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壱与のころ西晋(二六五~三一六年)は呉を滅ぼし天下を統一しますが、高句麗が楽波郡を滅ぼし(三一三年)、その三年後に西晋も亡びます。華北は五胡に占領され闘争が続きます。倭国は前漢以来の友好国であった華北の中国と、その出先機関であった楽浪郡との国交を失います。そして、その後のヤマタイ国の史料も作製されませんでした。このころ朝鮮半島では東北アジア扶余系ツングース民俗の半農半牧民が台頭してきます。同じく騎馬民族である辰王朝の王家が弁韓(辰韓)に王国を創ります。この騎馬民族が倭国に侵入してきたというのが、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説(騎馬民族日本征服論)です。つまり、弁韓を基地として四世紀後半から五世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないし合作して大和朝廷を立てたという説です。また、このような情勢を目前とした北九州のヤマタイ国は、新天地を求めて東遷したと考えるのが自然であるとヤマタイ国東遷説をのべます。大和朝廷の起源をヤマタイ国の東遷と考えるのです。(『日本の古代』別巻、江上波夫稿、七八頁)。しかし、騎馬民族の征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化の契機は十分に説明が可能であるとする説もあります。高句麗の好太王(三七四~四一二年)碑文によりますと、倭は百済と結んで高句麗と戦い新羅を戦犯したとあります。中国の『宋書』に倭王は百済経由で中国と交渉をもったが、高句麗が倭国の朝貢路を封鎖したため、高句麗との戦争を計画したと伝えています。倭高句麗戦争は三九一年から四八〇年まで続きます。中国の南北朝から唐にかけては、道教が最も興隆した時代期です。葛洪・陶弘景・司馬承禎などの、神仙道教の巨匠が輩出します。四世紀の南北朝期のころまでに発展した、教理・儀礼・道観(寺院)などの仕組みは、複雑に進展します。完全に把握することは難しいとされます。道教が本格的に伝えらえたのは、三~四世紀ころの百済を主とし高句麗からも伝わります。新羅からは山岳崇拝を主とする、地神信仰が伝わったといいます。この新羅系の信仰が浸透しているのは出雲から北陸一帯といわれ、白山は太白山・小白山の山名を導入しているといいます。(重松明久著『古代国家と道教』四一七頁)。換言しますと、日本の信仰や風習は渡来人のルーツを知る手がかりとなります。 允恭天皇三(四一四)年に天皇の病気治癒のため、新羅から金波鎮漢紀武という良医が召されています。このときに初めて医学が日本にもたらされ、薬物も入ってきたといいます。同じく四二(四五三)年にも「種々の楽人」が渡来したと記しています。雄略天皇三(四五九)年に高麗の医師徳来が日本へ渡り難波に住み着きます。これが難波の薬師(くすし)の始まりです。雄略天皇が四七九年に没してから、清寧(~四八四年)・顕宗(四八七年)・仁賢(~四九八年)・武烈天皇(~五〇六年)と、短命の天皇が続きます。武烈天皇は跡継ぎを残さなかったので、大伴金村や物部麁鹿火は第二六代継体天皇を擁立しました。継体天皇は応神天皇の五世孫にあたり息長氏の出身です。五一三年に百済からの加耶四県割譲の要求を受け入れ、五二七年に磐井の乱が起きます。任那へ援軍に向かう朝廷軍と、筑紫の豪族磐井氏との乱(内戦)です。磐井氏は九州や長門・石見・周防あたりまでを支配していた、大和朝廷に服属していない勢力とみられています。古代最大の内戦ともいいます。これにより、朝鮮の利権は失いますが、内政においては支配力を強化しました。百済は新羅と同盟を結び、第二六代百済王・聖明王(ソンワン。