207.伊勢神宮・外宮                           高橋俊隆

◆第節 伊勢神宮と天照大神

伊勢神宮

『日本書紀』にみえる神宮は、伊勢神宮と石上神宮(石上振神宮、天理市)の二つだけです。伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに、何らかの関係があるといわれ日本最古の神宮となります。石上神宮の周辺には五世紀時代の宮都が存在します。古くには斎宮があり布都姫が挙げられています。石上大神として祀られている布都御魂剣は、武甕槌・経津主の二神が葦原中国平定に使われた剣で、神武天皇が東征のおり、危機に陥った熊野で高倉下(夢に天照大神高木神建御雷神が現れ)を通して所持したといいます。その後、物部氏の祖宇摩志麻治命が宮中で祀り、崇神天皇七(紀元前九一)年に、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが創建となります。物部氏は河内国の哮峰に、天皇家より前に天孫降臨したとされる饒速日命を祖先とする氏族です。『日本書紀』では饒速日命、『古事記』では邇藝速日命とあります。石上神宮は饒速日命が将来した十種瑞宝、新羅王子日槍の献上した神宝、そのほか諸氏が所有していた宝物を収納する~府であり、これらの宝物は内外の王・主長が服属を誓約する証しとして献上したものでした。物部氏は軍事氏族であることから、王権の神庫・武器庫(天之神庫)としての役割も持ち、大和政権の中で大伴氏と並ぶ地位を得ます。古代国家において武器は神宝であり神庫に収められました。祭祀施設であり軍事機能の中枢となる象徴的な建造物であったのです。天武天皇三年(六七四年)に忍壁皇子(刑部親王)を派遣して、膏油をもって神宝を磨かせ、神府に貯めた諸家の宝物は皆その子孫に返還するように命じています。これは~府を解体して一般の社(祠)に降格させたのです。神宮の名がこれ以後に消滅しています。神宮とは~府・神倉と対応しているといいます。石上神宮の~府解体は国家祭祀の中枢を伊勢神宮に移管する布石であったといいます。

『日本書紀』巻五によりますと、伊勢神宮の起源は第一〇代崇神天皇の六(元前九二)年、天皇は疫病を鎮めるために、宮中に祀られていた天照大神を三輪山に鎮座させました。その場所は桧原神社といいます。ヒバラは「日原」とも記され太陽祭祀を意味します。この東には隠国の泊瀬山があり、室生山(ミムロ)・斎宮跡・神島へ繋がります。神島から昇る朝日を拝む来光信仰があったのです。西には箸墓・日大御神社があり、二上山の穴虫峠に落陽を見ます。その先の河内から和泉に入ると大島大社、淡路島の伊勢久留間神社、常隆寺山の三町に伊勢ノ森があり天照太神を祀る石造の祠があります。この一五〇`の線は太陽の昇降の軌道であり、伊勢神宮に神宮歴があるように、笠縫邑の桧原神社周辺が観測地点ともいいます。(小川光三著『ヤマト古代祭祀の謎』二〇頁)。崇神天皇は「ミマキイリヒコイソニエ」という謚で、朝鮮南岸加羅国(ミマナ)からの渡来王族名というのが定説となっています。この崇神天皇と天照太神の御霊とされる鏡が、一心同体として同じ御殿にあったと儀式帳に書かれています。伊勢神宮は馬族騎馬王朝の皇祖神として、悠久の神宮史を今日まで歩み続けているという理由です。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二四一頁)。纒向遺跡の大型建造物は宮中(崇~天皇)であり、隣接する南北三間、東西一間の建物は、宝鏡を納めた「宮中の大庭に穂椋を作り」(『神宮雑例集』)に相当するといいます。そして、この建物は伊勢神宮に類似しています。(黒田龍二著『纒向から伊勢・出雲へ』二七頁)。

