206.斎王 高橋俊隆 |
【斎王】新羅の神宮(宗廟)は国主自らが参詣し祭祀をしますが、伊勢神宮の場合は天皇と皇族男性は関与できませんでした。斎王または斎皇女は伊勢神宮または賀茂神社に、巫女として奉仕した未婚の内親王や女王(親王の娘)をいいます。賀茂神社も伊勢神宮と同じように遷宮制が行われ、斎宮として皇女が派遣されていました。内親王とは、天皇の娘のことです。内親王なら「斎内親王」、女王 の場合は「斎王」「斎女王」と称しますが、両者をまとめて斎王と呼んでいます。なぜ皇族女性が斎宮となるかは不明ですが、天照太神の妃という見方があります。新羅の祖霊祭は古い形では王妹が観察するもので、日本の伊勢神宮が皇女倭姫命によって奉祀されたことと類似しています。『三国史記』巻三二、雑志第一祭祀によりますと、第二代南解王(在位四 〜二四年)三年の春に、始めて始祖赫居世の廟を立て、四時に祭り親妹阿老をもって祭りを主(つかさど)らしめたとあります。阿老という名は穀母・穀妻の意味で、巫女としての本質を示唆し、南解王は南解次次雄といい、「次次雄」は「慈充」といい、鬼神に仕える巫の畏怖から転じて尊称になったといいます。また、こうした称号に現われることから、新羅初期の社会は巫の支配する部族社会であったと見られています。このような聖俗二分構造が分布しているのは、東アジアからインドネシア、ポリネシアにかけてであるといいます。細部に於いては相違していますが、古代朝鮮や日本をふくむ文化的脈絡がみられます。(『日本の古代』一三、依田千百子稿、四〇五頁)。 伊勢神宮の特質は『記紀』による「神宮」の呼称と、「斎王」としての皇女の神官遺待にあります。斎王は天皇の子女が宮廷を離れ斎宮に籠もり神に奉仕します。古代日本の生け贄に関連して注目されるのは、前神祀の時代の斉女の醸出が、畿内一円の主長層にとって義務化された人質の意味もあったということです。斎王制に移行するに伴い天皇の娘一人が選ばれ象徴化しますが、遺待の語に示されているように、斎王が伊勢大神に貢献されるという本来の意義が最後まで失われなかったといいます。遺待は天皇の身代わりなのです。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』七八頁)。南北朝時代までは、皇女(皇室の女性)が神託を受ける「御杖代」(みつえしろ)として奉仕します。『日本書紀』(用明天皇紀)によりますと、用明天皇が敏達天皇一四(五八五)年に即位すると、斎宮として酢香手姫皇女(生薨年未詳)が伊勢神宮に遣わされています。伊勢に入ることを郡行(ぐごう)といいます。『古事記』では須賀志呂古郎女です。用明天皇の皇女で聖徳太子は異母兄になります。『日本書紀』用明天皇紀によりますと、崇峻天皇のときも引き継き斎宮となり、推古天皇の時に葛城(母の里)で薨じたと伝えます。しかし推古天皇紀にはその記述はありません。「或本云」として、斎宮を務めた期間は三七年間とあります。これに従えば推古天皇二九(六二一)年〜三〇年となります。聖徳太子の薨去(六二二年二月二二日)と結びつきます。蘇我馬子の推薦で即位した崇峻天皇が暗殺されたように、このころは動乱の時でしたので、結果的に天皇三代にわたって天照太神に奉仕したのです。のちに、斎王は当代限りとし天皇崩御や譲位により退下するようになります。酢香手姫皇女が崩御されてから、大来皇女との間に五一年の空白期間があります。舒明天皇から天智天皇まで伊勢大神に王女の派遣が行われなかったのは、倭王による仏教帰依と関連があるといいます。舒明天皇は仏教受容を推進し、伽藍を建立した最初の天皇でした。また、酢香手姫皇女以前の稚足姫皇女、荳角皇女、磐隈皇女、菟道皇女が伊勢に来ていないことから、これらの斎宮は後世の虚構とする説があります。(筑紫申真説)。 飛鳥時代以前の斎宮 A――天照大神 B――伊勢大神 八、用命前期(五八五〜六二二年)酢香手姫皇女 三一代用明天皇(〜崇峻天皇〜推古天皇) ※六二二年、聖徳太子没す。六七三年まで(舒明・皇極・孝徳・斉明・天智)斎王は空白 A――天照太神 斎宮制度成立以降の斎宮 九、天武二(六七三)年 大来皇女 三九代天武天皇皇女 右のAの皇女はすべて天照大神に待祭していますが、Bの皇女は伊勢大神に待祭しています。また、一〜三は倭王が王女に託(つ)けて天照大神を祭らしめると記しますが、史実生に問題があるといいます。未婚の女王を伊勢大神に待らせたのは、四〜九の雄略天皇の時代に始まり、以後慣習化されました。Bの倭王の宮が礒城(しき)と呼ばれた現桜井市にあります。ここには三輪山を神体山とする大神神社があります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』九八頁)。また、倭姫命と五百野皇女は次の稚足姫まで、八代の天皇を経過することから、二一代雄略天皇皇女の稚足姫以後が信頼されています。さらに、Bに見られるのは、北近江に本拠をもつ継体天皇の時代となったことです。つまり、王朝交替に関係します。舒明・皇極・孝徳・斉明・天智天皇の時期は、近江系の祭儀が主となり伊勢斎王が中断されています。