在位五二三~五五四年)の治世中の五三八年に平地の泗沘(サビ)へ遷都し、国号を南扶餘(ナムブヨ)とします。これ以降を泗沘都邑期(サビドウプギ)といい、六六〇年に百済が滅亡するまでの首都は泗沘城のままでした。日本に仏教を伝えたのは聖王といわれており、強い同盟関係にありました。高句麗に仏教が伝わったのは小獣林王二(三七二)年といわれ、このときから朝鮮に道教が入ったといいます。大同七(五四一)年に毛誌博士や工匠画師を招請しています。仏教と道教が同時に入り、仏教と道教が習合した例もあります。(上田正昭稿「古代信仰と道教」『道教と古代の天皇制』所収八九頁)。五四八年に聖明王は新羅の侵略により援軍を求めます。日本へ「易」が百済から伝えられたのは第二九代欽明天皇の一四(五五三)年といいます。易も道教に起源を持つ占術で、陰陽五行・十干十二支・二十四節気などの、暦に関することも道教の影響を受けています。これは、のちに陰陽道・修験道に吸収され、日の吉凶や方位の吉凶を判断する干支・六曜・二十八宿などの根拠となっていきます。(宮家準著『修験道儀礼の研究』二四五頁)。この易や陰陽道については後述します。 欽明天皇一五(五五四)年に、百済から五経博士、僧、易博士、暦博士、医博士や採薬師の潘量豊・丁有陀、楽人の施徳三斤・季徳己麻次・季徳進奴・対徳進陀たちが来朝しています。日本に入った道教の証拠として、聖徳太子の伊予の湯の碑文(五六九年)に、「寿国」という語句があります。聖徳太子の国書は隋と対等の立場から出されたので、隋は不満ではありましたが、北魏と対立していたので和睦を装いました。また、静岡県の伊場遺跡や東北の多賀城から、「急々如律令」の道教の呪文が書かれた木簡が発見されています。「急々如律令」の呪文は魏・晋時代より道教の呪符にあります。これは魔除けに用いるもので、捷疾鬼(夜叉)のように敏捷に叶えることを意味しています。また、「急如律令」は漢代の公文書の用語で、意味は律令のように至急にせよということで、神がかりの状態で神託を告げる巫者の呪文となりました。このような呪文や太刀・杖刀を用いて邪気・獣類を制圧して害を退けることを、呪禁(じゅごん)といい道教の道術になります。『日本書紀』に呪禁のことがでており、病気治療として用いられています。日本の律令制にも典薬寮に呪禁博士・呪禁師が設置されています。 蘇我・物部氏は五四八年いらい仏教受容の対立がありました。両者の権力争いは古く、磐井の乱において敗退した物部・大伴氏は勢力が弱まり、蘇我馬子が外交などの権力を強めます。とくに、渡来人を統率する力に優れ、渡来人の手工業技術や律令制度を取り入れ、飛鳥を開拓し屯倉経営などで財力を蓄えました。両者の対立は仏教だけではなく、外交と内政の権力争いです。五八五年に崩御した敏達天皇の殯の場においても対立し、用命天皇の大王位継承にも対立し、五八七年に決着がつき蘇我氏の勝利となります。天皇家や氏族の背景勢力により勝利した蘇我氏は高句麗系(新羅説もある)といわれ、敗北した物部氏は百済系といいます。物部氏の武器庫であった石上神宮から六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝わった七枝剣があります。中国・百済、渡来年代に三七二年、四六八年などの説があります。両者は違う外交ルートをもっていたのです。この勝敗は新羅が半島を統一するのと軌を一にしています。蘇我氏が建てた飛鳥寺の建築様式は、高句麗的であるといわれ、百済の王興寺の軒丸瓦と類似しているといわれます。王興寺は五七七年に建立されており、同じ技術をもった棟梁が建立したともいいます。飛鳥寺の本尊は飛鳥大仏と称される釈迦如来です。蘇我氏はここを国家的な拠点としたのは、渡来人の信仰の場として統率・定着を図ったのです。日本においては大きな節目となりました。