204.大和・飛鳥時代の遺跡             高橋俊隆

【大和・飛鳥時代の遺跡】

弥生時代には墳丘墓が築かれており、三世紀後半〜四世紀初頭に大きな古墳が現れます。この古墳の登場から大和時代とされ、五九二年に蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺し、推古天皇が即位、翌五九三年に聖徳太子が摂政になり、天皇の首都が定着したときから飛鳥時代とします。奈良時代(七一〇〜七九四年)以前の古墳文化・飛鳥白鳳文化までをいいます。三世紀後半から末にかけて造られた前方後円墳は、六世紀末を最後に終末します。これは推古期のことになります。このあと七世紀に入ると方墳・円墳が出現します。畿内では七世紀中ころから大王墓が八角墳に変化します。八角形墳の造形を道教の思想とする見解と、仏教の影響とする二つの見方があります。八角形墳は第三四代舒明天皇の押坂内陵に始まります。斉明索牛子塚古墳、天智天皇の山階陵、天武持統檜隅大内陵、草壁皇子の束明神古墳、文武天皇中尾山古墳は、陵墓の基底部が八角形となっています。舒明天皇以前には見られないので、渡来人の影響を受けています。八角形墳の造形は八葉蓮華文に由来するとして、舒明天皇一家の仏教受容の影響とする説があります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』二九六頁)。また、天武天皇は天文遁甲など道教的な技能を学んでいたといわれ、天武天皇が埋葬された八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これは道教的な方角観であるといいます。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、五三頁)。これらの古墳は七世紀の四半期の終わりころ(壬申の乱六七二年頃)を堺にして跡絶えます。天智・天武天皇のときに豪族の古墳造営を停止したからです。(『日本の古代』6、白石太一郎稿、二八六頁)。

『日本書紀』の応神二〇(二八九)年九月条に、倭漢氏の祖先である阿知使主とその子、都加使主が、党類一七県の人を率いて渡来したとあります。この倭漢氏は中国の呉から、四〜五世紀に朝鮮半島を経由して日本に渡来しました。住んだ呉原は明日香村栗原で、飛鳥西南に定着し、蘇我氏と提携しながら飛鳥一帯に勢力を伸ばします。渡来人による信仰の移入があったのです。この倭漢氏一族が造都に深く関係したといいます。神功皇后の三七二年(一二〇年のズレを加算)に、百済から七支刀が献上されています。高句麗の高さ六、四bの「好太王碑文」には、三九一年に倭が海を渡って百残(百済)と新羅を破って臣下にしたとあり、四〇四年に高句麗に敗北したとあります。応神天皇は三九四年に没し、仁徳天皇が第一六代天皇となります。大和政権の拠点は大和地方から奈良盆地の北の佐紀に移り、四世紀末には河内へ移ります。大仙陵古墳の仁徳天皇(『古事記』四二七年没)のころは、新羅との交戦や中国との交流があり、瀬戸内海の航路を利用するために河内に移ったと考えられています。この時代に巨大な古墳が造られます。ちなみに仁徳天皇陵は、大林組が一九八五年に試算した金額で七九六億円、造陵期間は一五年八ヶ月とのことです。(『季刊大林』二〇号)。墳丘のまわりに濠が掘られます。三世紀末から七世紀までを古墳時代と呼びます。『宋書』の「倭国伝」には、五人の倭王(讃・珍・済・興・武)が、それぞ宋(四二〇〜四七九年)に使節を派遣して朝貢し、官位を授かったことを記しています。倭王と中国王朝との交渉は、四二一年の讃の遣使に始まります。南朝の宋が存続していた五世紀代の倭王は、河内の古市古墳群や和泉の百舌鳥古墳群に眠っている大王たちです。なを、倭王の讃(履中天皇、仁徳天皇、応神天皇)。珍(反正天皇、仁徳天皇)。済(允恭天皇)。興(安康天皇、木梨軽皇子)。武(雄略天皇)と推定されています。

