203.神武天皇とヤマト(三輪山) 高橋俊隆 |
神武天皇とヤマト(三輪山)大和王朝の建国神話に「神武東征神話」があります。九州を拠点としていた神武天皇が大和(奈良県)に軍事的に進出し、ここに大和王朝を建国し初代の天皇となったと伝える神話です。「神武即位前紀戊午九月条」によりますと、国見丘の上に八十猛と呼ばれる、尻尾を生やした土蜘蛛(先住民)の猛者たちがいて、その夜、神に祈って眠ると、夢に天照大神と高御産巣日神が現れ、「天香具山の社の土で平たい皿を八十枚作れ。あわせて御神酒を入れる器を作り、天の神地の神を敬い祀れ。また、身を清めて呪詛を行うがいい。さすれば、敵は自ら降伏して従うだろう」、と告げたといいます。『日本書紀』では高皇産霊神といわれ、葦原中津国平定・天孫降臨のときには高木神で登場します。『古事記』には即位前の神武天皇が、熊野から大和に侵攻するときに夢告します。さらにアマテラスより優位に立って天孫降臨を司令していることから、この高木神が本来の皇祖神とする説もあります。(『日本の古代』一三、大林太良稿、二四五頁)。神武という名は八世紀後半に贈られた中国風の諡号で、『日本書紀』にある国風諡号は神日本磐余彦尊で、高天原から南九州の日向に降臨した瓊瓊杵尊の曽孫とあります。四五歳のとき船軍を率いて日向を出発し、瀬戸内海を経て難波から大和に向かう計画を立てます。これを「神武東征」といいます。しかし、土地の豪族長髄彦の軍に妨げられ、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入ります。日向出発以来、六年目(『古事記』では一六年以上かかる)で大和平定に成功します。辛酉の年元旦、畝火の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇と讃えられたとあります。この神武東征には皇室祖先が西方からきたことを示しています。また、神武天皇と並び崇神天皇はヤサカイリヒコ・ミマキイリヒコなどと呼ばれており、イリヒコ系統が原大和を形成していたといいます。これをイリ王朝と呼びます。そして、このイリヒコ系の氏族は三輪山に関係します。三輪山の祭祀と結びついた呪術的な君主として、磯城王朝・三輪王朝とも呼ばれます。 大和という言葉の由来は「三輪山の端」にあり、ここから日本の古代国家が作られたといいます。しかし、この大和という地名は神仙思想と関係があるといいます。「ヤマト」は「山の入口」という意味といい、そこに大和の文字が使われたのは神道・真人などと同じように、道教の永遠に平和の世界である「大和」に関連しています。神が宿るとされる神奈備の山(かむなび、かんなび)の多くは、三角山やピラミッド型をしています。『周髀算経』によりますと笠の円形を天と捉えます。神奈備山は日本人にとって魂の故郷であり、神々が住む所として信仰されてきました。神奈備は「神の辺(べ)」が転訛して「かんなび」になった、また、「神の森」が「かんなみ」となり「かんなび」になったとします。そして、「ひ」が霊をあらわすことから「神霊の隠れこもる山」、すなわち御室山と結合します。神奈備の御室にこもる神を神籬を立てて斎(いわ)い祀ったのです。『万葉集』の「三諸就」(みもろつく)は御室築くであるといい、「ひもろぎ」も「霊(ひ)室木」・「霊籠木」であるといいます。(五来重稿「大和三輪山の山岳信仰」『近畿霊山と修験道』所収一八〇頁)。また、大和の地名は三輪山の西麓方の城下(しきのしも)郡大和郷に由来するといいます。後にヤマトの名は奈良盆地に拡大され、さらに大和国となり日本全体に適用されます。 三輪山(約四六七㍍)は奈良盆地をめぐる青垣山の中で形の整った円錐形の山で、古来より雷神・水神のすまう聖地神の鎮座する山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山・美和山・三諸岳と記されます。出雲地方の御室山の名前をもってきて御諸山と名づけたといいますが、近年では三輪山を中心としていた出雲族が山陰に移住したといいます。また、「御室山」のことを三輪山と呼ぶのは、この山の霊神が松・杉・榊の霊木を結んで輪にしたものを神体としていたからです。これを三輪明神の「霊籠木」(ひこもりぎ)といいます。この霊木は、その外側を樫・楢・椿・青木・桜の五種の木を輪にして取り囲み御殿におさめられています。ちなみにこの三種の霊木は仏・蓮華・金剛部、五種の霊木は五智を示すといいます。(宮家準著『神道と修験道』九四頁)。「雄略紀七(四六三)年の条」に第二一代雄略天皇が少子部連蜾蠃(ちいさこべのむらじすがる)に、三諸岳(三輪山)の神と言うものを見てみたいと言い、力自慢でもあった栖軽に、神の化身の大蛇を捉えて来るように命じたことが書いてあります。