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【卑弥呼――文身(刺青)】卑弥呼の時代の習俗は中国江南地方と類似しています。卑弥呼を知ることにより、日本の古代信仰の一端が見えると思います。注目したいことは、卑弥呼(二四八年頃)と道教の関係です。『魏志倭人伝』に卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道に事(つか)えて人々を惑わしていたという(「卑彌呼 事鬼道能惑衆」)一説があります。この鬼道について本居宣長は安永七(一七七八)年に、『馭戎概言』(ぎょじゅうがいげん)を著し、このなかに鬼道とは古神道と解釈しています。『魏志倭人伝』の著者である西晋の陳寿(二三三~二九七年)は、二八〇~二九七年の間に『魏志倭人伝』を記録してます。『魏志倭人伝』は中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第三〇巻「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の略称です。『三国志』は中国の後漢末期から、魏・呉・蜀の三国時代にかけて三国が争覇した時代(一八〇年頃二八〇年頃)の興亡史です。撰者は西晋の陳寿です。『三国史記』は、朝鮮の高麗一七代仁宗の命を受けて金富軾らが作成しました、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書です。朝鮮半島に現存する最古の歴史書です。日本の四世紀頃から七世紀頃を指します。それ以前に古朝鮮といわれる時代から三国と並行して、扶余・沃沮・伽耶・于山国・耽羅国などの小国や部族国家がありました。 陳寿が『魏志倭人伝』を編纂するにあたり『魏略』を参考としています。その『魏略』の中に「郡より女王国まで一万二千余里、其の風俗は男子大小となく皆鯨面文身(顔や身体に刺青)す、昔からその使いが中国に来ると自らを太伯の後という」、とあります。つまり倭国の人々は身体に刺青をし、自分たちは呉の太伯子孫と名のったのです。この太伯とは周王朝の嫡系ですが、権力争奪の国政に見切りをつけ南方に隠遁し、鈎呉と称して呉の開祖となります。孔子から「至徳」の聖人と仰がれた人物です。その死後千余年の間、王統が連綿として続いたというのが太伯伝説です。中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説があり、それが日本にも伝えられて林羅山などの儒学者に支持されました。徳川光圀がこれを嘆いて歴史書編纂を志したのが、『大日本史』執筆の動機だったといわれています。文中にある鯨面文身は江南地方の習俗であり、稲の伝来とともに刺青の習慣がもたらされたといいます。荘子によりますと、さきの越の人々の頭は断髪で、上半身は裸で刺青を施していたとあります。刺青というのは彫り物・文身・刺青・刺文・点青ともいわれます。この倭人の刺青は装飾のためではなく、一種の禁饜(きんえん)・符呪(呪い)を目的としたものといいます。この刺青が呉越の刺青と同一ですと、倭人の入れ墨も龍子のような文様であったと推定しています。また、『後漢書』(西南夷列伝)の哀牢夷という民俗の女性に淵源があり、雲南省から江南の住民と九州の倭人に見られるといいます。(鳥居龍蔵稿「倭人の文身と哀牢夷」『人類地理学』第三二巻三~六号所収)。海中へ潜り魚や鮑を捕る海人(海士)は成人も子供も顔と体に刺青をしたのは、もぐり漁のとき大魚や水鳥を寄せつけないためといいます。顔の刺青は共通しており、体の方は地域差があったといいます。アイヌや沖縄では二〇世紀まで風習が続き、アイヌの古語に「黒曜石の傷」という名が残っています。(奈良文化財研究所『日本の考古学』上。三九五頁)。『古事記』にある神武東征の中で、同行した久米族の刺青をみて畿内の人々が驚いたとあります。畿内には刺青の習慣がなかったことになります。神武東征が九州勢力の東遷としますと、邪馬台国九州説を裏付ける状況証拠となるといいます。『魏志』東夷伝をみると、朝鮮南部の韓族と倭人の文化的な共通点はなく、あるのは文身だけといいます。しかも馬韓で文身している人は稀で、辰韓・弁韓の地でも見られないことから、入れ墨は元来倭人の風習とみられます。倭国に近いところに住んでいる韓族が、倭人からその風習を受けたのではないかといいます。(『日本の古代』一三、依田千百子稿、三七九頁)。この三韓は一世紀から五世紀にかけての、朝鮮半島南部に住した種族とその地域をいいます。