四世紀から七世紀は日本の文化や技術の発展期で、文物・農業・酒蔵・養蚕・建築・医術などを、朝鮮の渡来人が移入しました。弥生時代までは伽耶地域の沿岸部と、北部九州とが交流し、古墳時代になりますと畿内との交流にかわります。大伽耶(高霊)が中心になると、北近畿や北陸に交流が拡散され、のちに百済が主流となります。古墳時代は朝鮮において古代戦国時代にあたり、亡命者などが渡来した時期になります。大きく三期に分ける見方があります。一期、四世紀末〜五世紀初頭。二期、五世紀後半〜六世紀初頭。三期、七世紀後半です。『新撰姓氏録』(八一五年)によりますと、畿内居住の一一八二の氏のうち、三二四氏(三〇l)が渡来人であったと記録されています。大和政権は技術者を品部に配属し、各地に居住させて技術を習得させました。そのなかでも最大の豪族が秦氏の祖である弓月君で、養蚕と機織りを伝え定着しました。弓月君は始皇帝の子孫といわれ、応神天皇のときに人夫一二〇県を率いて渡来しています。新羅系のハタは古代朝鮮語で海を意味しています。百済系の東漢氏も応神天皇のときに渡来し、高市郡檜前村を本拠とします。ここは高松塚古墳のところです。陶部・鞍部・画部・錦織部・韓鍛次部などの技術者がいます。同じく百済系の西文氏が河内を本拠とします。朝鮮からの渡来人を編成する手立てとして「戸」を用いました。飛鳥戸(のち安宿郡。大阪府南河内)の集団は百済系の人たちで、河内には馬飼の集団があり馬史・馬首は百済・伽耶系の漢氏の支族でした。四條畷市の奈良井遺跡から殺馬祭祀とする馬骨が出土し、清滝古墳群から馬の殉葬が確認されています。これらは信濃の牧にもあり、渡来人の風習と見られています。殉葬された馬に轡や鞍を装着したものがあり、装飾古墳の壁画に描かれた船と同様に、死者の霊魂を来世に運ぶ役目をもって埋葬されたといいます。(奈良文化財研究所『日本の考古学』下。五〇四頁)。

とくに、五世紀は変革の時代でした。百済より王仁が渡来し『論語』や『千字文』を伝えます。また、食の変化で竈と須恵器を採用し、また、新しい他界観による横穴石室墳の築造です。信濃角地の盟主的な大形円墳がこの時期から築造され、副葬品は武具・馬具・装身具・須恵器で構成されています。信濃への渡来人は高句麗で、高井・更級・小県・筑摩郡に定着しています。長野県には約六百の積石墳があります。これは後期の群集墳が多く、高句麗系渡来人のものとされます。信濃の高句麗人については、『日本後紀』に重要な関係記事(延暦一八年一二月五日)があります。(『日本の古代』5、森浩一稿、三三一頁)。高句麗の古墳石塚=積石塚から土塚=封土墳(四世紀から五世紀)へと移行した跡がみえます。五世紀後半になりますと、高句麗・百済・新羅の戦乱が激しくなります。五二七年に継体天皇は任那に援軍をおくり新羅征伐に向かいます。このとき、九州の海上交通を掌握していた国造磐井王が反乱を起こしたのが「磐井の乱」です。結果は五二八年一一月に鎮圧され、九州における大和朝廷の権力が強まります。これについて勢力を拡大した筑紫王磐井を討伐したとする見方があります。(水谷千秋氏)。そして、五三八年に百済から金銅の仏像や経典などが日本に献上されます。百済は軍事的な援助を求めたという意図があったのです。これにより、日本の文化が跳躍していきます。六世紀から七世紀は百済から五経博士が渡来し、『書経』『易経』『詩経』『春秋』『礼記』を講じています。中国系百済人の司馬達等が仏像を大和国高市郡の坂田原に草堂を結んで安置します。蘇我馬子に助力し女の嶋が善信尼で日本最初の出家となり、子の鞍部多須奈は用明天皇のために出家して徳斉法師となり坂田寺を造っています。その孫が仏師の鞍作止利です。敏達六(五七七)年に百済から経論・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏師・造寺工などが献ぜられ、難波の大別王寺に安置します。曇徴は六一〇年に高句麗より渡来し、彩色(絵画)・紙墨の製法や水力を利用した臼を伝えました。

