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◆第三節 日本神道と道教【倭国】古代中国の文献では、日本の国や人を「倭」と書きますが、倭は委(ゆだねる)に人が加わった字形で、音符の「委」は「なよなかな女性」を意味し、解字は「ゆだね従う」という意味があります。また、「委」は禾(粟の穂、米や麦に比べると低い)と女(なよなよした様)で、体の曲がった背の低い人という意味があり、矮(こびと)はこの解字となります。醜いとか、傴(せむし)という意味をもち、日本人を軽蔑して称したといいます。また、委は禾と女に従うことで、農耕儀礼のとき女が禾(稲魂)を被って低くしなやかに舞う姿といいます。(白川静著『字統』)。江戸前期の儒学者である木下順庵(一六二一~一六九九年)は、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたのべています。卑弥呼や邪馬台国と同じように、非佳字を使うことにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとする見解もあります。この倭の文字の意味がわかりますと、『続日本紀』天平九(七三七)年条に大倭国を大養徳国と改め、ついで、天平勝宝元(七四九)年以前に、大和(オオヤマト)に変えています。。平安期になり略してヤマトと呼ぶようになりました。日本史の文献で最初に名前が見える人物は、倭国王帥升(すいしょう。一〇七年頃)で「漢書」にあります。日本に関しては、太公望(呂尚)の周の時代(BC一〇四六頃~BC七七一年)に、既に中国大陸と交流があったことが後漢の王充の『論衡』(異虚篇第一八)に、「周時天下太平 倭人來獻鬯草」と記載されていることからわかります。つまり、文献資料を基にすると日本人は約三千年前には、海を渡り中国大陸と交流をしていたということです。『魏志倭人伝』にある奴国は福岡平野ともいいます。江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が、博多湾北部の志賀島の南端より発見されています。奴国の中枢と考えられているのが須玖岡本遺跡(春日市)で、そこからは紀元前一世紀の前漢鏡が出土しています。日本武尊が白鳥に姿を変え故郷の大和を訪れ、「倭は国のまほろば、たたなづく青垣、山こもれる倭しうるはし」と詠んでいます。もと「倭」と書いたのを第四三代元明天皇の時に、「倭」に通じる「和」の字に「大」の字を付けた「大和」を用いることが定められます。これは大和朝廷の勢力が安定したからです。大化の改新以前の大和は倭国・葛城国・都祁(闘鳥)国がありました。(小川光三著『ヤマト古代祭祀の謎』九九頁)。大和は太和とも書かれ、道教においては崇高な理念であり、『太上老君中経』や『雲笈七纖』によりますと、道の体得者としての真仙の呼び名であったことがわかります。(重松明久著『古代国家と道教』三九頁)。また、「青丹よし」の奈良の枕詞は、中国の『周髀算経』に天は青黒く地は黄色く赤いとあることから、天(青)と地(丹)を色で表したものです。天皇と紫色との関係も神仙道教と密接な関係をもちます。 さきに卑弥呼の鬼道にふれましたが、中国人が鬼道と表現しているのは、日本の古神道のことといい、その神道は中国や朝鮮などから流入し、その上に発展した日本固有の信仰と考えられています。あるいは、、中国からの渡来人が、そのまま自国の信仰を定着させたともいいます。そのなかには中国古来の民間信仰である道教も含まれます。つまり、日本の神道は道教の思想や祭儀形態を意図的に取り入れたのではなく、自然に日本人の風習となり、後に神道としてまとめられたことになります。(『神道史大辞典』五四三頁)。また、倭と呼ばれた時代の奈良盆地に古墳が築かれ始めます。中央の豪族である和珥・大伴・物部・葛城・蘇我氏たちは、勢力地域内に古墳を築きます。大和政権では倭の五王が南朝との通交を行います。これに従い河内に拠点が移動し、巨大な前方後円墳が築造されていきます。この時代は渡来人を受け入れて大陸の先進技術を吸収した時代です。韓鍛冶部・陶作部・錦織部・鞍作部が政権の下に組織されます。倭の五王は次の通りです。『宋書』の中国風の名前では、讃→珍→済→興→武。『記紀』の日本名は履中?→反正?→允恭→安康→雄略といわれます。この倭の時代に大陸から渡来した人々が、文化・信仰を移入したといえるのです。 『古事記』は一貫して「倭」を用いていますが、『日本書紀』は「倭」と「日本」の二つの用例があります。『古事記』は人名だけではなく全体を通じて「倭」を用いています。『日本書紀』の用例の違いに注目されます。『古事記』におけるヤマトは、音仮名では「夜麻登」、漢字では「倭」の一文字が原則となっています。このヤマトは三輪山の周辺に限られた一帯でした。しかし、勢力の拡大により広い地域を意識したときは「大倭」を用いています。天皇の諡号に含められた「大倭」の用い方はここにあるといい、『日本書紀』が「倭」を「日本」と改めていることからもうかがえます。(『日本の古代』1、岸俊男稿、三三四頁)。『古事記』による倭の用例は、三輪山を「倭の青垣の東の山」というように奈良盆地のヤマトを指す場合がほとんどといいます。『古事記』『日本書紀』と『万葉集』を中心に記載を比較しますと 初代神武 『古事記』 神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと) 『日本書紀』 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと) 四代懿徳 『古事記』 大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと) 『日本書紀』 大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと) 六代孝安 『古事記』 大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと) 『日本書紀』日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと) 七代孝霊 『古事記』)大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにのみこと) 『日本書紀』大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと) 九代開化 『古事記』若倭根子日子大毘々命( わかやまとねこひこおおびびのみこと) 『日本書紀』稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと) 一〇代崇神 『古事記』倭日子命(やまとひこのみこと) 『日本書紀』倭彦命(やまとひこのみこと) 一二代景行 『古事記』倭建命(倭男具那命)(やまとたけるのみこと) 『日本書紀』日本武尊(日本童男)(やまとたけるのみこと) 二二代清寧『古事記』白髪大倭根子命(しらがのおおやまとねこのみこと) 『日本書紀』白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと) 二六代継体妃『古事記』倭比売命(三尾君)(やまとひめのみこと) 『日本書紀』倭媛命(やまとひめ) ただし、『記紀』の天皇系譜が史実として信じられるのは応神天皇以後といいます。その理由は天皇の諡号・実名によります。一五代応神から二六代継体天皇まで二二代の清寧を除き、いずれも素朴な名称であり実名(尊称・通称)と考えるからです。二七代安閑以後の荘重な諡号は、大王死後の殯宮儀礼の場に於いて献呈されたもので、これは安閑天皇がその最初といいます。ただし、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八代の天皇は、事跡が伝わっていないため欠史八代といわれます。実在は否定され架空の天皇であり、その存在は神々であったといわれます。神武天皇は初代の天皇とされ、第一〇代崇神天皇は『古事記』に「所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)」、『日本書紀』に「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とその名が記されていて、皇統では第一〇代ですが「初國知らしし」天皇とあり、初代という性格をもっています。現代の学術的に実在が確実視されている最初の天皇といいます。(在位紀元前九七年~紀元前二九年)。この二人の天皇は同一人物という見方があります。『記紀』の記述は神武天皇には大和の統一について書かれ、崇神天皇には大和の他の地域を統一する過程を書いているといえます。また、神功皇后の子、第一五代応神天皇も、その名が従来の天皇のものとは異なっており、新しい王朝の始祖との説があります。一群の伝承に関係する王は、いずれも開闢王の性格を持っているといいます。(『日本の古代』一〇、田村克己稿、二九六頁)。 |
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