ついで、第一一代垂仁天皇(在位、紀元前二九〜七〇年)は皇女の倭姫命を御杖代とし祭祀を託します。ここから、新たな鎮座地を求めて三〇年各地を廻ることになります。元伊勢伝承の元伊勢とは、このとき鎮座した所をさします。神宮の候補地としましたが定住できなかったのです。愛知県や岡山県にいたるまで広く廻り、その数は五〇社以上になります。まず、三輪山から大和の宇多(陀)秋宮に遷ります。ここに阿紀神社があり四年間祭祀されます。そのあと、篠畑神社・神戸神社・都美恵神社・垂水頓宮趾・坂田神明宮・天神神社・野志里神社・忍山神社・加良比乃神社・神山神社・竹佐々夫江神社・礒神社・瀧原宮(別宮)など、近江、美濃を巡ります。この間、別宮となっているのは滝原宮で、滝原の地は伊勢と熊野・紀伊を結ぶ陸の要衝でした。倭王が祭る伊勢大神の滝原鎮座の要因がここにあります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』一一〇頁)。大江町内宮にある元伊勢内宮(皇大神社)も元伊勢伝承地の一つです。『倭姫命世記』によりますと、崇神天皇三九年に天照太神を奉じた豊鋤入姫命が、鎮座地を求めて但波(丹波)国へ遷幸し吉佐宮を築いて四年間奉斎したとあります。そのため「元伊勢」と称され、とくに、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮との伝承から、元伊勢皇大神宮・元伊勢内宮と称します。伊勢神宮と類似して内外宮、五十鈴川があります。このように各地を巡り、垂仁天皇二五(紀元前三)年三月に、五十鈴川の川上に鎮座されます。これが内宮(皇大神宮)の起源となります。そして、天皇の王宮から離された宝鏡は、何重もの垣や堀で囲まれた倉庫形正殿に納められます。内宮の主要な祭りは年に六回となり、日常の祭祀は外宮御饌殿にて行います。宝鏡は隔離されるようにして祀られたのです。(黒田龍二著『纒向から伊勢・出雲へ』一七二頁)。創立は文武二(六九八)年とする説もあります。

内宮―― 皇大神宮――― 天照太神―― 皇室の先祖神――――――――正面一〇、八b(平安初期)

外宮―― 豊受大神宮―― 豊受大神―― 天照太神へ大御饌をする神―― 九b (七、二b) 

五十鈴川の川上は曽て天照太神が、美しい場所として天上から投げ下ろした、「天の逆大刀・逆鉾・金鈴」が輝いていたと伝えます。大和を出て三四年にして、倭姫命の使命が達成したのです。このとき、天照太神は倭姫命に、「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)」(垂仁天皇二五年三月丙申条)と告げます。天照太神が伊勢を定住の地に指定したのです。この神託により神宮を現在の伊勢に建て、斎宮を五十鈴川の辺に建てました。これを「礒の宮」といいます。イスズ(五十鈴)はイススク(い濯ぐ)で、汚れを川の水で洗い清めることです。古代には斎宮の近くまで海岸が迫っていたので磯宮といいました。

『日本書紀』に同二六年一〇月に渡遇(度会)宮に遷し祀られたとあります。つまり、第一一代垂仁天皇二六年に現在の伊勢神宮(内宮)に鎮座したのです。天照太神と神体である八咫鏡は、八〇年のあいだ各地を廻ったことになります。この神宮の創立日が神嘗祭の日です。伊勢神宮は米を約束とおりに作りましたと報告するところなのです。また、神嘗祭が旧暦の九月一五〜一七日に行われる理由は、北斗七星が西北の空に低くかかり、地上に触れるばかりに近づくからです。そこで西北を負う豊受大神、つまり穀神・北斗に新穀を捧げ、捧げられた神饌は豊受大神からさらに太一である天照太神に供されると考えます。北斗の斗(枡)を通して供進された神饌が、「太一」に届くとします。旧九月一六日亥の刻(午後一〇時)と、翌一七日丑の刻(午前二時)の二度の供饌は「宵暁由貴大御饌」(よいあかつきのゆきおおみけ)といい、子の刻を中心とし、その一二時間後の一七日の午の刻(正午)に、斉内親王による「太玉串奉立と奉幣の儀」が行われます。由貴大御饌が星に関係するのであれば、神嘗祭も星の位置に関係するといえます。なぜなら、北極星は一名、子の星といわれ、子の刻を中心とする由貴大御饌の儀において、北斗の剣先は子(真北)をさします。一二時間後の奉幣の儀に北斗の剣先は午(真南)をさすからです。神嘗祭・二季月次祭(旧六月と一二月)を三節祭(みみしのまつり。三時祭)は重視され、斉内親王が参入し親察されるのは、この三つに限られていました。このなかでも最も重視されたのが神嘗祭です。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一二二頁)。同二七年八月に諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定め、来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興します。同三九年一〇月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納めます。この後、五十瓊敷命に命じて神宮の神宝を掌らせたのです。垂仁天皇は活目入彦五十狭茅尊・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古大王」と見えます。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説があります。(『伊勢神宮のすべて』別冊宝島一〇三頁)。また、『日本書紀』に記された史実は、垂仁天皇二六年に天照大神を伊勢に遷したという伝承と矛盾するとし、天武・持統天皇の時代に、万世一系の皇室神話が最終的な形にまとめられ、伊勢神宮が皇祖神を祀る神社となったというのが実情といいます。