古墳時代の死生観は神仙思想・山上他界観・地下他界観・海上他界観の四点に整理されるといいます。このうち、神仙思想は前方後円墳の平面形が壺中天を表し、壺形の山へ昇仙する舞台といいます。『抱朴子』にある明鏡は、死後の旅路における邪悪なものを退ける役目をします。ゆえに、前期古墳の銅鏡副葬があるといいます。(『史跡で読む日本の歴史』2、岸本直文編。二五六頁)。中国や朝鮮では鏡を容飾として副葬します。ですから、副葬された鏡の数は一、二面ですが、日本では古墳前半期においては、一つの古墳から三十数面が副葬されています。日本では埋葬者の権威の象徴であり、また、遺骸に密着していることから、遺骸を守る除魔として副葬されたといいます。巫女の埴輪は袈裟衣状の衣類をまとい、その上から呪具である襷をかけ、両手で器を捧げ持ちます。そして、腰に鈴鏡を吊り下げていることも、装飾いがいに鏡のもつ意味があります。(『日本の古代』一四、岡崎晋明稿、四五一頁)。神人神獣鏡に属する重列式神人神獣鏡という呉国の銅鏡と、日本の天理市から出土した金象嵌鋼鉄大刀にある銘文と酷似しています。明鏡と大刀、制作年次、青銅と鋼鉄の違いはありますが、目的と用途は同じといえます。(小林正美編『道教の斎法儀礼の思想史的研究』二一四頁)。司馬承禎は『含象剣鑑図』に鏡のもつ霊威力を易の哲理で解説しています。北部九州の後期以降において、巨大化した武器形祭器や、さかんに副葬される鏡は、道教的思想による呪具といえます。(『日本の古代』一三、寺沢薫稿、一四二頁)。伽耶から百済に交流が転換する時期に、北部九州の横穴式石室が、韓国の栄山江流域を中心とした前方後円墳に採用されています。(『史跡で読む日本の歴史』2、岸本直文編。一三九頁)。百済の熊津期(四七五〜五三八年)にたどることができます。また、中国東北地方の墓制の影響が朝鮮に及ばしたといいます。近畿地方では埴輪の使用を、六世紀前半から中頃のあいだに停止しており、その時期に木製品を用いています。奈良県の石見遺跡では木製の鳥形と、台もしくは笠とみられる円盤が出土しました。これは古墳跡ではなく、治水か豊作か生産に関連ある祭祀儀礼の営まれた遺跡としての性質が考えられています。木製の鳥は埴輪として作られているニワトリや水鳥の姿勢とは違って、大阪府和泉市池上・曽根遺跡、東大阪市瓜生堂遺跡、島根県西川津遺跡などの弥生遺跡で出土する木製の鳥のように空中を飛翔する姿をしており、土中に固定する台がないことから、短時間に行われた儀式に高く掲げられたと推定しています。つまり、木製の鳥は弥生時代から長い伝統をうけつぐものであり、木製の葬具も祭器も埴輪と並行してあったといいます。(『日本の古代』一四、森浩一稿、三七六頁)。

飛鳥地方には石人男女像、猿石、二面石、亀石、益田の岩船、酒船石、須弥山石などの、製造と用途がわからない石造物が点在しています。一説には斉明天皇(皇極天皇)の両槻宮の付属施設といいます。多数の工人が携わりますが、両槻宮は途中で造営不能となっています。この理由として済州島から来た人達が帰国したからといいます。飛鳥の石造物にある岡の酒船石や、大正五年に同じ明日香村のなかの出水(ケチンダ)の田から出土した物と同じ石像といえます。神聖な特定の場所の水(神水・呪水・祝水)と、巨石に神が宿るという盤座信仰(巨石信仰)が結びついています。また、天地と人体の陰陽五行を加えて解釈できます。(重松明久著『古代国家と道教』一七四頁)。また、亀石の由来は中国南方の古代詩集『楚辞』の「天間」に、鼈が背中に蓬莱山を負うという思想にあります。亀は蓬莱山や崑崙山という仙人の住む山を背にのせているとします。亀の背に外径一、六bの円形の甲羅を彫り、内径は一、二五b、深さ二〇aあり、亀の口から水を入れ尾から排出します。頭のところに長方形の石槽があります。韓国慶州の雁鴨池の石槽と同じ機能と言い、この施設は聖なる水を流します。酒船石の用途は、一説に酒の醸造(神酒)といわれ、また、辰砂の製造、日没観測台、砂鉄の比重選鉱用具、浄水施設などの説があります。岡の酒船石から南へ一〇bの所で、酒船石に付属すると思われる車石が一六個発見されました。この長さは一b、幅四〇a、厚さ五〇a程の花崗岩に、車の轍の跡の様な溝が(幅一〇a深さ四a程)が彫り込まれています。岡の酒船石から流れた水が車石を通って南側に向かっています。これらは奈良県の明日香村を中心とした地域にあり、ほとんどが花崗岩でつくられています。人物像などのように、これまでの日本の文化とは違い用途についても不明な謎の石造物といわれています。しかし、道教的には呪術的な呪水・符水で禊(みそぎ)などをした禁苑ともいいます。禊や祓いの神事は『周来』(「祓除」)、『後漢書』(東流水上に禊ぎ)、『駕洛国記』(「三月禊浴の日」)にみえます。(上田正昭著『日本文化の基礎研究』四六頁)。古墳時代には浄水を得る導水施設は造られています。纒向遺跡で発見されていることから、前方後円墳と関連性があるともいいます。南郷大東遺跡には燃えさしがあったことから、夜間に神祭りがあったと推測しています。囲形埴輪は導水施設を形象しており埋葬儀礼との関連もあります。また、井戸や湧き水点を対象とした祭祀行為も弥生時代にみられます。(『史跡で読む日本の歴史』2、岸本直文編。二五二頁)。水の祭りは重要な行事であったのです。

