200.天皇大帝 高橋俊隆
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【天皇大帝】日本において最も道教の影響をうけたのは、大和の天皇家であり、その思想は日本神道に存続されていると思われます。中国古代の天皇(てんこう)は、紀元後六百年ころまで宇宙の最高神とされていました。「天皇大帝」の言葉が最初にみえるのは古代の讖緯の書です。これは、前三世紀ころ戦国時代から盛んになった占星術をもとに、陰陽五行と結びつけた思想です。この占星術では北極星が注目されます。それは不動の存在であるからです。そして、紀元三世紀ころに北極星が神格化して天皇大帝になります。道教には最高神として昊天上帝がありました。その後、老子の道教を神格化した元始天尊という最高神が出現します。ほかに、太上老君・玉皇大帝という最高神もあらわれます。唐代になり昊天上帝は東を治める神となります。 陰陽五行との関連は、星を祀る北辰信仰と、五気循環の五行の受容からわかります。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』五頁)。さらに、儒家の易の論理、道家の神仙思想、民間の呪術的(土俗的)な信仰からもうかがえます。讖緯書のなかに天皇大帝は宇宙の最高神となっています。その一つの『春秋緯合誠図』に、天皇大帝は北辰の星であり、紫宮中にいて四方を制御すると書かれています。紫宮は紫微垣のことで、古代中国において天球上を三区画に分けた三垣の中垣をさします。また、天の北極を中心とした広い天区や、その主体となった星官(星座)のことを指す場合もあります。紫微垣は天における中央の宮殿(中宮)を囲う藩垣(城壁)の形に象っており、その中枢には天の北極が位置しています。天帝の在所とされたことから転じて、皇宮・朝廷の異称となりました。「紫禁城」の「紫」もこれに基づいています。そこで、『淮南子』(天門訓)をみますと「紫宮は太一の居なり」とあります。つまり、、天皇大帝=北辰(北極星)=太一神=中宮大帝という図式がみえます。道教における最高神は六世紀の半ば以後は元始天尊として確立されますが、注目されるのは、それ以前においては、天皇大帝、単に天皇と呼ばれていたことです。そして、この、天皇大帝は『詩経』『書経』にみえる、昊天上帝と同一の神格であることです。この上帝は宇宙の最高神として、地上の帝王君主の政治を監視し、善悪に応じて賞罰・福禍を与えます。これを功過といいます。仏教の阿弥陀仏や弥勒菩薩の救済の思想に強い影響をうけて、道教も最高神として元始天尊を出現させたことに、時期的に対応することができるといいます。(福永光司著『道教思想史研究』四二六頁)。 日本の天皇号の成立時期に二説あります。津田左右吉氏は推古期(五九三〜六二八年)とします。渡辺茂・東野治之氏は飛鳥浄御原令において公式に規定されたとする、天武天皇一〇(六八一)年から持統天皇三(六八九)年とします。同じ頃、唐では高宗の上元元(六七四)年八月に皇帝を天皇改号しています。唐の高宗(六二八〜六八三年)が生前に天皇を名のり、死後は天皇大帝と謚名されています。高宗は熱心な道教信者であり、高宗の在位中に遣唐使が送られ、六度目の年は天武天皇三年にあたります。つまり、天武天皇は「壬申の乱」に勝利し、律令に基づく新たな中央集権国家の君主の称号として自ら名のったとします。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、四八頁)。それは、木簡の出土によって、六八二年頃には「皇子」の称号があったことから、天皇号が成立していたと推定しました。古代には倭国では首長のことを、大王「おおきみ」(治天下大王)、あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」と称していました。古くは「すべらぎ」(須米良伎)、「すめらぎ」(須賣良伎)、「すめろぎ」(須賣漏岐)、「すめらみこと」(須明樂美御コ)、「すめみまのみこと」(皇御孫命)などと称しました。五、六世紀の大和政権の王は「大王」と記され、「オオキミ」と呼ばれていたことは、当時の金石文から間違いないことで、大王から天皇に変えた意義は、君主の支配領域が拡大し、シャーマン的な王権を脱皮しあらたな権威を付すための称号といいます。埼玉(さきたま)古墳群内の稲荷山古墳から出土した一一五字の金象嵌の鉄剣銘文により、大王という称号は五世紀に成立したことが確実になりました。「辛亥年七月」は四七一年のことですから、この年にはヤマトの政権の王が大王と称されていたことがわかります。つまり、全国的な統一(的支配)国家の成立を象徴するといいます。その時期は天武・持統期で、大宝律令の成立によって帰結したといいます。口頭では「スメラミコト」と称すると『令集解』の諸説はつたえていることから、はじめにスメラミコトいう言葉が成立し、外交上、その言葉に天皇という字をあてたともいいます。