津田左右吉氏は『日本書紀』崇~六年・垂仁二五年の記載から、伊勢神宮の建設は神代史の最初の述作の後で、伊勢に天照大神を祀る神宮が建てられた時期を六世紀後半とします。そして、崇~・垂仁紀の天照大神の伊勢鎮座の物語が、初めて語り出された時期を推古朝(五九二〜六二八年)とします。天皇が住む大和から見て東の日の出る方、天照大神がそこで生まれたという思想の現れとのべます。(『日本古典の研究』『津田左右吉全集』第一部。二四六頁)。丸山二郎氏は大和朝廷の国家的な東国への発展にともない、伊勢の土地の神と大和の天皇家の祖神である天照大神との習合がなされたことが、天照大神の伊勢鎮座の要因とのべています。直木孝次朗氏は伊勢神宮の成立の時期を五世紀ないし六世紀前半とします。伊勢神宮の前身である伊勢大神の社にも、太陽神が祀られており、天照大神と合体して伊勢神宮になったとします。大和朝廷の東国経営が活発化するのは、五世紀中葉であり六世紀にピークになります。伊勢は海上交通の要所でした。つまり、伊勢神宮はもと一地方神を祀る社であったのが、天皇家が皇祖神である天照大神を祭神としたのです。その時期は六世紀初頭以後、古く見ても五世紀後半の雄略朝ころと推定します。雄略期にワカタラシヒメを伊勢大神の祠に待斎する記事があり、以下、継体・欽明と続くことによります。これらの推定から伊勢神宮(伊勢大神)の所在地は変わらず、始めから神宮の建造物があったといいます。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』四頁)。内宮の荒祭宮の境内では、五〜六世紀頃の遺物が出土し、「荒祭宮祭祀遺跡」と呼ばれる遺跡があります。内宮地は古くから祭祀の場です。『止由気宮儀式帳』には雄略期において外宮の起源譚があり、ヤマト王朝が勢力を強めた時期にあたることから、神宮創始の時期とする見方があります。(岡田靖司著『古代王権の祭祀と神話』)。雄略天皇の四七七年に、河内・大和から伊勢へ移したときを伊勢神宮(内宮)の起源といいます。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、一六頁)。また、五十鈴川の上流には古代から高麗広(こうらいびろ)の名をもった村邑が現存しており、伊勢は新羅人が開拓した地といいます。これは伊勢の川流域の地名、豪族集団、神社名によって裏付けられるとします。『延喜式神名帳』に宮中神三六座のなかに、園神社(そののかみやしろ)は新羅系であり、韓神社(からのかみやしろ)は百済系で、朝鮮の二神が宮内省に座ます神として明記されています。宮中では朝鮮神を祭祀していたことを明示しているのです。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』一八七頁)。また、伊勢には安倍臣の勢力が浸透していました。柳田國男氏は『山宮考』に、山宮祭は内宮禰宜荒木田氏と、外宮禰宜の度会氏の祖霊の祭祀とのべています。この山宮神事は年一回それぞれの山宮にて行われ、祭場は葬地であったといいます。

