188.渡来人と倭人文化の年表                 高橋俊隆

◆第節 渡来人の道教思想信仰

 本書では主に弥生時代から飛鳥時代まで、神武天皇から天武・持統・文武天皇ころまでにおける、道教の影響をみていきたいと思います。

年表――渡来人と倭人文化

前三〇〇〇年 弥生時代の環状集落が形成された(青森三内丸山遺跡)

前一〇〇〇年 中国江南や朝鮮南部から渡来人が稲の文化を移入した

前四〇〇年  北部九州で稲作が本格化した

前二一九年  始皇帝に命じられ徐福が仙薬を求めて倭国に来た

前五〇〜一年 このころ一〇〇余りの国に分かれた(『漢書』地理志)

五七 年  倭の奴国が後漢の光武帝に朝貢の使節を送り、光武帝から「漢倭奴国王印」を授かる

一〇七年  倭国王の帥升が後漢の安帝に生口一六〇人を献じた(『後漢書』東夷伝)

一四〇年  このころまでに北部九州で鉄器が普及した

一九六年  朝鮮に帯方郡が設置された

二三九年  卑弥呼が魏の明帝へ男生口四人女生口六人を朝貢。明帝より親魏倭王として印綬を授かる

二四三年  魏の少帝へ生口を献じた

二四八年  臺与即位して倭の王となる

二六六年  倭王臺与安帝朝貢(晋書』)∧二六六〜四一三年まで中国に日本の記録がない∨

二七一年  崇神天皇没

三二〇年  仲哀天皇没。熊襲を伐、新羅を伐つ。応神天皇生る

三二一年  大和帰還。忍熊・籠坂を伐つ

三二五年  新羅の使毛麻利を殺す

三六四年  百済人クテイら卓淳国をたずね倭国との通交を求める(~功紀)

三六六年  斯摩宿禰卓淳に至る

三六六年  倭国の斯摩宿禰、卓淳国へ行き、使者を百済におくる

三六七年  千熊長彦を遣わして新羅を責める

三六九年  新羅を攻め、比自体(ひしほ)以下の七国を平定し、比利以下の四邑を降伏させる

三七年  百済の肖古王、久氏らを倭国に遣わし、七枝刀一口・七子鏡一面などの重宝を奉る

  高句麗に仏教が伝わる

三七五年  百済肖古王没・貴須王立

三八二年   襲津彦を遣わし新羅を伐つ

三九〇年  神功没・陵葬(日本書紀二六九年)

三九一年  倭、百済・新羅を破り臣民とする(高句麗広開土王碑文)

三九九年 倭、新羅に侵入、新羅は高句麗に救援を要請する(広開土王碑)

四〇四年  倭、もとの帯方郡の地域に出兵し、高句麗に撃退される(広開土王碑文)

四一三年  倭国、東晋に貢物を献ずる

四一  倭国、貢物を献じる

四二一年  倭王の讃、宋に朝貢し、宋の武帝から除授の詔(爵位)をうける(『宋書』倭国伝)

四二五年  倭王の讃、宋に遣使

四三〇年  倭国の王、宋に遣使

四三八年  倭王の讃没し弟の珍立ち宋に朝貢。安東将軍倭国王の称号を賜る(『宋書』倭国伝)