明治三五年に明日香村石神の田から発掘された須弥山石(山形石)も噴水装置といわれ、山の模様や水の模様が彫られています。須弥山石を崑崙山としますと、同時に出土した石人像は東王父と西王母の陰陽総和した仙像とみることができ、明らかに道教の特徴といえます。(福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡を歩く』二一頁)。斉明天皇三(六五七)年七月一五日に、須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なったことと、暮(夜)に外国からの使者を迎え、須弥山石のもとで覩貨邏(とから。吐火羅)人を饗応したことが『日本書紀』にあります。覩貨邏人については『日本書紀』の白雉五(六五四)年の夏四月に、吐火羅國の男二人と女二人、それに舎衞の女一人が風に流されて日向に漂着したことと、斉明天皇三(六五七)年の秋七月三日に、覩貨邏國の男二人と女四人が筑紫に漂泊したとあります。覩貨邏人は最初に海見嶋(北九州の島といいます。筑紫)に漂着します。朝廷は伝馬を使って招き寄せ別格の待遇をし、須弥山像を前にして盂蘭盆会を行なっています。一説には覩貨邏人は、耽羅(トムラ又はタムラ)といい、継体紀に一度名前が出てくる済州島の住人といいます。この島に多いトルハルバン(石爺)と呼ばれている石像は、石人男女像のルーツと考えられ、飛鳥の石人男女像は覩貨邏人である済州島の石工が造ったものといいます。須弥山纖石は『日本書紀』と一致する唯一の石造物となっています。盂蘭盆会の行事は仏教的なことであり、道教と仏教とが融合された石像であることがわかります。この時の皇極・斉明天皇も漢風のおくり名で、皇極とは太極と同じように世界の中心という意味になります。斉明は神の祭を怠らずにする信心深い人という意味で、『礼記』や『書経』に見られます。道教的には吉野宮の造営などの神仙思想への傾倒を意識して命名されたといいます。両槻宮や飛鳥の石像郡の造立の理由は、道教の神仙思想が基層にあるのです。また、皇極天皇は四方拝を最初に行っています。皇極元(六四二)年八月の夏の暑い盛りの祈雨祈願に、明日香村稻淵で行ったことが『日本書紀』に書かれています。四方拜は清涼殿の東の庭に屏風を八帳立て三つの場を設けます。北斗七星を拝む座、天地を拝む座、山稜(父母の陵)を拝む座の三つです。最初に北斗七星を拝む座にて天皇の生年にあたる星の名を七遍唱えます。その文は「子年貪星、丑亥巨門星、寅戌存星、卯酉文曲星、辰申廉貞星、巳未武曲星、午年破軍星」です。この星名は大正新修大蔵経にある密教経典、『仏説北斗七星延命経』を引用しています。仏教と融合した北斗信仰になっていることがわかります。つぎに、再拝して「賊寇之中、過度我身。毒魔之中、過度我身。毒気之中、過度我身。危危之中、過度我身。五鬼六害之中、過度我身。五兵口舌之中、過度我身。厭魅呪詛之中、過度我身。万病除愈、所欲随心、急々如律令」と唱えます。「過度我身」とは災いから護ることを依頼する呪文です。つぎに、天地を拝む座において、北に向いて天を拝み、西北に向いて地を再拝します。そして、南の座において山稜に向かって再拝します。この四方拜に「急々如律令」の呪文を唱えることから、道教の信仰に基づいていることがわかります。四方拜は天皇が元旦の払暁に天地四方、皇室の先祖の墓を遙拝して平和を祈念し、一年のすべての幸福を祈る重要な儀式です。このとき「急々如律令」の呪文を唱えますので道教の儀礼そのものです。この時代は牛馬を生け贄にしたり、蚕らしい常世の神をまつるという話が『日本書紀』に書かれてあり、道経思想が大量に移入された時期でした。四方拜に対応する民間の正月行事が元旦の初詣の恵方の神社に参詣する恵方詣です。このような道教思想による行事や儀式は、平安時代にも受け継がれていきます。四方に礼拝される対象は天地・北斗七星、その年を支配する星です。庶民はこのとき天地・星・四方・大将軍星・天一星・太白星を礼拝し、その後に氏神という祖先神に詣でます。祖先神に先立って星が礼拝されたのです。六月の大祓のときも道教の神に祈ります。(吉田光邦著『星の宗教』一八二頁)。『北斗本命延生経』などに四方拜が書かれています。また、飛鳥時代の染織工芸品として、斑鳩町中宮寺が所蔵する天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)があります。飛鳥時代の染織・絵画・服装・仏教信仰を知る貴重なものです。図柄から道教の神仙郷の影響がうかがえますが、『弥勒上生経』『弥勒下生経』による浄土を示します。聖徳太子の死去を悼んで妃橘大郎女が作らせたといいます。『法王帝説』によりますと、下絵は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)が書き、制作を指揮した令者は椋部秦久麻(くらべのはたくま)とされます。つまり、渡来人の指導により、采女たちが繍帷二帳(ぬいもののかたびらふたはり)を繍ったのです。(速水侑著『日本仏教史古代』六四頁)。