雄略天皇がミモロの岳の神の形を見ようとしたとき、少子部連蜾蠃が蛇をその山で捉えて御覧にいれたので、それからこの岳の名をイカツチの岳とせられたとあります。イカツは「厳つ」で、チはヲロチやミヅチのチと同じ語であり、イカツチは恐ろしい神として蛇をさしているといいます。雷の字は当て字であるといいます。(津田左右吉著『日本古典の研究』『津田左右吉全集』第一部。二四七頁)。三輪山の神を捕らえたところ大蛇の姿をした雷神であったという言い伝えで、雷神が蛇であるという観念が古くからあったのです。古代における蛇神は水の神であり農業の守護神でした。三輪山を神体山とする説は誤解ともいいますが(五来重稿「大和三輪山の山岳信仰」『近畿霊山と修験道』所収一七九頁)、三輪山は大物主神の和魂(にぎたま)が鎮まる神体山として信仰され、三諸の神奈備と呼ばれます。大物主神は出雲の国を譲った大国主神(大己貴神)の異名で、大三輪神・倭大物主櫛甕魂命・三輪明神ともいいます。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂とします。天照大神が祭祀される以前は、この大物主神が大和の主神であったといわれます。天智天皇は大津京を営むときに、比叡山に移し大比叡の神としました。第一〇代崇峻天皇は天照大神を笠縫邑に祀りましたが、それが永続しなかったのは、この大物主神の神威が強大であったためといいます。(肥後和男『神道史大辞典』一五八頁)。『古事記』にある大物主神は、丹塗矢に変じたり祟りで疫病を起したように、天皇家を守るべき神にねじれがある理由は錯綜しています。この丹塗矢は蛇の変形といわれます。 『日本書紀』巻五によりますと、伊勢神宮の起源は、それまでは宮中の天皇が住む大殿に天照大神は祀られていましたが、崇神天皇の六(紀元前九二)年、天皇は疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と大倭大国魂神(大和大国魂神)を、崇神天皇の発意により皇女豊鋤入姫命に委ね、皇居の外の笠縫邑(檜原神社)に移し祀らせます。三輪氏が大きな勢力をもったこともあって、笠縫邑に祀らせたといいます。御室山は大神(おおみわ)氏の祖霊のこもる山であったとあります。(『出雲国造神賀詞』かんよごと・『日本書紀』『万葉集』)。大神氏は大神神社をまつる大和国磯城地方(奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部を含む一帯)の氏族で、三輪氏・大三輪氏ともいいます。市礒(いちし)邑(大市と穴礒)に大倭大国魂神を祀ったことにより、大倭邑と改めたとあり(『大倭社注進状』)、ヤマトの地名の始まりといいます。ヤマトの語源を山処とし都祁の小山戸(オオヤマト)はその場所に相応するとして、邪馬台国の場所とする見方もあります。(小川光三著『ヤマト古代祭祀の謎』一一八頁)。また、三輪山伝説(蛇神説)が百済系のものといわれ、新羅の王子天之日矛(天日槍)や秦氏の関わりなど、伝承は渡来人系文化につながるといいます。(『日本の古代』一〇、田村克己稿、二九六頁)。日矛とは太陽の霊力を受ける鏡を意味します。また、倭国・葛城国に並ぶ都祁国の「トキ」は、古代朝鮮語の太陽が出現する様子を意味しています。都祁国にある上之郷の白木は新羅であり、天之日矛の伝承が伝わっています。檜原山神社の場所は『日本書紀』に笠縫邑とあります。土地の人や文献では元伊勢と呼んでいます。八咫鏡の鏡はこの神社にありました。天照太神と倭大国魂の二神を、大和の笠縫邑に祀り礒堅城にヒモロギを建てたことは、皇祖神が天皇の所在地である大和から離れて建てられた最初の記録となります。族集団の王権交替からはじき出されたともいいます。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二一八頁)。その後、新たな鎮座地を求めて、丹波・紀伊・吉備などの各地を移動し、大和の弥和乃御室嶺上宮、桜井市大神神社(三輪明神)に遷り三輪山に鎮座しました。倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせますが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来ませんでした。崇神天皇七(紀元前九一)年二月、大物主神が倭迹迹日百襲媛命(紀元前九二年以前~没年紀元前八八年以降)に託宣します。一一月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)が勅命により、大物主神を祭る神主となり天皇を助ける神として祀ります。