日蓮聖人は『四条金吾殿御返事』に 「第三十二代用明天皇治二年欽明の太子聖徳太子の父也。治二年丁未四月に天皇疫病あり。皇勅云欲帰三宝云云。蘇我大臣可随詔遂引法師入於内裏。豊国法師是也。物部守屋大連等大に瞋り、横に睨云天皇厭魅と終に皇隠させ給五月に物部守屋が一族、渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押寄てたゝかう。五月六月七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。第四度め(目)に太子願を立て云、釈迦如来の御舎利塔を立て四天王寺を建立せんと。馬子願云、百済より所渡釈迦仏を寺を立てて崇重すべしと云云。弓削なの(名乗)て云、此は我放つ矢にはあらず。我先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なりと。此矢はるかに飛で太子の鎧に中る。太子なのる。此は我が放つ矢にはあらず、四天王の放給矢なりとて、迹見赤梼と申舎人にいさせ給へば、矢はるかに飛で守屋が胸に中りぬ。はたのかはかつ(秦川勝)をちあひて頚をとる。此合戦は用明崩御崇峻未即位給其中間也。第三十三崇峻天皇位につき給。太子は四天王寺を建立す。此釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申寺を建立して、百済国よりわたりて候し教主釈尊を崇重す」(一三八〇頁) 聖徳太子(五七四~六二二年)は誓願を果たすため、四天王寺を建立し(五九三年)医療制度を確立します。日本は朝鮮半島との交流を頻繁に行い、日本に渡来して定住した人達もいました。北魏と南朝の時代には南朝から渡来していました。隋(五八一~六一八年)の文帝は、五八九年に陳を滅ぼして中国の統一を達成します。倭国は南北朝を統一した随と国交が始まります。五九二年に崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されます。天皇が暗殺された記録は崇峻天皇だけのことです。朝鮮との外交の間隙を突いてのことでした。『日本書紀』推古天皇の条に、隋が高句麗を攻め五九八年より四回にわたる遼東の役が起きています。煬帝(在位六〇四~六一八年)の高句麗遠征(六一二~三年)時代も、日本は遣隋使を派遣して中国の文化を吸収しています。また仏教を取り入れていた時期なので、朝鮮の三国とも仏教を通じて親交されています。すなわち、推古八(六〇〇)年に始めて使者を派遣し、『隋書』倭国伝の大業三(六〇七)年条や、『日本書紀』推古一六(六〇八)年九月辛巳条に見えます。仏教を伝来することは建築・工芸など国際化をはかったのです。同年に大和朝廷は任那復興のため大軍を新羅に送り新羅王を降伏させ、以後毎年任那の調を貢進することを約束させます。推古朝の外交は隋への使者の派遣と、新羅への遠征という和戦両面で開始されます。推古一五(六〇七)年、『日本書紀』が記す第一回の遣隋使(実は二回目)として小野妹子らが派遣されました。第三三代推古天皇の一〇(六〇二)年に、ふたたび百済から僧観勒によって呪法・修法が伝えられ、「遁甲方術」の書がもたらされます。推古天皇は書生の陽胡史祖王陣に「歴法」、大友村主高聡に「天文遁甲」、山背臣日並立に「弓術」などの遁甲方術を観勒から学ばせています。その結果、推古天皇の一二(六〇四)年が、上元の甲子一白にあたっているのを期して暦日が制定されたといいます。また、聖徳太子が憲法十七条を制定した条文に、易経に学んだと思われる句があるといいます。(服部龍太郎著『易と呪術』一二一頁)。隋との外交は優れた能力が求められ、豪族から官僚組織へ移行しました。 六一二年に百済の味摩之が伎楽の舞を伝えます。伎楽は無言の仮面音楽劇で、この伎楽面は役柄に応じて、治道、獅子、獅子児、呉王(呉公)、金剛、迦楼羅、呉女、崑崙、力士、波羅門、大孤父、大孤児、酔胡王、酔胡従の一四種類があります。