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓といい、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる、馬韓(百済)・弁韓(任那)・辰韓(新羅)に分かれます。南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ例があり、『日本書紀』もそれに倣っています。三世紀当時の韓族社会は整然と統一されておらず、村落共同体的な社会であったとされます。馬韓(百済)の民族と通交していたことがわかります。 【卑弥呼――鬼道】陳寿が卑弥呼の巫術を「鬼道」としたのは、中国の帳魯が創始した道教(五斗米道)を指していたといいます。「鬼道」という言葉は『三国志』の倭人条以外に、『魏志』張魯伝に二回、『蜀志』劉焉伝に一回触れています。ここに、張魯の祖父の張陵は巴蜀(はしょく。現在の四川省で巴は重慶、蜀は成都)の五斗米道の創始者であり、父の張衡と張魯はその後を継いでいたことや、盧氏の母は鬼道(巫術)に長けた美貌の持ち主であることが書かれています。つまり、卑弥呼の「鬼道」は張魯の道教に類似していたのです。あるいは、『史記』封禅書の文から、卑弥呼の「鬼道」は道教的なものではなく、越の俗人が信仰した「鬼神」であり、人々を惑わしていたというのは制御ということで、人々を治め操っていたとする説もあります。(『日本の古代』1、一五八頁)。ただ道教的信仰は二世紀末から三世紀前半の鏡に、東王夫・西王母を鋳した方格規矩鏡が、福岡県糸島市の井原鑓溝墓で出土していることから、道教の神仙思想に基づく信仰が日本に導入されていたのは事実です。また、卑弥呼が用いた鬼道の鬼は、朝鮮語でクイ(kui)と発音し、また曙光をピョックイ(pyotkui)とクイが同音であることから、光の意味の発音を吏読字で鬼と表現したといいます。ピョッ(pyot)は陽の意味で、クイ(kui)は銅のクリ(kuri)の発音からr音が脱落してクイとなります。金はクチ(kuti)と発音します。これは、祖語がクッ(kut)で語根がクル(kul)となります。つまり、鬼道の鬼の字義は黄金色に輝く光の存在や金や銅の輝きであり、朝日をピョックイ(曙光)という太陽信仰といいます。鬼道は明図(ミョンド)といわれる銅鏡と同じように、「光が導く」という意味になるといいます。明図の図は道や導と同音で、明図は明りが導くという意味といいます。(荊の紀氏の日本古代史掲示板より)。 卑弥呼の宮居は「宮室楼観城柵厳設」とあり、「楼観」とは中国の高所重層の建物であり、多くは道観であったといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』一二頁)。また、城柵の柵は木で作られた垣のことで、これは扶余や朝鮮古代三世紀頃の辰韓(四世紀に新羅 が成立)に見える木を並べて造った城柵と同じで、中国のような土で築き固めた城壁とは違います。さらに、鬼道は鬼神信仰をした墨子の移入信仰であったといいます。禊ぎの儀礼においても、『霊基経』の祭法に齋戒沐浴が説かれており、邪馬台国の禊ぎと関連するといいます。占いにおいても『日本書紀』(神代下)に見られる太占(ふとまに)の法を行っていました。太占は獣骨(主に鹿)を用いた卜占のひとつで、鹿の骨を用いることから鹿占(しかうら)ともいいます。朝鮮における主な骨占いは鹿の骨が用いられています。『魏志』夫余伝に、戦争のような大事があるときは、牛の蹄をもって占いをしたとあります。中国では江南地方からの卜骨の出土がないので、、朝鮮の鹿の肩胛骨占いは北方系であるとみられ、それが日本に移入したといわれます。『魏志倭人伝』の骨を灼いて卜すのは『記紀』の布刀磨爾にあたるといい、日本での鹿の肩胛骨占いは、中国系の亀卜が流入する以前に、朝鮮半島からもたらされたといいます。(『日本の古代』一三、依田千百子稿、三八一頁)。この鹿の肩胛骨を焼いて占う職種は中臣氏が行っており、祖神の天児屋命の掌るところとされます。これは、藤原氏の氏神である春日社に鹿が飼われているのと関連します。広鋒銅矛・銅戈・平形銅剣についても、鬼祓いや魔除けのための道教の霊具であったとします。矛は両刃の剣に長い柄をつけた刺突用の武器ですが、儀仗・祭祀 にも用いられていたといいます。中臣氏の祝詞のなかに戈の字が書かれています。(重松明久著『古代国家と道教』八四頁)。卑弥呼に下賜された鏡(景初三年の銅鏡一〇〇面)は魏鏡といわれます。日本の古墳に埋葬されている三角縁神獣鏡は、ほとんどが二一㌢前後の大型鏡です。