、皇化、北極子、李修、柳融、葛越、陳永伯、董仲君、王仲都、離明、劉京、清平吉、黄山君、霊寿光、李根、黄敬、甘始、平仲節、宮嵩、王真、陳長、班孟、董子陽、東郭延、戴孟、魯女生、陳子皇、封衡。以上です。

ここから、仙人は実在していることと、登仙のための神仙思想が重視されていたということがうかがえます。特徴として漢時代には背中に羽をつけた、羽人という仙人の画像石(武氏祠画像)がみられます。また、両耳が高く突き出て正方形の眼をもつ「仙人六博図四川石棺画像」があります。(『日本・中国の文様辞典』二九二頁)。唐八仙とは八人の仙人のことをいいます。これは老子の弟子というべき仙人で、唐いぜんの仙人も入っています。李鉄拐(りてっかい)・漢鍾離(かんしょうり)または鍾離権(しょうりけん)・呂洞賓(りょどうひん)藍采和(らんさいわ)・韓湘子(かんしょうし)・何仙姑(かせんこ)・張果老(ちょうかろう)・曹国舅(そうこっきゅう)は、小説の『八仙東遊記』が成立してから八人で固定されます。このうち必ず戯曲作品にも登場するのは、李鉄拐、漢鍾離、呂洞賓、藍采和、韓湘子で、その他は何仙姑、張果老、曹国舅以外に、張四郎(『呂洞賓鉄拐李岳』)、徐神翁(『呂洞賓三酔岳陽楼』)、風僧寿や玄壺子(『西洋記』)などを含む場合があります。八仙はそれぞれが神通力を発揮する法器を所持しています。それらは人物そのものを描いた明八仙にたいし暗八仙といいます。李鉄拐は葫蘆(瓢箪)。漢鍾離は芭蕉扇。呂洞賓は宝剣。藍采和は花籃。韓湘子は横笛。何仙姑は蓮の華。張果老は魚鼓(楽器の一種)。曹国舅は玉板(製の陰陽板)を持っています。西王母の誕生祝賀に天から降りてくるのを、八仙人が迎える図を八仙迎寿といい、西王母の誕生日に八仙が海を渡る図を八仙過海といい、おもに吉祥の図として用いられています。呂洞賓以下の八仙人は、金・元時代の全真教という新道教に利用されていきます。元には八という数にたいする信仰から、八宝・八仙・八音の文様が好まれます。このうち八宝は仏教の影響をうけたもので、法輪・法螺貝・宝傘・白蓋・蓮華・宝瓶・金魚・盤長の、八種類の法具や荘厳具をもって吉祥天をあらわします。ほかに雑宝として珊瑚・丁字・方勝・繍球(七宝)・角杯・火焔宝珠・厭勝銭・銀錠などの吉祥をあらわす文様を使用します。日本においては宝尽くしとなります。

仏説の十行仙の修行法や、仙人と呼ばれた個仙は通力を得るために、道術といわれる修行を重ねたことが確認できます。丹薬は水銀や砒素を含んだ有毒なものです。これを服用して不老長生を得ようとしましたが、現実には人体に有害な物質だったのです。これを服用したことで落命した者がいたのです。このことが判明すると丹薬服用による外丹術の使用は低下し、唐代(六一八~九〇七年)には、精神修養によって気を体内にとり入れ、体内に丹薬を作り出すという内丹術に変わっていきます。宋代になると鉱物を用いて金丹を錬成する外丹から、古くからの存思法を継承しつつ禅宗の影響を受けて、体内に金丹を錬成する内丹へと修行法が変わります。また、道教の戒律である「老君説百八十戒」や、後の全真教の陸道和が編纂した『全真清規』に、道士の日常生活や修行上の注意が細かに規定されており、禅宗の『禅苑清規』の影響を受けているといいます。(坂出祥伸著『日本と道教文化』二〇頁)。これは、唐の百丈懐海が初めて制定したとされている禅宗の清規で、受戒・上堂・典座・知客・化主・謝茶・大小便利・亀鏡文などがあります。これら養生・錬丹・方術という神仙術は、とくに、密教的な修法に取り入れられていきます。