そして、天武〜光仁天皇の一〇代は再び河内大王家の祭儀が復活し、あわせて難波津の八十島祭りの親察が行われます。そして、桓武〜嵯峨天皇の平安初期になり、天智系になると近江系の祭儀となっていきます。つまり、@継体〜推古天皇八代。A舒明〜天智天皇五代。B天武〜光仁天皇十代。C桓武〜嵯峨天皇三代、の四期にわけて古代宮廷の祭儀を概括できるといいます。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、二四頁)。 斉王の住居は斎宮といわれ、その居館は二〇`離れた祓川(はらいがわ。櫛田川)の畔でした。斉王が伊勢神宮に参入するのは三節祭に限られていました。斎王は往路の潔斎を経て清浄になり、復路の禊祓によって常態にもどります。この祓川の斎宮趾が原初の伊勢神宮所在地といいます。斎王旧址から径四〇a、深さ二五aほどの柱穴に似た穴に、白と黒の小石が出土しました。この小石は径が一aほどで、白石は一三八〇個、黒石は三〇七個ありました。この丸い石は和歌山県七里御浜の海石であろうといわれています。この白黒石のつまった穴の上が斎王宮の太極であり、斉内親王の宮居のところといわれています。現在の五十鈴川畔への移転は天武天皇が式年遷宮を遺詔し、持統期に内外宮が完成されたときに移設されます。この内外宮の構成と構造、内宮と荒祭宮、外宮正宮と多賀宮の位置関係や地勢は陰陽五行の造形といいます。内宮・外宮・斎宮が一直線上にあり、内宮から西北四五度になる西北は易における乾であり、天・太陽・円・石・車などを象徴します。斉王が斎宮から動かないのは太陽を象徴する日神(天照太神)の依り代としての本義といいます。西北は天の象徴であることから、動かない天帝の「太一」と斉王が同一的な関係であるといいます。つまり、斉王は「太一」の象徴と受けとれ、天照太神へ新たに太一神が習合されたとき、伊勢神宮の祭祀は一変し、新たな祭祀地として五十鈴川に定められたといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一五五頁)。天武天皇は支配者層の祭る神を大神として位置づけ、伊勢地域の神が倭王権の集団的表象として天照大神(『日本書紀』)、天照大御神(『古事記』)と昇華され、そして、皇室の祖神として崇めたといいます。(『日本の古代』一三、上田正昭稿、二〇一頁)。 畿内の米と人と土地を支配したのが大和であり天皇族でした。権力を誇示し統一するために伊勢地方の神々も王権の氏神として統合吸収し、伊勢大神の名称でもって皇祖神として格位づけをしたといいます。伊勢地方神にのっかかり地方神を皇祖神として上昇させた事件が「壬申の乱」という見方ができます。これが契機となったことは結果として事実であり、そして、天照太神の祭祀を天皇の特権的行為として固定し、斎王派遣による神官の祭祀が始まり、天皇と神宮とは一体となったのです。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』一七四頁)。 【禊祓】『荊楚歳時記』には水の力により汚れを払い病気や災難から逃れ、農作や子孫繁栄を祈願することでした。中国では三月の上巳(じょうし)に祓いや禊を行う風習があり、川辺で水を浴びることを禊ぎといいました。齋(ものいみ)と合わせて禊齊(けいさい・はまおり)といいます。上巳の定義は三月最初の巳の日のことですが、五節句の一つとして三月三日を指します。上巳節会とは古代日本において、三月三日に開かれた節会で天皇が神饌を配しています。旧暦の三月三日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句とも呼ばれます。王羲之の『蘭亭之序』や『後漢書』には、三月三日の禊ぎを春禊といい、七月一四日の禊ぎを秋禊と書いています。ヨモギの人形を門戸に懸けて病気を払ったとあります。これが、武者人形に変化したといいます。鯉のぼりは昇り旗(神が降臨するよりしろ)が変化したものといわれます。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』一一一頁)。 また、禊と祓いが合わさって禊祓(みそぎはらえ)といいます。禊は神事に仕える者がケガレ(穢)に接してしまったとき体を清めることで、祓は天つ罪・国つ罪を犯してケガレ(穢)た者に対して行われます。のちに天皇が禊をして国全体のケガレ(穢)を払う大祓の神事を行うことになります。神道は罪やケガレを禁忌としていることから、本来の禊と祓いは別の行事でしたが、心身を清める行為は同じことから、すでに『記紀』においては同一に行われていました。禊祓について『隋書』の高句麗の喪葬と、「倭人伝」の葬送の記事が似ています。一般に朝鮮では死の穢れと出産がもっとも不浄とされ、現在でも祭官は毎日必ず海水、川水、井戸水などで沐浴斎戒しています。朝鮮では古来より禊祓をして身心を聖化していました。倭人も葬送後に海水で禊祓を行ったとあります。 |
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