漢鏡は直径が一四~一二㌢の中型鏡のものが多く、主に化粧用に使用されています。日本の弥生後期になりますと、八~五㌢ほどの小型鏡が造られるようになります。つまり、卑弥呼の魏鏡は化粧具としての中型鏡の可能性が強くなります。三角縁神獣鏡は現在、三七〇枚を超えて発見されています。内訳は奈良県から八〇枚、京都から五六枚、兵庫県から三九枚、大阪から二二枚、畿内から一九七枚発見されています。卑弥呼の時代以後の鏡もあり、別なルートから移入されていたことになります。邪馬台国以外にも三角縁神獣鏡を下賜される国があったと思われます。 中国からタイにかけて分布するミャオ族は、天上・地上・地下の三界から宇宙が成っており、地上界と天上界は山頂から伸びた十二段の梯子により連結されていて、ここを通れるのはシャーマン・祭司のみであるとします。韓国のシャーマンは巫堂(ムーダン)で祭祀します。巫堂の正面上段に巫神図を掲げ、明図といわれる銅鏡を置きます。巫神図の最上層の神々は天神・七星神・山神で、この神々と銅鏡が神体とされます。日本の天照大神も鏡を神体としているところに共通性が見られます。歴史言語学者の加治木義博氏は、卑弥呼を魏の時代の発音で読むとphemyergo(ピェミャルゴ)と発音したといいます。マレー語ではピェーミェルは政府という意味で、ペーメーロクは保護者を表します。アイヌ語でもピミクは、「解き告げ吠え」神託を下す人を意味するといいます。素語理論学者の野村玄良氏は、奈良時代以前は乙類読みで「fimikwo・ヒミクォ」と発音していたといいます。奈良時代の真仮名読みで、卑弥呼を「ヒミコ・fimiko」と読むのは誤りとします(甲類読み)。奈良時代の卑彌呼の学的に正しい読み方は、万葉仮名・真仮名読みで「ヒミヲ・fimiwo」とします。巫術などの日本のシャーマニズムには脱魂と憑依があり、機能的には憑依のほうが強いといいます。字義からも卑弥呼は女性シャーマンの代表といえましょう。(『神道史大辞典』四六八頁)。「日の御子」「姫児」とする説や、卑弥呼は地位を示す称号とする説があります。(日本博学倶楽部『学び直す日本史古代編』三一頁)。卑弥呼は二四七年ころに没し、殯宮をへて二五〇年ころに、前方後円墳の起点となる箸墓古墳に埋葬されたといいます。この地は古代の出雲荘になります。(小川光三著『ヤマト古代祭祀の謎』一三四頁)。二〇一三年六月二一日に、邪馬台国説のある纒向遺跡が国の史跡に指定することになりました。邪馬台(ヤマタイ)国の読みを「ヤマト国」とする説もあります。(三浦祐之氏)。 そして、倭国統合の第三段階に入ります。卑弥呼の没後に男王が立ったところ、国中が服さず殺戮の権力争いが続きました。そこで、卑弥呼の一族から十三歳の宗女壱与(台与。二三五~?)が女王となり、戦乱を治め統治します。壱与は魏から晋に代わった、武帝の即位直後の二六六年に西晋に朝貢します。そして、南朝(建康に都を置いた宋・斉・梁・陳の四王朝)にも通交を重ねましたが、五世紀になると倭国の消息は中国の文献から消えます。中国の史書『晋書』安帝には、先の二六六年に倭国の記事があり、その後は五世紀の初めの四一三年に、東晋に倭国が献貢したことが記されているのみで、この間の記録は中国の史書にはありません。邪馬台国は歴史上の記録から消えます。水野裕氏はこの時期に、狗奴国により征服されたとのべます。大和には原大和国家という崇神天皇の王朝が存在したとのべます。そして、仲哀天皇のとき九州に遠征しますが、逆に狗奴国が大和に攻め込み、崇神王朝を滅ぼし大和を掌握したとします。これは邪馬台国論争ですが、九州や吉備・出雲。そして、畿内にも勢力があったと思われます。考古学的文字記録がないことから、謎の四世紀と呼ばれています。また、壱与墓とされる西殿塚古墳と同じ時期に、茶臼山古墳が築造されています。茶臼山古墳は三角縁神獣鏡から二七〇年代に男性が埋葬されています。壱与は倭国王としても実権を握っていた執政者がいたことになります。(『史跡で読む日本の歴史』2、岸本直文編。二四頁)。高句麗は南北両朝に遣使していましたが、北朝との通交頻度が高まります。百済・新羅も六世紀後半には北朝に通交するようになります。また、太宰府は百済の都城ともっとも近似しています。太宰府を中心として水域や大野城、椽城の山城を築く構造と百済王都との相似は、日本へ亡命した百済人たちによって指導されたといいます。(『日本の古代』9、岸俊男稿、五七頁)。 |
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