川原寺や橘寺などの諸大寺にて演じられました。注目されるのは伎楽に使用された楽器は、立部といって野外用のものといいます。正倉院にある撃鼓は高い音と低い音がでます。舞楽のように大きな音を立てる演奏であったといいます。つまり、極端に高い音と低い音は天地に響かせる音といえるのです。(『雅楽』別冊太陽一七頁)。四天王寺に奉仕した四楽家は、聖徳太子の時代に渡来して伶人町近辺に住んだと思われ、東儀・林・薗・岡氏たちは秦河勝の子孫です。舞楽に使用される装束などは平安時代に整えられますが、応永一五(一四〇八)年に山科教言が模写させた絵巻には、伝統的な舞楽装束や面、持ち物、舞いが描かれています。そのなかの崑崙八仙(ころばせ)は、道教の崑崙山の八仙の故事を伝えます。未開部族を崑崙奴(こんろんど)と呼ぶのは、崑崙(Kūnlún)の発音からクルド人という説が正しいと思われます。また、崑崙八仙の袍に鯉の文様が描かれ、面は鶴を象るように神仙思想が隠されています。民族芸能には古代の道教と古神道、それに仏教が加わった民族信仰がうかがえます。現在の五節舞や四方拜相舞などに、日本古来の儀式儀礼が温存されていると思います。神亀六(六二九)年の長屋王の変は、厭魅・蠱毒という道術を使って呪詛したといいます。厭魅とは人形を作ってそれを呪うべき相手に見立てて責め相手を呪い殺す呪術です。蠱毒(こどく)とは虫を使った呪術のことです。この道術を取り入れて占いなどを行っていたのは陰陽道です。陰陽師が呪禁などによる多種の祈願をする役目をもちます。『源氏物語』に鉄の人形を用いて「陰陽師召して祓へさせ給ふ」という例がみえます。(福永光司著『道教と古代日本』一三四頁)。この頃の大事件として、六四五年に大化の改新が起きます。大化の改新の最大の目的は、天皇中心の中央集権国家の建設でした。そのために仏教受容に貢献した蘇我親子が敗退します。日蓮聖人はその理由を増慢とのべています。『四条金吾殿御返事』に、 「物部と守屋とを失し故に、只一門になりて位もあがり、国をも知行し、一門も繁昌せし故に、高拳をなして崇峻天皇を失たてまつり、王子を多殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇中臣鎌子が計として、教主釈尊を造奉てあながちに申せしかば、入鹿の臣並に父等の一族一時に滅ぬ」(一三八三頁) と、蘇我一門が権力を持ちすぎ、崇峻天皇を害したことを批判します。日蓮聖人は八幡大菩薩の百王守護の誓願を尊重していますので、ことさらに許容できなかったのです。しかし、崇峻天皇と蘇我氏との確執について、聖徳太子の故事を引いて『四条金吾殿御返事』にのべます。 「第一秘蔵の物語あり。書てまいらせん。日本始て国王二人、人に殺され給。其一人は崇峻天皇也。此王は欽明天皇の御太子、聖徳太子の伯父也。人王第三十三代の皇にてをはせしが聖徳太子を召て勅宣下。汝は聖智の者と聞く。朕を相してまいらせよと云云。太子三度まで辞退申させ給しかども、頻の勅宣なれば止がたくして、敬て相しまいらせ給。君は人に殺され給べき相ましますと。王の御気色かはらせ給て、なにと云証拠を以て此事を信ずべき。太子申させ給はく、御眼に赤き筋とをりて候。人にあだまるゝ相也。皇帝勅宣を重て下し、いかにしてか此難を脱ん。太子云、免脱がたし。但五常と申つはもの(兵)あり。此を身に離し給ずば害を脱給はん。此つはものをば内典には忍波羅蜜と申て、六波羅蜜の其一也と[云云]。且は此を持給てをはせしが、やゝもすれば腹あしき王にて是を破せ給き。有時、人猪の子をまいらせたりしかば、かうがい(笄刀)をぬきて猪の子の眼をづぶづぶとさゝせ給て、いつか(何日)にくし(憎)と思やつ(奴)をかくせんと仰ありしかば、太子其座にをはせしが、あらあさましや、あさましや、君は一定人にあだまれ給なん。