191.道教文物 鏡・剣                      高橋俊隆

中国では鏡を神霊視しています。鏡を鑑として鏡鑑・鑑鏡と書かれており、後漢末ころから鏡と鑑を同一視するようになったといいます。『周礼』の秋官司寇によりますと、鑑は祭祀のために夜露を集め、月などを映像する用具でした。周代には鑑に氷を置いて食物を貯えるものという意味がありました。鏡は『荘子』に始めて見え同じく映像の道具でした。玉鏡・天鏡・金鏡は帝王の権力を象徴します。また、鏡は悪鬼を駆除し災いを回避する、除災の祭具として使われていました。これが道教に取り入れられ、鏡道という修法に使用されました。(小林正美編『道教の斎法儀礼の思想史的研究』二一〇頁)。

中国や朝鮮では鏡を容飾具として副葬しました。銅鏡は大きさと文様に意味があります。『抱朴子』に道士が用いる明鏡は径が九寸(二一㌢)以上となっています。これは大型鏡になり魏の銅鏡には少ないといいます。また、鏡背の文様から内行花文鏡・方格規矩四神鏡・神獣鏡・画象鏡、また、直孤文鏡・家屋文鏡と名づけています。制作地の技法により鍍金鏡・金銀貼鏡・螺鈿鏡・平脱鏡などの呼称があります。背面の文様は内区と外区にわかれ、縁は断面の形により平縁・三角縁・蒲鉾縁・匙面縁と呼ばれます。倣製鏡の方は反りが大きくなっています。唐鏡は唐草文・宝相華文・狩猟文・動物文が多くなります。中国の銅製を中心とする金属鏡は、主に円板形(円鏡)で鏡背に突起状のつまみがあり紐を通します。中国鏡は周末漢初の秦鏡を始めとして、前漢・後漢・三国六朝鏡とつづき、六朝末に新しい形式の鏡ができます。『抱朴子』には鏡に神仙が現れるとあります。鏡は一面二面四面と用いることがあり、日月鏡・四規といいました。四規は前後左右に置きます。この形式は随・唐鏡へつづき、唐鏡以後は八稜鏡・八花鏡などができます。朝鮮では多紐細文鏡が造られています。日本では弥生時代から古墳時代にかけて中国の円鏡が入り、これを舶載鏡といいました。日本で造った鏡を倣製鏡といい、古墳時代から造られています。(『神道史大辞典』一九〇頁)。弥生時代に大陸から伝わったのは漢鏡とその流れを汲む漢式鏡ではなく、朝鮮半島を中心に広がった多紐細文鏡でした。多紐細文鏡は太陽信仰に関わりをもっています。(『日本の古代』1、二六六頁)。三角縁神獣鏡の鈕孔が長方形に限られるのは、魏の官営工房の技術によるものとし、景初三(二三九)年銘の三角縁神獣鏡は、この年に遣使した卑弥呼に与えるために製造された鏡といいます。青銅器から画文帯神獣鏡に移行するのは、神仙思想の象徴的器物である神獣鏡を分配することにより、倭人統合をはかった卑弥呼の戦略ともいいます。古い三角縁神獣鏡が西日本の沿岸部の古墳から出土するのは、中国との海上航路を確保するために、航行寄港地の有力首長と連携していたためといいます。(奈良文化財研究所『日本の考古学』下。四六〇頁)。中国鏡(漢式鏡)と多紐細文鏡の違いは、次のようになります。

