189.渡来人と道教文物の流入                高橋俊隆

渡来人と道教文物の流入

日本人の祖先はどこから来たのでしょうか。純粋な日本人をどのように定義したらよいのでしょうか。昭和二四年に相沢忠洋氏が、群馬県岩宿(みどり市)で旧石器時代の打製石器を発見し、このころには列島に人類が住んでいたことがわかりました。三万五千年前の後期旧石器時代になります。この人々は大陸からナウマンゾウやマンモスを追って日本列島に渡ったとされます。氷河時代の海面は今より百b低かったといいます。そして、縄文時代といわれるBC一万五千年ころから一万二千年までを人類の成立期とし、七千年までを発展期、三千四百年までを成熟期、二千四百年までを終末期と文類できます。成立期は土器の使用があります。発展期は狩猟生活と竪穴住居に定住します。成熟期の前半に日本は温暖化になり、環状集落が中部・関東を中心に拡大します。青森市の三内丸山遺跡は五百棟ほどの建物郡があり、一千五百年の長い間、縄文人が定住していました。後半に入るころには、呪術の道具とされる土偶が発見されました。土偶に女性が多いのは出産に関わるからといいます。また、頭・腕・胴・尻・脚の塊を造り繋げて焼成します。割れやすく造り破壊するのが目的です。この祭祀土偶には死体化生型神話と関係があると考えられています。これにより、BC五千四百年ころには、呪術信仰が始まっていたことがわかります。山形の三崎山遺跡の刀子、中川代遺跡の有孔磨製石斧、青森の今津遺跡の三足土器などは、中国の殷代の影響を受けています。陸稲の遺跡は岡山市津島東の朝寝鼻貝塚から、六千年前の稲が確認されています。この縄文早期の稲作は主食ではなく、大量に収穫できる水田稲作は、終末期のBC一千年ころに中国より西日本に伝わります。このころから弥生時代とされます。佐藤洋一郎氏は春秋・戦国時代は粟や麦の畑作を中心とする北の文明と、米を中心とする南の文明の戦争といいます。このとき敗れた南の人々は難民となって四方に拡散したといいます。弥生時代の特徴は稲作のほかに、青銅器・鉄器の使用があります。また、生活用具として弥生土器の使用があります。これらをもたらした人々がいたのです。徐福は始皇帝の命で日本に渡ったといわれ、日本各地に徐福を祀る神社や伝説地があります。陶器・捕鯨・織物などの技術をもたらしたとされます。注目されるのは、徐福伝説地は葦原の地帯が多いことです。葦の根には鉄分が付着し、徐福の百工のなかに製鉄技術があることと関連するといいます。

日本民族は人種的には古モンゴロイドで、北東アジア、中国の長江下流から東シナ海を渡航して直接に、あるいは中国北部、朝鮮半島、南西の島々をへて断続的に渡来したといいます。環濠形態の違いや出土炭化米、人骨の分析によりますと、中国黄河上流域と長江中流域を起源とします。(玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史』1.一六三頁)。長江には河姆渡(かぼと)遺跡(浙江省東部の寧波市から舟山市)があります。ここから水稲の炭化籾が大量に出土し稲作の起源地とされます。ほかにも、ヒョウタンヒシナツメハスドングリなどの植物や、ヒツジシカトラクマサルなどの動物や魚、ブタイヌスイギュウなどの家畜も発見されています。住居跡は干欄式建築(高床式住居)が多く、多雨・高温多湿の気候であったことがわかります。また、木器・骨器・漆器・武具や紡織用の道具があります。土器は幾何学模様・植物紋・縄文などが刻まれ、人頭・船を模った物があります。稲作が伝わったルートと同じで、中国の南部や山東半島から朝鮮半島南部を経由して、北部九州に伝わったとします。木製農具は朝鮮半島から伝来したと考えられています。しかし、中国南部や朝鮮の信仰儀礼のほかにも、東南アジアの信仰儀礼も日本の古代文物に散見できます。それらは、祭祀の道具・儀式にあらわれています。また、北部九州に伝わった稲作は、ゆるい速度で四国から東北に伝わっています。四国には二百年後、関西には三百年後、中部には四百年後、東北には五百年後、関東には約七百年後に伝えられたといいます。(日本博学倶楽部『学び直す日本史古代編』二〇頁)。人類学の立場から縄文弥生人骨と朝鮮・中国との人骨を比較したり、現代人のDNA、血液のGM血清型などの分布から、大量の渡来人が想定されています。あるいは、少量の渡来人ではあったが在来人よりも人工増加率が高く、二百年ほどの間に形質が在来系から大陸系に変わったという意見があります。(奈良文化財研究所『日本の考古学』上。二六九頁)。

日本人の習俗や信仰は、これらの地域と共通性がみられます。ここで注目したいのは、日本の文化は渡来人によって移入されたということです。換言しますと、私たちの祖先は多くの渡来人と混血して、日本を形成してきたのです。本書で追求しているのは、この渡来人がもたらした信仰です。とくに民間道教が日本の古神道につながり、豪族の氏神を統合して発展してきた大和・飛鳥時代までを中心にしています。それらのなかには、現在の日本の行事や雑節となり、慣習化されているものが多々あります。日蓮聖人は生国に伊勢神宮の御厨があることを誇りにされ、天皇家や天照大神を大事にされています。日蓮宗の修法(祈祷・加持・呪符)は諸天善神の守護が強調されます。本書においては庚申・妙見信仰をとりあげます。この源に中国の道教信仰が流れています。