これが大神神社の始まりで三輪山を御神体とします。市磯長尾市は倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し五穀豊穣となったとあります。三輪と伊勢は当初から密接な関係があったといいます。 三輪山は縄文・弥生時代から信仰の山とされ、古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られます。そのことから、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられています。纒向遺跡は三輪山の北西麓一帯に広がる、弥生末期から古墳前期にかけての大集落遺跡です。建設された主時期は三世紀で、前方後円墳発祥の地とされる石塚古墳の周濠からは、吉備系の祭祀遺物である弧文円板・朱塗の鶏形木製品が出土しています。辻地区の建物群(桜井市大字辻)は纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。平成二〇年からの纒向遺跡第一六八次調査では、辻地区の建物群の廃絶時に掘削されたとみられる四、三㍍×二、二㍍の大型の「土抗」が検出されています。辻地区だけで三八の土抗があらわれました。破壊された多くの土器 や木製仮面などの木製品、巾着状の絹製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しています。これは唐子・鍵遺跡に多い祭祀用の土抗を継承したと考えられ、ヤマト王権における祭祀を解明するものとして注目されます。この祭祀土抗は祭祀が行われたあと、祭具などを人目にふれさせないため、穴(抗)を掘って埋めます。伊勢神宮は今もこれを行っています。(『日本の古代』5、森浩一稿、二七六頁)。平成二二年には建物群を囲む柵が、大型建物の南側まで直線的に伸びていることがわかりました。大型土抗から二千個を超す桃の種がありました。祭祀土抗は西の辻地区で二一基発見されています。平成二三年には五個の柱掘形が発見され、何代かあとの王宮ともみられています。三輪山とその北につづく山々の麓に造営された、箸墓・渋谷向山・行燈山などの前方後円墳から想定される政治勢力は、三輪王朝(王権)とか初瀬王朝と呼ばれます。纒向型前方後円墳から箸墓古墳が生まれ、ここから古墳時代が始まります。つまり、前方後円墳は大和王権の誕生と結びつくのです。(黒田龍二著『纒向から伊勢・出雲へ』一六頁)。山中の巨石群、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、奥垣内遺跡や、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあります。頂上には高宮神社が祀られており、延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられています。この日向神社は古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社といわれます。三輪山山麓の祭祀遺跡は山中をふくめ二三あり、各盤座から勾玉などの祭祀遺物や、土師器などの生活遺物が発見され、水田耕作を営んだ人たちが多産・豊穣・繁栄を三輪山の神に祈ったことがわかります。(宮家準著『修験道と日本宗教』八四頁)。飛鳥時代までは天皇即位のとき三輪の山頂で大嘗宮が設けられたといいます。「三笠山・三輪山・泊瀬山と大和平野を貫く聖なるライン」から、占星術を用いた祭祀構造であることがわかります。(小川光三著『ヤマト古代祭祀の謎』四七頁)。三輪山の西麓や南麓には出雲の名が残っており、三輪山の一帯は弥生時代には出雲と呼ばれていました。三輪山を神体とし大物主神を祀る大神神社の周辺は、出雲出身の氏族が住むところで、大神神社は出雲氏の氏神的な神社だったようです。出雲族と呼ばれる人々によって始められた三輪山の祭祀が、次第に大和朝廷の勢力に吸収され、五世紀ごろには大神神社そのものが朝廷の御用神社のようになっていく、という経緯が現在では考えられています。(三輪山文化研究会編『神奈備・大神・三輪明神』)。司馬遼太郎氏は古代出雲族の活躍の中心が島根県でなく大和であり、その大和盆地の政教上の中心が三輪山であるとのべています。(『街道をゆく』1)。大神神社は醸造の祖神としても知られています。山の神祭祀遺跡から酒造り道具の土製模造品が出土されており、毎年一一月一四日は醸造祈願祭を行っています。参列した酒造業者は三輪山の神杉の葉を丸く束ねた、「しるしの杉玉(酒ばやし)」を頂き、酒蔵の軒下に吊り下げます。これらの古墳や遺跡は道教的な解釈が必要と思われます。次にそれを探ってみます。 |
|