鏡      紐の数   鏡面     文様           銘文

多紐細文鏡――――二~三―――凹面―――――幾何学文――――――――なし

中国鏡(漢式)――一―――――平面か凸面――神仙界の図文ほか多様――ある場合が多い

随・唐の時代には煉丹術・修身・通神・駆鬼・治病などにも鏡を使用しました。師匠が弟子に伝授する法物にもなり、鏡・剣・印は道家三宝となっています。この道教の鏡を四つのカテゴリーに文類します。一に、文様に道教の思想や信仰が見られるもの。たとえば、東王公・西王母鏡・神人神獣鏡など。二に、教理に基づいて作ったもの。たとえば、上清含象鍳鏡・上清長生宝鍳鏡など。三に、故事や伝説をモチーフにして作ったもの。たとえば、唐明皇游月宮鏡・真子飛霜鏡など。四に、符合を文様として施したもの。たとえば、道符鏡・八卦鏡などです。(小林正美編『道教の斎法儀礼の思想史的研究』二一一頁)。司馬承禎は『含象鑑序』『含象剣鑑図』において、鏡の持つ神秘霊妙な威力(「象を尚び霊に通ずる」)を「含象鑑」とし、易や易緯の哲理で解説しています。(『日本の古代』一三、寺沢薫稿、一四二頁)。『景震剣序』には「鬼を納め邪を摧くの理は未だ奇制に聞かず」とのべています。倭使が持ち帰った可能性がある後漢系の鏡としては、内行花文鏡・方格規矩鏡・四乳虺龍文鏡・菱鳳鏡があります。(『日本の古代』1、二九六頁)。『抱朴子』登渉篇には、道士のもつ鏡が山に棲むあらゆる悪鬼邪魅の妖惑を退けて、その正体を写し出すという鏡の呪術的な神霊力が書かれています。鏡が妖魅の正体を写し出すという思想は、『淮南子』俶真訓(「明鏡が物の性を形わす」)などにあります。このような神仙術における鏡の重要性は、以後の道教においてもそのまま継承されていきます。讖緯思想からみた鏡を帝王権力の象徴として神秘化し、祥瑞思想によって神霊化しました。神仙思想からみたは鏡は、その鏡に現世の不老長生の願いを託し、天上世界への飛翔を祈ったと思われます。讖緯思想と表裏して神仙思想があったのです。これに、星占術と結びついた五帝信仰や四神獣信仰が、漢代の古鏡や三国六朝期の古鏡に顕著に示されたのです。(福永光司著『道教思想史研究』二九頁)。伊勢神宮の神楽殿にて舞う人長舞は神楽人の長が、榊の枝に鏡を模した輪を取り付けたものを右手にもって一人舞をします。(『伊勢神宮のすべて』部冊宝島五一頁)。さらに、新山古墳の三角縁神獣鏡は、三方三神のかわりに三方が三仏となっています。道教的神獣鏡から仏教的仏獣鏡への影響がみられます。そして、この仏獣鏡は四~五世紀に舶載鏡として日本に入っていたといいます。(速水侑著『日本仏教史古代』二六頁)。

つぎに、剣についてみてみます。鏡と剣を重視したのは陶弘景です。陶弘景は道教の理想を太和と太平において強調し、仙の心得を「凡そ道術を学ぶ者は、皆須く好き剣と鏡との身に随うことあるべし」とのべています。陶弘景においては鏡と剣が重要な宗教性をもっていたことは『刀剣録』にみられます。三洞九真の剣、五威霊光の剣の威力は、「百邪を除き魑魅去る」「国を鎮め社を安んず」ものと解釈しています。陶弘景の茅山道教は古代日本の天皇・神道と深い繋がりがあり、聖地である茅山は神道の霊山となっています。そして、この思想を二百年後に継承し、二種の神器として帝王の権威と権力を象徴したのが司馬承禎です。その理論書が『含象剣鑑図』です。百済から渡った剣で、破敵の剣、守護の剣と呼ばれる霊剣があります。『塵袋』(一二六四~八八年ころ。作者不明)には疫病邪気を除く剣であると解説しています。くわえて、神仙術としての尸解において剣が重要な役割をもっていました。『列仙全伝』に「真人の世を去るや多く剣を以て形に代う。五百年の後、剣も亦た能く霊化する也」。また、「仙法は凡そ仙胎にして仙を得る者に非ざれば必ず尸解に由る。上の尸解は刀を用い、下の尸解は竹木を用う。神丹を以て筆を染め太上太玄陰生符を刀に書す。其の刀、須臾にして即ち度する所の者の面目の如くにして牀上に菴然たり」とあります。つまり、剣が尸解の仙術において道教の不死の道術と、深い関わりをもっていたことがわかります。陶弘景の『真誥』などには、埋葬された死者の傍らに置かれた剣は、仙術による死者の仙界への再生と結びつけられています。これを剣解(「解剣の道」)と称していました。(福永光司著『道教思想史研究』四二頁)。山形県の三崎山遺跡の青銅製刀子は殷代のものと類似し、縄文後期の呪術具である石剣の起源は極東地域の青銅刀剣の影響ともいいます。(西脇対名夫稿「石剣ノート」『北方の考古学』所収)。日本の銅剣はこの影響を受けたと思います。これについては「三種神器」においてのべます。