道教の日本への影響をみますと、日本に教団道教は入っていないといいます。それは道教の寺院遺跡や道士について、文献に残したものが少ないからです。しかし、中国や朝鮮からの道教の渡来は、すでに縄文時代には始まっています。それは九州の縄文人と朝鮮の櫛目文人の交流があることからわかります。水稲耕作・金属器・大陸系石器・支石墓などの文化的な伝来は、そのまま弥生文化の始まりとされますが、すでに一部の文化は西九州(佐賀県・長崎県)に伝わっていました。福岡県の最西部に位置する糸島地方の支石墓と、その副葬品は朝鮮半島系であり、渡来人の主力が伊都国に定住しています。渡来人は四国・大阪など各地に伝搬していきます。神仙術の薬草・鉱物に関しての伝説に、秦の始皇帝が日本へ不老不死の仙薬を、徐福に命じた(紀元前二一九年)といいます。方士である徐福は叶わないことを知り、南紀に留まったといいます。始皇帝の「皇帝」という称号は三皇五帝より二つの漢字を引用しています。「帝」は天帝や上帝のように天を統べる神の呼称で、始皇帝は地上の君主を指す神の呼称として「皇」を用いたといいます。始皇帝は万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる皇帝陵の建設などを、多くの人民を犠牲として行いました。また、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を実行しています。焚書とは医薬・卜筮・農事以外の書物を焼却することです。坑儒とは儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)という意味です。これは宰相の李斯の建言によるもので、儒生を捕えて四六〇余人を咸陽で坑殺した、儒家に対する言論統制政策でした。始皇帝は五行思想も取り入れています。また、秦山で封禅門といわれる封禅の儀を行っています。封禅とは天に感謝する儀式を封といい、地に感謝する儀式を禅といいます。司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によりますと、「正義此泰山上築土為壇以祭天、報天之功故曰封。此泰山下小山上除地、報地之功、故曰禪」とあります。「封」は土を盛って壇を造り、ここに天を祀ります。天の功に報いる儀式です。禅は泰山の下にある小山の地をならして平らにし、山川を祭り地の功に報いるのが禅といいます。中国古代に天子のみが泰山で行なった、天地に感謝する祭祀をいいます。始皇帝は秦山で封禅の儀を行った後、山東半島を巡ります。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いています。僊人とは仙人のことですから、始皇帝が神仙思想に傾倒していたことをのべたのです。方士たちが不老不死の神仙思想を説いていたのです。

日本に稲作農耕が定着すると、縄文土器とは違う弥生式土器にかわります。さらに、稲作が発展すると日本列島すべてが土師器に統一されます。この背景には稲作の技術だけではなく、風俗・習慣・信仰までもが中国から伝わったといいます。なかでも、殷・周時代の古代中国との関連が原点となります。この時代の信仰は鬼神が全てを支配していると考えていました。この鬼神についての影響として、第一〇代崇神天皇は疫病を静めるために、天照太神と倭大国魂神を大殿の内に祀り、大田田根子には大物主神を祀る神主とし、長尾市(ながおち)を倭大国魂神を祀る神主としました。このことは崇神天皇が、古代中国の鬼神信仰と同じように、祖霊や土地の神である鬼神を祀ったことを意味しています。そして、大和朝廷の統一がはじまり古墳が築造されます。祖霊が農作物の豊熟をもたらすという思想は、葬送儀礼と結びつき列島に拡がります。それは弥生式土器から土師器土器への移行と関連します。上毛野氏の祖が東国統治のために奉じてきた、御諸山(三輪山・三室山)の神は大物主神と呼ばれます。(『日本の古代』2、森浩一稿、三四〇頁)。後述しますが、神武天皇いらい大和と三輪山は深い繋がりをもち古墳時代に展開していきます。

さて、中国の祭祀文物は、道教の信仰の由縁や目的を形に表しています。王育成氏はその文物を十項目に分類しています。(「道教文物の概説」『道教の斎法儀礼の思想史的研究』所収。一八九頁)。1.簡牘・契券類。2.印牌板尺類。3.陶瓷解除器類。4.金属器物類。5.石刻銘文類。6.造像図紋類。7.絵画書法類。8.冠服飾品類。9.古籍善本類。10.雑器雑品類に分けています。この分類を手掛かりとして、中国や朝鮮を経由してきた日本の古代信仰や、古神道といわれる祖形を探ってみたいと思います。祭りは神や祖先に感謝し鎮魂するための儀式です。現在の日本の祭りの儀式(祭儀・祭祀・祭礼)を知るには、古代中国の信仰を切り離せません。そこで、私たちの祖先はどのような祭祀をし、何を願ってきたのか、それが道教とどのように結びついているのかを知るのが本書の目的です。中国の祭祀文物はその手がかりです。これらの道教文物と同じ形態のものが日本で発見されています。それらは本来どのような目的をもっていたのでしょうか。