此御言は身を害する剣なりとて、太子多の財を取寄せて、御前に此言を聞し者に御ひきで物ありしかども、或人蘇我大臣馬子と申せし人に語りしかば、馬子我事なりとて東漢直駒・直磐井と申者子をかたらひて王を害しまいらせつ。されば王位の身なれども、思事をばたやすく申ぬぞ」(一三九六頁) と、聖徳太子が崇峻天皇の行為を諫めたように、王位にある者であっても、その人格のあり方に言及しています。同書に中国の道士である褚善信、費叔才の名前があげられており、この道士が「鬼神」を呼んで仏教に対抗したとのべています。そして、物部守屋などがこの道教の神祇を信用していたとみています。道教の信仰が日本に存在していたことがわかります。 この道教寺院は明日香村に宮都があった、七世紀ころに建てられたといいます。第三七代斉明天皇(五九四~六六一年)は女性天皇で道教に傾倒しており、多武峰に道教の寺院である「天宮」(あまつみや)、別名の「ふたつきみや」を築きます。『日本書紀』の斉明二(六五六)年の条に、「田身(たむ)の嶺に周れる垣を冠らしめ、また嶺の上の両(ふた)つの槻(つき)の樹の辺に観(たかどの)を起て、号(なづ)けて両槻宮とす。亦、天つ宮と日う」とあります。この宮を「観」「天宮」と表現しています。観は道観であり天宮は仙人の住む天上の宮のことです。つまり、この両槻宮(観)は道観であり道教寺院のことでなのです。吉野が道教の神仙境に擬えることから、吉野宮も天宮も道観であったといいます。聖なる神仙境として離宮を建てたのです。また、近くの宇陀から東吉野にかけては水銀の産地であり、吉野でも水銀朱が採れました。水銀朱を加熱すれば水銀ができます。水銀朱は不老長寿の薬とされ聖なる水とされます。水銀朱の混ざった水を飲むことで若さが保たれるといわれたのです。槻の木はふつうは欅とされます。朝鮮で欅は神木として、また、共同体の集まる場所に植えられることが多いといいます。(朴福美稿「植物名に探す朝鮮語の影響―榎―」『高崎経済大学論集』第四四巻第二号一六四頁)。これは、朝鮮半島における聖樹信仰に関係するといい、日本でも聖樹として神聖視されました。欅は伐採してから五〇年は生きているといわれます。同心円的に並ぶ単列の道管がきれいな木目になって表れ、質は堅硬で耐温・耐久性に優れることから、古来神社の山車・御輿、仏閣そのほか、大家高楼の門柱・門扉や大黒柱・梁、船舶の梁・竜骨・船首尾などに用いられています。赤坂の迎賓館の床は欅の寄せ木が基本になっていました。万葉人は欅を神木と崇めかつその紅葉を賞でていました。大化の改新の前に中大兄皇子と中臣鎌足は、法興寺(飛鳥寺)の「槻」の木の下で出合ったといいます。第三六代孝徳天皇は即位して直ぐに、第三五代皇極天皇(在位六四二~六四五年)や皇祖母尊、皇太子の中大兄皇子などの群臣を集め、大槻の樹の下で天皇に随従することを盟曰(うけい)させます。つまり、この固い約束を槻の木の下で行うことに意義があるのです。槻の木(欅)は一種の神木として受けとめていたことがうかがえます。孝徳天皇の没後に皇極天皇が重祚し、第三七代の斉明天皇(天豊財重日足姫。重祚六五五年~六六一年)となります。大化元年六月一二日の乙巳の変にて、蘇我入鹿が暗殺されたのを眼前に見た天皇です。この事件の二日後に退位しています。重祚した斉明天皇は田身(多武峯)の周りに垣を築くという大工事を行います。香久山の西から石上山まで約一二㌔になる渠(運河)を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を載せ、水の流れに従って引き、宮の東の山に石を積み垣とします。天理市の豊田あたりから、「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)と呼ばれた運河を使って石を運んだといいます。