5.石刻銘文類

碑石・墓石・志石などに道教に関する文字・内容を刻んだもので拓本も含まれます。また、墓券・買地券があり、石・磚(せん)・木・磁石などで作られています。磚とは粘土を型で固め、焼き、あるいは乾燥させて作った灰黒色の煉瓦のことです。漢代に発達し、城壁・家屋・墓室の構築に用いられています。百済の第二五代武寧王(在位、五〇二~五二三年)は銭貨一万文を積み、買地券によって地主神から墓地を購入し安息の地としました。一九九一年に韓国(百済)の公州宋山里古墳群で発見された王稜から、墓誌が出土し王墓が特定されました。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しない高野槙でした。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約三千点近い遺物が出土しました。墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(五二三年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と始まります。この墓誌は道教の買地券です。墓地に対する神の保護を祈願する呪術的な手法です。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』一七六頁)。こうした買地券の埋納は中国では後漢代から始まっています。材質は塼・石・鉛が多く、漢代には鎮墓瓶を墓中に納める習俗もありました。鎮墓瓶は瓶に朱もしくは墨で、死者の生前の罪謫を解除するための願文を書き、文末は「急々如律令」「如律令」で結ばれます。地下を支配する冥官から墓地を買うという道教的信仰が、これらの遺物で確実な事例となりました。(『日本の古代』一四、和田萃稿、三〇頁)。朝鮮からは巨石を複数の石で支える支石墓の埋葬法が伝わります。磨製の石剣や石鏃もまれに副葬されています。(玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史』1、一八八頁)。また、石刻遺跡として、南北朝時代に敦煌・雲崗・竜門などに、石窟寺院が造られています。北斉(五五〇~五七七年)時代に河北・河南・山東・山西の山岳地帯に磨崖刻経(石刻経)が刻まれました。(『日蓮聖人と法華の至宝』第三巻。六八頁)。日本では飛鳥時代の寺院跡や、都城跡などにこれらの影響がみられます。

6.造像図紋類

道教の神像・教理・思想を図案にしたものです。道教の初期の祭祀は神位(位牌)を立てて降神するもので、神像を作る習慣はありませんでした。これは古神道と同じといいます。最も初期の記録は天子道の道士、陸修静(四〇六~四七七年)の教戒を記した『陸先生道門科略』で、この頃から道教の神像が現れます。神仙造像としては、北魏の老君造像碑、陝西三原博物館の隋老君像、西安碑林博物館の唐老子像、ドイツコロン芸術館の唐老君像、福建泉州清源山の北宋老君像、北京白雲観の明原始天尊画像、台北歴史博物館の清西王母像、湖北武当山の雷神像などは有名です。

7.絵画書法類

道教の神仙画や壁画などの絵画や、教理書・経典・符呪などの符呪です。道教には文字信仰があり文字に呪力があるとされました。勝れた詩人や書家として、李白(七〇一~七六二年)・王羲之(三〇三~三六一年)・顔真卿(七〇九~七八五年)などの道教信奉者がいます。道教の神仙・星宿・八卦などの多岐にわたる信仰を、絵画・書・符呪に表したものです。文字信仰の例として、昭和五四年に奈良県奈良市此瀬町の茶畑から『古事記』を編纂した太安万侶のが発見されました。太安万侶の墓誌は銘文を記した面が下に向けられていました。文字そのものに神秘的な呪力があると認めています。銘文鉄剣や鉄刀など、堅い素材に文字を刻む行為も文字信仰によるものです。「急々如律令」の呪言・墨書土器も同じです。また、平城宮出土の我・君・念の組み合わせ文字は男女離別のまじないです。現在、相合い傘のなかに男女の名を書き、恋を叶える行為も文字信仰です。

種子島の広田遺跡から貝札(彫刻を施したペンダント)に「山」と陰刻した文字が発見されました。昭和三一年から三四年にかけて調査が行われたところ、人骨は上・中・下と三層に埋葬されていました。下層の人骨七体は屈葬、中・上層は再葬墓となり、下層の人骨には饕餮文や、龍文形の貝札、爬虫文、虺龍(きりゅう)文を彫刻した貝製腕輪が首・胸・腕に着装していました。上層人骨は巫女といわれ、骨の上に真白い符文彫刻をもつ未使用の貝札が添えられています。貝札のなかに蝉を形作った含蝉や「山」と刻したものが含まれ、山の文字はイモガイを板状に切った横八㌢、縦四㌢ほどの台形をした貝札に陰刻されています。筆法は漢代の隷書に似ているといいます。この巫女の遺骸の上に置かれた山の意味は道教の神仙思想といえます。弥生人もすでに死後の世界観に、文字信仰をもっていたのです。(『日本の古代』一四、岡崎晋明稿、四三五頁)。奈良・平安時代は「急々如律令」などの呪符木簡が多用されています。また、鳴子に馬脾風(バヒブ)除けのこけしがあり、これを腰に吊しておけば馬脾風を避けることができるといいます。馬脾風とはジフテリアのことで、平安時代に中国より伝わり、江戸時代に馬脾風と呼ばれていました。(柴田長吉郎稿「松田初見のバヒブ除け」『こけし手帳』五〇七号所収。一四頁)。このような郷土玩具にも文字による呪符信仰の影響がみえます。

