192.銅鐸                                高橋俊隆

銅鐸

弥生時代の前期末(紀元前二〇〇年頃)に、弥生初期につぐ第二の渡来があります。このとき青銅武器の銅剣・銅矛・銅戈(どうか)も移入し、弥生中期初頭(紀元前一八〇年頃)には欠かせない副葬品となります。これが金海式甕棺墓です。また、日本で鋳造された青銅器の銅鐸も出土します。吉野ヶ里遺跡から青銅器鋳造に関連する遺物が多数発見されました。佐賀平野にある青銅器生産の遺跡から、擬朝鮮系無文土器が出土し、甕棺に埋葬された人骨は韓半島の人と似ているといいます。これらの朝鮮系の人が青銅器技術を伝えたといいます。(玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史』1.一五〇頁)。中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(前七七〇~前二二一年)の越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た青磁器の鐸が出土しています。越(前六〇〇年頃~前三三四年)は、春秋時代中国浙江省の辺りにあった国で、首都は会稽(現在の浙江省紹興市)です。後に進出した黄河流域の都市周辺の漢民族とは別の、長江流域の百越に属する民族です。越はなど長江文の流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えました。勾践の六世の孫である無彊の代に、威王の遠征によって無彊は処刑されます。その後、懐王の代の前三〇六年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされます。一九六五銅剣湖北省江陵県望山一号墓より出土しました。その銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆っており、さびていない状態で出土し現在も保管されています。越はの生成技術に優れていたのです。北部九州からは近畿地方とは異なる、邪視文・辟邪文銅鐸が鋳造され、中国地方に分布しています。

銅鐸は水の神を招く楽器、祭具は山や森の神霊の依り代と考えられています。(宮家準著『神道と修験道』四六九頁)。銅鐸と銅鉾などの武器との関係については、銅鐸は形態からして穀霊をつなぎとめる呪具とします。つまり、穀霊を呼びおこし、あるいは鎮めるための鐘であったのです。これにより邪気を封じ込め、呪縛によって祟りや災いを回避する呪具なのです。これに対し、矛などの武器は荒ぶる神や邪気を威嚇し、切り払う攻撃的な呪具であったとします。猿田彦大神は矛をもっています。『日本書紀』に大己貴神(大国主神)が国を譲り渡すとき、「国を平定した時に杖(つえつき)し(用いた)廣矛(ひろほこ)を二神に授け、我、此の矛を以ちて、卒(つい)に功(こと)治(な)せる有り。天孫若(も)し此の矛を用(も)て國治(しら)さば、必ずまさに平けく安からん。今、我、まさに百不足之八十隈(ももたらずやそくまで)に隱去(かくれ)なんと言って、言い訖(おわ)りて遂に隱れき」とあります。矛は陽の象徴であり猿田彦大神と大己貴神の広矛が繋がります。この二つは対峙した祭器であり、この両者を使い分けていたのです。鐸と武器との共存は鐸に描かれた絵にあらわれています。それは鐸の音色にあわせて、青銅武器による闘いの乱舞をします。また、疫病や台風、水害、旱魃などの、荒ぶる神との闘いであったともいいます。銅鐸の多くが破片で出土するのは、邪気を払う形代として廃棄した印といいます。(『日本の古代』一三、寺沢薫稿、一一二頁)。

日本の銅鐸は中国古代の鈴(れい)の系統を引くといいます。鈴は金属の音と光で神を招くとされます。銅または青銅製の扁平な釣り鐘形で、中に舌があり上方の細長い柄を持って振り鳴らします。古来、呪力があるとされ神事や装身具として用いられ、のち楽器としても用いられました。これに、朝鮮半島独特の朝鮮式小銅鐸を祖形とする鈴が伝わり、独自に発展したというのが定説です。つまり、銅鐸は弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のことで、当時の呼び方は不明です。中国を鐸ということから明治以降に銅鐸と呼ばれるようになりました。横になった状態で出土することが多く、その姿が蛹に似ていることから、江戸時代は蛹(さなぎ)と呼ばれていました。銅鐸の発掘調査した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘しています。銅鐸の種類には、小型・中型・大型、超大型銅鐸があります。小銅鐸と別にまわりに鰭(ひれ)がなく小さいのは四センチぐらいのがあります。小銅鐸は銅鐸がなくなった後もしばらく作り続けています。最古の銅鐸の内面突帯が、舌と触れ合い磨滅して低くなっていることから実用として使用されいたことが分かります。朝鮮式小銅鐸は祭りのほかに、軍事などの号令や合図に鳴らしたとも考えられています。銅鐸が近畿地方を中心として分布するのに対して、朝鮮半島製の三種類の青銅武器である、銅矛銅剣銅戈は、おもに北部九州の墓から発見されています。これらを祖形とした日本生産品や銅鐸は祭器として副葬され、九州地方を中心として、中国、四国から近畿地方に至る範囲で発見されています。また、小銅鐸は関東の千葉・栃木・群馬などからも出土しています。