つまり、多武峯を中心に石垣を張りつめ建造しますが、人々は「たわむれ心の溝工事である。人夫を三万余も無駄に費やした。垣造りの人夫の無駄は七万余で、宮材は腐り山頂は埋もれた。石の山岡を造っても造った端からこわれるだろう」と激怒したとあります。道教の影響として、頂上の二本の槻の木のそばに高殿(両槻宮)を建てたのです。神仙思想からみますと神仙に会うために楼観を築きます。高いところに神仙が来るという思想があったからです。(『史記』『漢書』)崑崙山は神仙世界のシンボルであり、三神山も不老不死の神仙世界と信じられていました。この宮の遺構が明日香村岡の謎の石造物といわれる酒船石遺跡です。平成十一年十一月からの発掘調査で大規模な石垣の遺構の一部が見つかり、さらに、平成一二年に亀型の石造物(新亀石)や、それに向けて水を流す楕円形水槽・小判形石槽が出土しました。近くには須弥山仙石などが出土した石神遺跡があります。これも前述したように道教の思想によるものです。 平成三年に大阪市住吉区の桑津遺跡の井戸跡から出土した呪符木簡(長さ二二㌢、幅四㌢)は、七世紀前半のもので、表に七つの日の字をТ字形に並べ人名や祈願(病気封じ)などが書かれてます。平成五年に橿原市の藤原京跡で、「鬼 急々如律令」の上に日の字を上下に四つ三列に一二個並べて書いた木簡が出土しています。長さ二四㌢幅四.五㌢の檜に墨書されています。平成七年にも同じ藤原京で道教の星座の羅堰九星(らえん)の図形がある木簡が出土し、これは治水の祭祀に用いたといいます。これらは道教信仰の道具でした。また、物忌札というものも出土しています。元興寺の極楽坊で発見された物忌札には、上から下に「九九八十二」と、その左に下から上に逆さまに「八九七十二」と書かれています。これは道教の九官八十一神と八卦七十二星神を意味し、除災招福を訴えるものであり、その下に「急々如律令」と速やかに叶うようにと書かれています。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』二二五頁)。七世紀の後半には、これら大陸からの諸法が日本に広まっていました。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三五〇頁)。さらに、遣唐使などを通じて道教が入ってきました。今も田舎で行われる庚申さんの神事や五月の端午の節句などは道教由来のものです。ただ寺に当たる道観や僧に当たる道士は存在したことはありません。古代日本には道教思想を日本に入れないという、なんらかの宗教政策があったと結論づける見方があります。(礪波護著『隋唐の仏教と国家』)。七世紀の前半に高句麗に五斗米道の教団(天師道)は入っていました。『三国史記』「高句麗本紀」の栄留王七(六二四)年の記事や中国の『冊封元亀』にみられます。考古学のほうの遺跡として高崎綿貫観音山古墳の鏡は、百済武寧王の古墳の獣帯鏡と同型ですので、六世紀前半のものが日本にあるということです。つまり、朝鮮(百済)にもそれ以前に道教の教典が入っていたことになります。成立道教が日本に受け入れられなかった理由に天皇制があるといいます。仙人思想により確立された天皇制を覆すことになるという理由で、日本人は受け入れなかったといいます。また、唐王朝は道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に道教の受け入れを求めた時に、日本側は天照大神の子孫とされる天皇を中心とする支配体制であるため拒否したともいいます。(榎本淳一稿「遣唐使と通訳」『唐王朝と古代日本』)。 第四一代持統天皇は六九一年の一二月の条に、呪禁博士木素丁武に銀を賜与したとあります。道呪の占いや修法の効験に与えたと思われ、六九二年五月に藤原京の地鎮祭を行っています。