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崇神天皇から邪馬台国時代これらの文化や信仰を移入した渡来人と、日本の状況についてみていきます。この時代は倭人も朝鮮半島南部に往来していたといわれます。つまり、朝鮮からの移民が早い時期から始まっており、それらの民族は日本人として定着し同化していたということです。近畿の王族は任那や百済系の渡来民族で、第一〇代崇神天皇(前九七~三〇年)を中心に大集団で渡来したとされ、第一四代仲哀天皇の頃までは北九州を中心に活躍していましたが、応神・仁徳天皇の頃に東征して、はじめは河内、やがて飛鳥に本拠地を移したといいます。また、中国には古来から存在する呪術的民間道教が、秦・漢の統一国家出現によって政治的・社会的に秩序づけられ、儒教という国家宗教的に整理体系化されます。そこに西暦紀元前後にインド西域から仏教が入り、仏教の教理・儀礼などを摂取していきます。そのような時代の五七年に、倭の奴国が後漢の光武帝に朝貢の使節を送り、光武帝から「漢倭奴国王印」を授けられています。一〇七年にも倭国王の帥升(すいしょう)が後漢の安帝に生口(捕虜・奴隷または技能者)一六〇人を献じています。そして、一九六年に朝鮮に帯方郡が設置されます。 仲哀天皇の皇后である神功皇后は、謚を辛国息長大姫大日姫命といい新羅人であったといいます。『紀』では気長足姫尊、『記』では息長帯比売命・大帯比売命・大足姫命皇后とあります。父は開化天皇の玄孫で息長宿禰王で、母は天日矛裔・葛城高顙媛、彦坐王の四世孫になります。応神天皇の母であることから聖母とも呼ばれます。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』一四〇頁)。また呉(二二九~二八〇年)の国が滅んだときに、多数の呉人が日本へ渡来したといいます。このとき呉音という漢字の発音がもたらされました。仏教の経典は現在も呉音で読まれています。たとえば、男女は漢音だと「だんじょ」、呉音だと「なんにょ」になります。呉服のように日本の文化に大きな影響を残しています。その後、卑弥呼も二三九年に魏の明帝へ、男生口四人、女生口六人を送り、二四三年にも魏の少帝へ生口を献じています。『魏志倭人伝』の景初二年六月と一二月に、邪馬台国の女王卑弥呼による始めての魏への遣使や、卑弥呼が親魏倭王に冊立されたことがみえます。また、中国の迎接や外交形式により、倭国の情勢を知ることができます。倭国の使者である難升米たちは、魏の都の洛陽に至り魏の天子が直接引見し労賜を行っています(「受蕃国使表及弊」「皇帝宴蕃国使」の儀)。使者は卑弥呼への詔書や賜物を授けられ、このとき仮授された金印は「親魏倭王」の地位を象徴しました。一般に印の使用は、木竹の簡牘を縄で結んだ結び目に丸泥をつけて、そこに押印(封泥)するために使います。当時は紙が未発達であったためです。金印は大事な文書を確約するときに使用され、文書による国家意思の伝達を求められたのです。また、魏との通交は朝鮮半島の帯方郡を介して行われていることから、邪馬台国の文字(漢字)認識が低かったといいます。魏からの使者にたいし、卑弥呼の代わりに男弟が会見を行ったといいます。(『日本の古代』7、田島公稿、二三二頁)。金印は「漢委奴国王」と刻まれた四角印で、一辺が漢代の一寸(二、三㌢)の大きさです。鈕(つまみ)は蛇を表し鱗は円文で全体に刻まれています。これとよく似た印が雲南省石寨山古墳から出土しています。光武帝は周辺諸国の王には動物の鈕をつけた印を与え、蛇鈕は湿潤な地域の王に与える印としていました。また、亀鈕ではなく蛇鈕であることと、印文が「王」で終わり「璽」や「印」にあたる文字が使われていないのは、不臣の外臣で文字を理解しない異民族の王侯に与えた官印のためともいいます。(上田正昭著『私の日本古代史』上。一〇〇頁)。 志賀島の印は『後漢書』によりますと、建武中元二(五七)年に受けた物です。