しかし、日本の一番古い銅鐸との間に違いがあります。中国には日本で出土する形状に類似するものは見つかっていないことと、朝鮮で出土する銅鐸は文字も絵もない小型のものです。朝鮮の小銅鐸にはぐるりの鰭という出っ張りの飾りがなく模様がありません。日本の銅鐸は日本で独自に発達したもので、日本列島の独創力が指摘されています。また、銅鐸は弥生時代のある段階に作られ、銅剣銅矛など他の製品と違うのは、墓からの副葬品としての出土例は一度もないことです(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)。この点から銅鐸は個人が使う物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされます。そして、埋納時期は紀元前後と二世紀頃に集中します。つまり、弥生時代には必要とされましたが、弥生時代が終わる頃には使用されなくなった遺物なのです。銅鐸は四五〇個ほど発見されており、年代順に四段階に分かれます。最古段階は菱擐紐式鐸(最古式、一式)。古段階は外縁付鈕式(古式、二式)。中段階は扁平鈕式(中式、三式)。新段階は突線鈕式(新式、四式)です。この他に福田型銅鐸と呼ばれる銅鐸があります。銅鐸作られたときは青銅色ではなく黄金色をしています。真鍮の出来立てのような銅色です。(森浩一著『銅鐸と日本文化』)。黄金色に照り輝いていた祭具で、そこに神秘性と尊厳性がありました。この銅鐸の日本製品の独創性は銅鐸に描かれた絵画や記号にあります。この絵画や記号などの対の観念にみられる弥生人の二元的世界観、は中国の『易経』に「一陰一陽、これ道という」の易に関係しているといいます。それは剣の両面が陰陽を表すように、銅鐸の鰭で区切られた画面が陰陽を表していたとするからです。重松明久先生は銅鐸が易の思想にのっとった、祖神や地神を祭る祭器とのべています。(『古代国家と宗教文化』)。また、『淮南子』天文訓に「天は円に地は方に道は中央にあり」とあります。つまり、天は円く地は角とされています。この造型が銅鐸であり、前方後円墳の由来であるといいます。銅鐸の上部は円でありその下は方(角)になっており、角の模様は道で区切られています。また、前方後円墳は水濠で囲まれ、水紋が目立ちます。農耕の水への祈願と理解されているのはこのためです。さらに、呪術の水ともいわれます。銅鐸の上部には天を象徴する渦巻き紋が繰り返され、下部には方形に区切られた中に、水紋や介・鱗・羽・人類などの生類が刻されています。銅鐸の絵画の題材はイノシシ・イモリ・トンボ・カマキリ・アメンボ・カニが多く見られ、土器には建物・舟が多く見られます。両方に共通して圧倒的に多いのは、鹿と鷺と人です。鹿は土地の精霊、鷺は稲の精霊、人は祖先としますと、銅鐸は稲・祖先・土地を祭る農耕儀礼の場で鳴らしたと思われます。(奈良文化財研究所『日本の考古学』上。三六一頁)。小魚を咥える鳥が鷺ですと、銅鐸を用いた祭祀は予祝祭であるといいます。(春成秀爾稿「銅鐸の祭りと埋納」『賀茂岩倉遺跡と古代出雲』四一頁)。

土器には人為物を中心とした生活の場が多く画題とされ、銅鐸は動物がおおらかに自然を闊歩している様子が描かれています。「陽―天―火。陰―地―水」という、天地・陰陽の二元から万象が生じ滅して、輪廻がくり返されることを表すともいいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』二〇五頁)。弥生人の生活環境や年中行事が認められ、狩猟から稲作に変化したことにより、生活が安定したことを表すともいいます。トラジャ族はインドネシア、スラウェシ山岳地に居住する、プロト・マレー系の棚田耕作民です。特徴的なのは高床式の家屋や米倉で、この形態は家形埴輪や銅鐸に描かれた米倉に酷似しています。銅鐸・銅剣の祭りは、出雲・吉備方面で紀元前一世紀の時期に終わり、大和・尾張や筑紫では二世紀末ころで消えていくといいます。(上田正昭著『私の日本古代史』上。九二頁)。青銅器に少しおくれて鉄器が日本に伝わります。鉄器は耐久性が強く工具や農具、武具などにも使われました。青銅器はおもに祭器として使われています。青銅器は中国に近い西日本を中心に広まります。祭祀の仕方の違いのため地域により違いがあります。九州では一九七九年に福岡県岡本遺跡にて銅鐸の鋳型が出土しましたが、銅矛が主流となっています。近畿では銅鐸が使用されています。中国・四国地方は平型銅剣が使用されています。銅鐸の出土は破壊された形、埋め納めた状態で出土するので、呪術的な性格のほかに、別の製品と造り替えたという説があります。