201.高木神と神籬                      高橋俊隆

高木神と神籬

古神道は八世紀の前期ころまでの神道をいいます。古代のカミとは畏敬・畏怖される神秘なもので、皇室や大氏族の祀る神々も含まれます。神道は日本人の自然崇拝に淵源をもち、自然現象に精霊や神格を認めました。外来宗教の影響のもとに祭祀、思想、施設を整え、日本の民族宗教となったものです。この自然神と人間神に観念神として、生活に密着した身近な民間信仰としての神があります。この神のなかでも氏族の守り神である氏神を重要な神としてきました。(『神道史大辞典』五四〇頁)。自然の巨石・巨岩・巨木・優美な姿の山などに神が宿ると信じてきたからです。神事の祭祀の場としては神域と定められた聖地、あるいは、神を招請するため室内や庭にしめ縄を張って、臨時に聖地とした所があります。神は御座所である天上の高天原にいて、そこから降臨するとされました。その神々は依り代として盤座や樹木(巨樹・小枝)に宿るとされました。高木や小さな枝に依りつく例としては、加茂別雷神社(上加茂神社)の御阿礼神事があります。川辺においては水の神が祀られ、祈雨や止雨に奉幣されました。皇祖神とされている高御産霊神を高木神(こうもくかみ)といいます。コマ・クマとも読みます。高木神とは神体木(神籬ひもろぎ)の神格化といいます。大日靈貴(天照大神)はこの高木神に仕える巫女です。高木神を祖神としていたのは鴨族(賀茂)で、阿治須岐託彦根を祀り後に葛城に事代主神を祀ります。この鴨族を征服したのが葛城王朝です。葛城氏族には韓媛の名があり、朝鮮からの渡来人といわれます。高御産霊神を祀る高天神社があります。賀茂氏の神には葛城の鴨の神と、山城の鴨の神と二神あります。葛城地方の加茂神は神の寄り座(ま)す樹霊信仰で、朝鮮の鬼道の大樹神聖視の神祭です。つまり、高木神を祭祀してます。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二二三頁)。高木が転訛して葛城となったともいいます。また、葛城には出雲系の人が居住しており、高尾張邑を葛城にしたといいます。(国栖(葛)=葛寄=葛木=葛城)。(小川光三著『ヤマト古代祭祀の謎』一四六頁)。

神が降臨する場所には神聖な籬(まがき。垣根)が張り巡らされます。古代には周囲に常磐木を植え、聖なる樹木を神や精霊の依代、招代(おぎしろ)とします。また、自然石(磐座)を配備し、聖域を岩石などで囲む磐境(いわさか)などを神座とし神を招き奉って祭祀を行ないます。このような社殿などを伴わない場に、原初の姿があります。(『日本の古代』一三、上田正昭稿、一九六頁)。迎えた神が宿る依代の神域を、神籬(ひもろぎ・ひぼろぎ)といいました。「ひ」は神霊のことです。「もろ」は古語で天下ることを「あもる」といいます。「き」はそのまま木のことです。「ひもろぎ」とは神霊の天下る木、神の依り代となる木のことです。また、ヒは霊力の意。モロはモリ(森・杜)の古形、神が降下してくる所の意味もあります。また、異説に檜・榁(むろのき)・松などのように、待ち合わせの目印となる高木や、会う、群がる木を意味するともいいます。漢字の「籬」は垣根のことであり、「神籬」の本来の読み方は「かみがき」「みづがき」といいます。新羅が神宮の名をつけた年代は五〇〇~五一四年の頃で、その形は祖神廟であるといいます。神宮を創る前は巫の祠堂を宗廟としていました。「胙」「膰」「燔」にも「ひもろぎ」の字訓が宛てられますが、これらの元々の意味は神前に供える肉のことで、日本には神前に肉を供える習慣はなく中国の風習といえます。「ひもろぎ」と読まれたのは、神への供物を「ひもろぎ」と呼んでいた時期があったためといいます。神籬は古代朝鮮の熊(クマ)・宗(コマル)・神(コム・カミ)の地といいます。古代日本人は百済や新羅などを総称してコマ・クマの国と呼んでいました。つまり、朝鮮を神の国と呼んでいたのです。狛・駒・高麗・久麻・隅・熊・前、これらは神の表音文字といいます。ほかに、肥・米・巨摩なども用います。

祭とは古語の「まつらう」ことで、絶対的に服従することをいいます。これらは山や池、星などの民間信仰の特徴として前述しました。そのなかでも、日本には古来より太陽を崇拝する日神信仰がありました。この信仰を起源として皇祖神天照太神の観念がうみだされ、古代天皇観が形成されたといいます。大和国家の時代には中国から、天空・天上世界・天地万物の造化・主祭神・守護神などの天の思想が伝わりました。これは儒教・道教・仏教のそれぞれの天や星の思想です。そして、律令国家が形成された七世紀後半から八世紀初頭に、中国から親尊君主・聖人君主・真人君主という君主観が入り、これが複合して日本の天皇観が構築されました。そして、儒教・道教に立脚する革命思想は、特定の天皇の系譜の断絶や、皇位をめぐる皇族間の紛争を説明するときに限定して適用されています。(『神道史大辞典』七一二頁)。「壬申の乱」(六七二年)にて、天智天皇の子である大友皇子を破った大海人皇子は、都を大和の浄御原の宮に遷して天武天皇と名のります。このとき始めて天皇号が用いられました。国名も倭から「日本」の国号となります。『日本書紀』(天武紀)にある伊勢神宮の祭りの「神宮」「斎宮」という言葉は、中国の道教の文献にあり、神宮を「内宮」と「外宮」に分けることも陶弘景の道教などに古くから行われています。皇室の遠祖を祭る宮殿を「神宮」と呼ぶことは、中国最古の歌謡集『詩経』(魯頌)「閟宮(ひきゅう)」の神楽歌の鄭玄(一二七――二〇〇年)の注に、「(周王朝の)遠祖たる姜嫄(きょうげん)の神の依る所、故に廟を神宮と曰う」とあるのに基づき(「姜嫄」も女性神)ます。この神宮が造営された伊勢の国には、「常世の波の重波帰するところ」という「常世」の死生観があります。また、同じく垂仁紀に「常世の国とは神仙の秘区にして俗()の臻(いた)らむ所に非ず」とあることからもうかがえます。つまり、天照大神の「大神」という言葉や、神宮を内宮と外宮に分かち、斎宮、斎官、斎王、采女などを置くことは、そのまま言葉と共に中国古代の道教思想や制度と、深い繋がりがあることが指摘できます。桓武天皇の延暦二三(八〇四)年に、伊勢神宮の神職から朝廷に献上された『皇大神宮儀式帳』をみますと、神宮の儀式儀礼の多くは道教や中国古代の信仰と密接な関連性を持つことがわかります。たとえば、祭祀に用いる「幣帛」や「五穀」、「人形(ひとがた)」や「五色の薄絁(うすぎぬ)」、神職の用いる「明衣(きよぎぬ)」、「裙()」、「袴(はかま)」にいたるまで、道教的な中国の儀礼が取り入れられていることです。