原京(六九四〜七一〇年)趾から、買地券と思われる富本銭九枚と、水晶九個が入った平瓶(ひらか)が出土しました。発見場所は天皇が執務する太極殿を取り囲む廻廊跡です。水晶は清浄無垢で邪悪を払うとする地鎮の道具です。百済の第二五代武寧王の墓誌は道教の買地券です。墓地に対する神の保護を祈願する呪術的な手法です。日本の天皇は逆に在地の地主神を排除・制圧する地鎮の祭儀であるといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』一七六頁)。地鎮祭は買地券の思想と同じ祈願です。日本では第四一代持統天皇の五(六九一)年一〇月に、藤原京をつくるときに行っています。(大坪秀敏著『百済王氏と古代日本』三〇頁)。大極殿は藤原宮に始まるとされます。大内裏の正庁である朝堂院の正殿で、その北部中央にありました。即位や大嘗会、朝賀視告朔(こくさく)、御斎会など、重要な儀式に天皇が出御しました。七世紀後半には成立していたとされ、難波宮、藤原宮、平城宮、長岡宮では遺構が発掘されており、いずれも朝堂との間に廊、閤門(こうもん)があって境となっています。前期難波宮(天武朝以前)では東西七間、南北二間の母屋(身舎)の四面に一間のがめぐるという共通性があり、北に建てられた内裏と廊で結ばれていました。柱間一間ずつの寸法は一定していないので、建物の平面規模に違いが見られます。(『日本の古代』7、橋本義則稿、一六一頁)。古墳時代の倉と呼ぶ倉庫郡は何本もの掘っ立て柱を用いる巨大な建造物で、なかには祭儀と結びつく穀倉(稲蔵・盤座・高御座)も含まれました。屯倉(みやけ)はその構造的な一形態で、ある時期には中央権威と一体化した官衛的機能も備えていたと考えられています。ミヤコとはミヤケから派生した語と言います。

高松塚古墳から一九七二年に極彩色の壁画が発見されました。二〇〇五年の発掘調査によって、藤原京期(六九四年〜七一〇年)の間に築造された終末期古墳であることが確定されました。被葬者は特定されておらず、一、天武天皇の皇子説、(忍壁皇子高市皇子弓削皇子)二、臣下説、三、朝鮮半島系王族説があります。古墳内には人物風俗図と四神図が描かれています。高句麗の壁画古墳に四神が描かれたのは、古墳の初期の段階からといいます。朝鮮の水山里古墳に描かれた募主夫婦像に見られるように、高句麗壁画古墳と類似性があります。キトラ古墳・高松塚古墳は石室内に四神に囲まれながら仙境(仙界)のなかに永眠したと解釈されます。高句麗は四二七年に集安(丸都)より平壌に遷都し安定した国家でした。平壌に遷ってからは元山や雄基などの港を利用して日本海沿岸地方との関係が深まります。