また、金印の文字は漢篆と呼ばれる書体で、五文字は五行思想によって陰刻されたとあります。奴国の王や卑弥呼にとって金印は権力の象徴であり、文字としての使用にはほど遠かったといいます。(『日本の古代』一四、岡崎晋明稿、四四一頁)。とうじ魏は華北・東北アジアを支配していても、東シナ海方面の呉と敵対していたので、倭国を友邦国としたかったのです。また、魏としますと倭国はもともと華中の倭人が、北九州に建てた国という意識がありました。つまり、地理的にも民俗的にも、日本は呉に同盟するという危惧感があったのです。魏とすれば軍事・通交的にも倭国を味方につけて、友好的な外交をしたかったのです。ですから、卑弥呼に贈り物をして倭国の人に好意を知らせてほしいと添え書きをして、大夫・難升米に持たせたのです。しかし、魏は伊都国に役人を常住させて使節を送り、実質的には倭国を監視していたのです。(『日本の古代』別巻、江上波夫稿、七一頁)。金印のほかにも銅鏡百枚などを授かったといわれ、この記述から銅鏡は邪馬台国の所在地を決定づける手掛かりになるのではないかと期待されました。京都府の椿井大塚山古墳、および奈良県の黒塚古墳から大量に出土した三角縁神獣鏡のいずれかが、これに該当するものではないかといわれますが、古くから論争が繰り広げられており結論は出ていません。ただし、奈良県の纏向遺跡は大規模な集落地であることが指摘されており、国内最大の規模をもつ建物遺構が判明しました。(石野博信編『大和・纏向遺跡』五二八頁)。地相としては陰陽道の「四神相応」に倣って、東からの流水(辻川河道)、西には広大な平野や長道があり、南に低地(宮殿)と池(箸墓)をもち、北に神が宿る丘陵地が整っています。計画的に造営された都市であったのです。四神相応とは星宿を動物に見立てる中国古代の思想に由来します。すなわち、天の四神の方角に相応した地上で最良の地勢のことで左(東)に流水(青竜)、右(西)に大道(白虎)、前(南)にくぼ地(朱雀)、後ろ(北)に丘陵(玄武)のあるものをいいます。景行天皇陵・崇神天皇の磯城瑞垣宮・箸墓(卑弥呼)・茅原大墓・石塚矢塚古墳・東田大塚古墳・天理西山古墳・崇神天皇陵・垂仁天皇陵などが整然と方位のなかに位置されています。また、「委奴」は「イト」とも読めます。倭の国王帥升は奴国の隣の伊都国の王と考えられています。そこで、金印は伊都の国王に与えたという説があります。(日本博学倶楽部『学び直す日本史古代編』二七頁)。その後継者の壱与(壹與、いよ。台与・臺與、とよ)も、二四八年に生口三〇人を魏へ献じています。この時代は倭国内に小規模な内戦が続いていました。『魏志倭人伝』に卑弥呼が登場する前に、「倭国の乱」が相攻伐し続けていたと書かれています。また、卑弥呼は狗奴国男王とは、もとから不和であり、倭の使者は帯方郡に交戦の状況を報告しています。 そして、漢直(東漢氏。やまとのあや)の渡来があります。『日本書紀』応神二十年九月条に「倭の漢直(東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類十七県を率て来帰り」とあり、多くの渡来人を引き連れて移住した記事があります。東文部(東漢氏)は応神天皇(在位二七〇~三一〇年)のときに、後漢霊帝の曾孫と伝える阿知使主(あちのおみ)の子孫で、大和に住んだのが東文部の忌寸部(いみきべ)です。「直」の姓が与えられています。その西側を「西」(山西)と書いて「カワチ」と読み大阪の方をいいます。西文部も同じ時代に朝鮮半島南部の百済から渡来した子孫で、王仁(わに)を始祖とする文筆専門の氏族として大和朝廷に仕えました。『新撰姓氏録』は後漢の霊帝の四世の孫とあります。河内に住んだのが西文部(かわちのふみ)の忌寸部になっています。「首」(おびと)の姓を与えられています。このヤマト(東)・カワチ(西)の文氏は、古代の渡来系氏族のことです。 |
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