四四三年  倭国王の、宋に朝貢して安東将軍倭国王とされる

四六二年  宋、倭王興を安東将軍倭国王とする

四七八年  倭王武、宋に遣使。安東大将軍倭国王の称号を与えられる

四七九年  倭王武、鎮東大将軍『南斉書』倭国伝

五〇二年  倭王武、征東将軍『梁書』

五一三年  百済から五経博士段楊爾が来る

五二七年  筑紫国造磐井の反乱が起き翌年一一月鎮圧される

五三八年  仏教伝来。百済と高句麗の対立が激化しはじめる

五五二年  崇仏派蘇我稲目と廃仏派物部尾興が対立する

五五三年  百済から易が伝えられた

五五四年  百済から医学博士や採薬師潘量豊・丁有陀が来朝

五六二年  新羅国が加羅国を吸収

五六九年  新羅から大和朝廷へ仏像が贈られた

五八七年  蘇我氏・聖徳太子が物部氏を追放

五九二年  蘇我馬子が東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺。日本初の女帝推古天皇が即位

五九三年  聖徳太子を皇太子とし政治に参画させる。四天王寺を建立し医療制度を確立

五九六年  蘇我氏の寺、飛鳥寺=法興寺建立

六〇〇年  隋に始めて使者を派遣する

六〇二年  百済の観勒が遁甲方術を伝える

六〇三年  冠位十二階を制定

六〇四年  憲法一七条を制定

六〇五年  鞍作鳥が飛鳥寺釈迦如来像をつくる

六〇七年  小野妹子らが隋に派遣され国書を送る。法隆寺建立

六〇八年  小野妹子が隋使裴世清と帰国

六一〇年  高句麗僧の曇徴が紙・墨・絵画などの製法を伝える

六一一年  聖徳太子が『三経義疏』を著す

六一八年  唐が成立

六一九年  高句麗は唐に遣使を送る

六二〇年  聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」と「国記」を編纂。蘇我氏滅亡時に焼失。内容不明

六二一年  新羅と百済が唐に遣使を送る

六二二年  聖徳太子斑鳩宮にて没す。妃の橘大郎女が天寿国繍帳をつくる

六三〇年  犬上御田鍬を遣唐使として派遣

六四二年  庚申信仰が伝わる

六四三年  蘇我入鹿が山背大兄王(聖徳太子の子)を攻め自害させる

六四五年  中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害(乙巳の変)。孝徳天皇が即位し難波に遷都。大化の改新

六四六年  改新の詔

六五五年  皇極天皇が重祚し斉明天皇として即位

六五八年  安倍比羅夫による東北遠征

六六〇年  百済滅亡

六六三年  白村江の戦いで日本軍は唐・新羅軍に大敗

六六五年  百済から四百人の移民。陰陽五行の思想も移入。木簡(美濃国、五十戸)発見

六六六年  百済から二千人の移民、東国に置く

六六七年  飛鳥宮から近江京大津に遷都。唐への恐怖

六六八年  天智天皇が即位。高句麗滅亡

六六八年  中大兄皇子が即位し、天智天皇となる。最初の令である近江令を制定

六七〇年  庚午年籍

六七一年  天智天皇没

六七二年 天智天皇の後継をめぐり壬申の乱がおきる。飛鳥浄御原宮に遷都

六七三年  大海人皇子が天武天皇として飛鳥浄御原宮において即位

六七五年  占星台を設置

六八二年  新羅、朝鮮半島を統一

六八四年  八色の姓

六八六年  天武天皇没

六八九年  飛鳥浄御原宮令施行される(大宝律令へ)

六九〇年  持統天皇(天武天皇の后で天智天皇の娘)即位

六九四年  藤原京に遷都。はじめて碁盤の眼につくる。このころ天皇と日本の称号をする

六九七年  持統天皇の孫、文武天皇即位。高松塚古墳・法隆寺金堂壁画はこのころ

七〇一年  大宝律令完成。刑部親王・藤原不比等らがつくる

七〇四年  この頃から行基が社会事業で活躍。朝廷はこれを弾圧

七〇七年  元明天皇が即位

七〇八年  銅銭和同開珎の鋳造 その前に富本銭というのもあった

七一〇年  平城京に遷都。奈良時代

七一二年  『古事記』(天皇家の進講ため編纂)が撰上される

七一三年  『風土記』(領図を誇示するため)諸国に『風土記』編纂が命じられる

七二〇年  『日本書紀』(官僚の官製史書として)撰上される

七二四年  聖武天皇が即位する

・天皇家、氏族の背景勢力について

仏教受容の争乱 五八七年

蘇我氏勝利・・・・・・・・・・・・・・・・・高句麗系(新羅説もある)

物部氏敗北・・・・・・・・・・・・・・・・・百済系

大化の改新   六四五年

天智天皇・中臣(物部氏)勝利・・・・・・・・・百済系

     系蘇我氏敗北・・・・・・・・・・・・・・・・高句麗系

壬申の乱    六七二年

     天武天皇方勝利・・・・・・・・・・・・・・・新羅系

     天智天皇方敗北・・・・・・・・・・・・・・・百済系の分裂とも

ここで着目することは、日本の勝者は朝鮮半島でも優勢であり、同じく敗者は半島では劣勢であったことです。半島の勢力に日本が強い影響を受けていす。天武天皇の即位は新羅が半島を統一するのと軌を一にしています。ここにおいて古代政権に大きなコンマが打たれます。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二八頁)。