持統天皇七(六九三)年正月一六日の条に、「是の日に漢人(あやひと)等、蹈奏(あられはしりつかえまつ)る」と記録があります。渡来の中国人が奏し、それを見倣った舞いや踊りをします。歌の終わりに「万年(よろずよ)あられ」と唱えたため、「蹈走(あらればし)り」ともいいます。これは古代中国の踏歌(とうか)といいます。これが日本の宮廷文化に採り入れられた正月一四、一六日に行われた宮廷行事です。このような習俗は江南に見られます。足で地を踏み鳴らし、調子をとって祝歌を集団で歌舞するもので、中国の民間行事が日本固有の歌垣と結びついたものです。大極殿、清涼殿に天皇が出御し、一四(一五)日が男踏歌、一六日が女踏歌と分かれ、宮廷の踏歌節会となりました。天皇の長久と、その年の豊穣を祈るのを目的とします。この踏歌の起源は地霊を踏み起こす鎮魂のモチーフがあるといいます。つまり、道教の反閇にあたります。土地の悪霊を踏み鎮め、良き精霊をふるい立たせるという反閇儀礼に通ずるといいます。この踏歌は宮廷において衣冠を正して行うものではありません。元来は大地に萌え出た春の青草を踏んで歌舞・飲食する民俗的な野遊びの行事に発し、唐代には一月だけではなく二月一五日(花朝)や三月三日(上巳)などにおいても、踏青と呼ばれて催されていたといいます。(『日本の古代』一一、江守五夫稿、一五五頁)。 宮中御神楽の神楽歌「韓神」には、「三島木綿(ゆう)肩にかけ われ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや」、とあり、さらに、「八葉盤(やひろで)を手にとりもちて われ韓神の 韓招ぎせむや」、とあります。この「韓招ぎ」は「韓神をおまねきしよう」という意味とされています。「韓招ぎ」とは「韓風(からぶり)のお招きをしよう」と解釈するのがよいともいいます。平安京 宮内省に韓神社があり、宮廷祭儀にあたっては園韓神祭は重視されていました。園韓神祭(そのからかみのまつり)とは、宮内省内にまつられていた園神と韓神との祭りで、平安京造営以前よりこの地にあり、帝王を守らんとの神託により祭祀されてきました。韓神は『古事記』上巻には大年神の子とありますが、園神は大物主神、韓神は大己貴神と少彦名神の二神で、これらの神は疫病から守る神といわれます。この韓神の祭りは天平神護元(七六五)年以前になされており、韓神の奉斉は秦氏と密接な脈絡をもっていました。三島神は百済から渡来したもので、伊予の三島神の由来に伝えています。(『日本の古代』一三、上田正昭稿、二二二頁)。 このように、古代に中国や朝鮮から渡来してきた人達は道教を慣習としていました。そして、日本の文化は中国や朝鮮の文化を吸収した飛鳥時代に基礎ができました。朝廷にも道教の影響がみられます。それは、大宝二(七〇二)年一二月二二日に持統天皇が亡くなり、殯宮が作られ大祓も中止されましたが、東西の文部の解除は例外として日常通りにしています。後述しますが、この祈願の呪文には道教の神々が並べられており、日本の神ではなく中国の神に祈っていることになります。古代日本に道教の信仰が入り、飛鳥・奈良・平安初期にかけて道教経典が流入します。道教が栄えた時代は唐代であり日本が積極的に大陸の文化を受け入れたときと重なります。とくに、唐代は王室の宗教として国教に近いものであったといいます。その理由は道教の始祖とされた老子(太上老君)が李姓で、王室も同じ李姓であったことによります。奈良時代から平安時代にかけて道教経典がもたらされたことは、『万葉集』の山上憶良による「沈痾自哀文」(巻五)、『古事記』の神話、『日本国見在書目録』などから推定できます。そして、道教は陰陽道の呪術などに進展し修験のなかにも大きく影響しています。 |
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