194.鳥居                              高橋俊隆

鳥居

日本の神社で見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域に住んでいた時代(百越人)の「鳥居」という説があります。百越(ひゃくえつ。越族・粤)は古代中国の江南と呼ばれる長江以南から、現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいました。日本人のもつ信仰の源流があるように思われます。鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括っています。そして、雲南省や隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲む、タイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」があるとのべています。アカ族の村の門にはの木形が置かれ、これと同じ鳥の木形は日本の弥生稲作文化の始まりとされる、池上・曽根遺跡纒向遺跡でも見つかっています。今日の雲南省蘇省浙江省で見られる陵の入り口や、街の入り口で見られる鳥居様の門は三輪鳥居に酷似しています。現在もアカ族の村の入口と村の反対側には、鳥居である木と竹で造られた二メートル前後の高さの門が建っています。左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたもので、村の門(ロコーン)になります。門は村に悪霊の侵入するのを防ぐ神聖なもので、強い精霊信仰をもっています。つまり、「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門なのです。「締め縄」の由来はここにあります。河内で発見されたものも、腹に穴があり竿の上に挿し立て村の入口にありました。外(ソト)はソッテの転訛ともいいます。(久松保夫著『人形の歴史』二〇頁)。アカ族の祭りは、陸稲の収穫のあとに四日間ほど続くブランコ祭りが有名です。アカ族の若者と森の妖精である娘との、男女の変わらぬ愛を演出したものなのです。このアカ族の祭の主役であるブランコが、日本の公園に設置されているのは、アカ族の残した祭祀信仰の名残なのです。

中国の南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心に、芦笙(ろしょう)柱というものが立ててあり、その頂上に木製の鳥が止まっています。苗族が神樹としている楓香樹で作られています。日本では榊や欅を神木とします。この柱に下から竜が巻きつき上方に牛の角が二本突き出ています。この角に正月(苗年)祭りのときに、一対の銅鼓が下げられていたといいます。日本では前述した銅鐸が神木に吊されました。ツングース、蒙古族にも雑鬼の侵入を防ぐ守護神として広く分布しています。朝鮮ではどうでしょうか。朝鮮半島南部には一対の石積みの塔(タプ)があります。その上に石や木で作られた鳥が設えています。これは『三国志』(魏志)などが馬韓に記した蘇塗の名残といいます。この石積みの塔という形体は北方ツングース系であり、鳥が止まる結界門という習俗は南方の「倭族」のものといい、両者の信仰が混入したことがわかります。この蘇塗のそばに二本の木が立てられています。特徴的なのは一本は竜が天に巻き上がるような木を使い、もう一本は真っ直ぐに天に伸びた木を使い、その頂上に木製の鳥が止まっています。二本の木は繋がっていませんが、門であり鳥居であることがわかります。今でも四年ごとに「ソッテ祭り」があり、幣を付けた「禁縄」(クムチュル)が飾られます。日本の注連縄にあたります。コイノボリ(鯉幟)は一種の神が依る柱を、天にかざしている信仰といいます。そして、「チャンスン」(杭)という一対の人面柱が立てられます。人面の胴体には「天下大将軍」「地下大将軍」と墨書され、この天地神を祭祀して村を守護してもらうのです。これは道祖神の原形ともいいます。新羅景徳王一八(七五九)年に、王命により長生(チャンセン)が立てられたとあります。李朝に入り長柱と表記され境界と里程の標識の役が加わります。李朝の中期からダンズンと訛りチャンスンとなります。高麗時代は一本だけ立つのが多く、石から木に変わります。かつては毎年この前で祭りがあり、新しいものにとりかえて村の安寧を祈っていました。同じようにタイ族の鳥居のそばにもヤダ・ミダという男女二体があり、こういう非対称の対が結界となるという、人間の神話思考が指摘されています。道教的には陰陽になります。また、寺院の門を守る阿吽の仁王像や、神社の狛犬がア・ウンを交わして社を守る姿になったといいます。日本の諏訪神社の御柱祭りの四本柱は、これらの思想に関連しているといいます。村全体が神に守られている神域としたのです。「倭族」は稲作の習俗をもつ文化です。同じ生態系の照葉樹林文化圏に属す民族に、共通して見られる鳥信仰は同じく太陽信仰を持ちます。