8.冠服飾品類

冠帽・服飾・靴履・牌飾などの道士の服飾品のことです。道場や宮観を装飾する幡・帳・牌などの儀式装飾品も含まれます。天子の袍につける文様に十二章があります。それは、日・月・星辰・山・黼(ふ、斧)・黻(ふつ、弓)・華虫(雉鳥)・龍・宗彝(そうい、虎と猿)・藻(水草)・粉米・火をいいます。旌幟(せいし、はたのぼり)は棺蓋の上に置かれたり、儀式の旗とされます。絹布に人物や動物を施します。また、崑崙山に座す西王母を主題として天上界を表現したり、登仙を表すために神獣と仙人を配置します。死者が羽化登仙する文様などは、翼をもち飛行し不老不死になる仙人を表しています。これらは神仙思想の現れです。前漢の「彩絵帛画」に死者が地上から二匹の龍が引く車に乗って、天上界に登る図柄が施されています。全体に神仙と神獣を描き上部の肩のところに日輪のなかに鳥、三日月の上に蝦蟇の棲む模様があります。神仙思想によることがわかります。(『日本・中国の文様辞典』三〇六頁)。また、天女などに見られる襷・手繦(たすき)・肩巾は、招魂や鎮魂のときの呪布、邪悪なものを退散する威力があるといいます。襷やはちまきの起こりです。中国では皇帝の色として朱の赤色を用います。日本でも古墳時代より身分の高い人物に使われている色です。青(東)・赤(南)・黄(西)・白(天)・黒(北)の五色は『書経』にあり、道教では五色は神の色としています。『抱朴子』対俗篇に千年の亀には五色が備わっているとあります。儒教の『周礼』天官書などの神学教理を借りてきたといいます。つまり、儒教に元があり神や鬼との関係を説いていったのです。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』七六頁)。

9.古籍善本類

道教経典・典籍・神仙人物の伝記、道教宮観(道観)の著作物をいいます。『抱朴子』『真誥』『無上秘要』などが有名です。現在、中国の道教宮観は白雲観北京)・東岳廟(北京)・岱廟山東省泰山)・東岳大帝太山府君を祀っている)・関帝廟(雲城)関林廟(河南省洛陽。関羽の首塚がある)・炎帝祠(陝西省宝鶏。炎帝を祀っている)・北禅寺青海省西寧)・玉泉観甘粛省天水)・伏羲廟(天水。甘粛省天水・伏羲を祀っている)・上海城隍廟上海)・玄妙観江蘇省蘇州三清殿が有名。江南第一の道観と呼ばれる)・湄洲島媽祖廟(福建省莆田)・五仙観広東省広州)などがあります。日本では聖天宮埼玉県坂戸市)が日本国内最大級の道教寺院です。道教の最高神・三清道祖と道教の神々が祭祀されています。三清とは「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)をいいます。それぞれが道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に居住していると説きます。道教大蔵経(「正統道蔵」「続道蔵」)を道蔵といい、あわせて五四八五巻あります。

10.雑器雑品類

供器・祭器・煉丹器具・楽器・道医用具・丹薬のことです。八仙人の持ち物としては、瓢箪・芭蕉扇・宝剣・花籃・横笛・蓮華・魚鼓・玉板を持っています。ほかに、宝輪・法螺貝・宝傘・白蓋・蓮華・宝瓶・金魚・盤長・陰陽板の法具や荘厳具があります。ほかに雑宝として、珊瑚・丁字・方勝・繍球・角杯・火焔宝珠・鍵・犀角・厭勝銭・銀錠があります。これらの文物は古代日本の遺跡にみられたり、現在も継承しているものも多々あります。とくに、日本神道には欠かせない三種神器があります。これらの影響については後述します。