また、濁りなき澄んだ高貴性と、明るき清き心をもって仕え奉れという、服従が要求された呼称といいます。(『日本の古代』一四.佐藤宗諄稿、一八頁)。古代中国においては、昊天上帝の命(天命)を受けて即位した皇帝は、常に神祭りを忠実に行う必要がありました。皇帝は昊天上帝から天命を受け、王朝を継続させるために祭祀を行います。日本の天皇は践祚即位式により天皇位につき、大嘗祭を行うことで神になったとされます。『延喜式』巻八にみえる「大殿祭の祝詞」は、聖武天皇ころに成立しますが、「スメラミコト」である天皇は、この現実世界の統治者であるばかりでなく、高天原の神々を支配する最高存在と認識するのです。(『日本の古代』一四、和田萃稿、二六九頁)。推古天皇の一五(六〇七年)に、天皇は法隆寺を建立し薬師如来を造立しました。その法隆寺金堂の薬師如来の光背に、「池辺明天天皇」とあるのが、天皇という漢語が使われた古例です。翌一六(六〇八)年に随に贈った国書に「東天皇敬白西皇帝」と書いたのは、中国ではすでに皇帝の称号は価値を失っていたので、かわりに北辰・北極星が君主に喩えられていることから「天皇」を用いました。しかし、天皇は「扶桑大帝東王公」であり、日神信仰(天照太神)をしている日本の国情に適した称号であったといいます。(飯島忠夫著『日本上古史論』六〇頁)。 また、天皇という称号のほかに、「真人」(しんじん)ともいいました。莊周の言行を書いた『荘子』のなかに、「道」の心理を体得した人を「真人」としています。天皇が神であるとする天皇神観は神仙の神に繋がります。(上田正昭稿「古代信仰と道教」『道教と古代の天皇制』所収七一頁)。つまり、「天皇」という称号も道教に由来するということです。「天皇大帝」とは北極星という意味であり、「尊」や「命」という神に対する尊称は、中国の古典のなかの道教経典にのみしか用いられていません。ほかに、「斎宮」「内宮」「外宮」「幣帛」(へいはく。みてぐら。にきて。ぬさ)などがあり、天皇によって行われている儀礼に、道教色が強くみられます。このことは日本古代の宗教文化が、古代朝鮮の百済と密接な関連をもつからです。この百済の宗教文化は中国六朝時代の斉梁の王朝の影響を受けています。『梁書』に何胤(四四六〜五三一年)が、南斉の王朝に天皇大帝の祀りを、円丘か南郊で行うかをのべている文があります。口語文によりますと、「私は昔、齊朝にあって二、三の条事を陳べようとしました。一つ目は郊丘を正さんと、二つ目は九鼎を新たに鑄さんと、三つ目は雙闕を建てんとするためです。代々伝えられてきたところでは、晉室を闕を立てようとしましたが、王丞相(東晉、王導)が牛頭山を指差して「これ天闕なり」と言ったそうで、未だ立闕の意を明らかにしていません。闕は象魏とも言います。縣象(天象)は上を法するものであり、浹日してこれを收めます。象とは法です。魏とは当塗にして高大な貌です。鼎は神器であり、國に先んじて有り、故に王孫滿(春秋・周)は斥言し、楚子は頓尽されました。圓丘と國郊は、旧典では同じとされていません。南郊は五帝靈威仰の類を祠する所であり、圓丘は天皇大帝、北極大星を祠する所です。往代、郊丘を同一としてしまったのは、先儒の巨失と言えます。今、梁徳の始まりを告げたばかりであり、前謬に拠ってはなりません。卿が闕を詣して、この事を陳べたいのですが」と、王華に意見をのべています。ここに、南郊で行うのは五帝靈威仰の祠りであり、円丘は道教の最高神である天皇大帝・北極大星を祠る所であるとのべています。また、東文忌寸部は百済からの渡来人であり、『延喜式』にある「東文忌寸部献横刀時呪」に、「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四氣、捧以銀人、請除禍災、捧以金刀、請延帝祚、 呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百國、精治萬歳、萬歳萬歳、」(日本古典文学大系『古事記祝詞』四二六頁)とあるように、昊天上帝を上位にして三極大君とつづきます。ここにも道教の神々が連なって勧請されています。このような道教の信仰は朝鮮から伝わったものも多く含まれますが、前述しましたように、基本的には中国にあります。仏教の経典も中国語で書かれた漢訳であり、朝鮮語に翻訳されたものではありません。水田稲作農耕や灌漑用水池を造る技術(班築法)や金属文化など、これらの原型は中国にたどり着きます。しかし、古代の大和で百済系の東漢氏たちは、蘇我氏や王氏と共に仏教を取り入れました。このことからしますと、道教の呪術的なものは土着信仰として、朝鮮人の生活に内在していたといえましょう。それがそのまま今日まで、慣習として日本に浸透しているのです。(福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡を歩く』二八四頁)。 |
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