前述しましたように、天武天皇(六八六年没)は天照大神を皇祖神として伊勢に祭祀することを決定しました。しかし、三輪氏(大三輪神・大神高市麻呂)は反対します。それは、倭王を支えた三輪山から伊勢神宮に祭儀の主権が移行するからです。結果、賛成派の中臣氏(天照大神)の意見が通ります。それを受けて持統六(六九二)年二月に持統天皇は、天照大神鎮座のため伊勢行幸を決意します。同年三月に伊勢神宮の竣工を迎え、持統天皇は~宮の開創を孫の軽王(文武天皇)に委ねます。六九七年八月一日に軽皇太子が即位します。翌六九八年一二月二九日に多気大神宮(寺)、すなわち、滝原の伊勢大神が新装された五十鈴川辺の伊勢神宮に遷されます。すなわち、六九九年正月元旦に伊勢神宮は正式に開創されたのです。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』二〇三頁)。伊勢神宮を五十鈴川沿いの現在地に建てる以前は、宮川上流の滝原宮にあったと推定されています。多気大神宮寺は宝亀三(七〇二)年に渡會より飯高に移り、神護景雲元(七六七)年十月一二日に伊勢国逢鹿瀬寺(おうがせじ)を大神宮寺とすべき宣旨が下され、官寺としての神宮寺が成立します。しかし、持統天皇以降、明治天皇まで伊勢神宮への行幸はありませんでした。それに比べ持統天皇は吉野行幸を繰り返しています。持統三(六八九)年から在位中に三一回、文武天皇が即位してからも一度行幸しています。熊野行幸を例にしますと、熊野行幸は一〇九〇年の白河上皇からといわれ、白河上皇は九回の熊野行幸を行い、後白河上皇も三三回の熊野行幸を行っています。伊勢神宮への行幸がなかったのは、天武天皇の意に反して天皇家の皇祖神を祀る神宮とはされず、天武天皇の私的な祭祀霊場とされたのではないかといいます。皇祖神と霊威神としての大神という二重性をもっていたからです。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、九頁)。また、天照太神と宝鏡の祭祀は神宮形成の要となります。崇神天皇から文武天皇にいたるまでを七期に分け、殿内祭儀・庭上祭儀・床下祭儀・皇女祭祀・外宮先祭・外宮祭祀などの由来・事歴から、神宮内の諸祠の謎ともいえる、複雑な祭祀がなされた由縁が究明されるといいます。(黒田龍二著『纒向から伊勢・出雲へ』一七六頁)。

【外宮】

式年遷宮の制度が定められたのは六八五年、持統四(六九〇)年に内宮の第一回遷宮が行われ、持統五(六九一)年一〇月に藤原京の地鎮祭が行われ六九四年に遷都します。外宮の遷宮は六九二年に行われました。外宮が鎮座したのは内宮より約五百年後のことです。外宮は第二一代雄略天皇(四五六〜四七九年)のときに、神託により丹波国から遷座されました。ここも元伊勢といいます。『太神宮儀式帳』の中の『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)は、延暦二三(八〇四)年に禰宜五月麻呂らが神祇官提出したもので、ここには鎮座の由来から、殿舎、朝夕大御饌行事、遷宮用物および装束、遷宮行事、所管神社、禰宜・内人・物忌らの職掌、年中行事などの九条について詳しく記されています。内宮正殿と同じく心御柱が正殿にあり、平安時代までは内宮の翌々年に式年遷宮をしています。雄略天皇は夢告をうけ、丹波国の天橋立付近に祀られていた豊受大神を迎え、伊勢に祀ったのが外宮です。「受」(ウケ)とは食物を意味します。

また、伊勢地方におけるソ(牛)族集団の祖~が神宮の原型であり、神宮創紀に最も関係が深かったのではないかといいます。外宮の豊受大神宮の神官は代々度会氏でした。度会氏の祖先は「乙及古命」(四九八〜五〇六年)です。読み方は「ウルのフルみこと」といいます。ウルとは「牛」のことといいます。つまり、牛を家畜とした遊牧部族が度会氏の祖先となります。モンゴル語では国をウルスといい部民を指すといいます。扶余では牛を部族名とする牛加がおり、扶余の分派部族が高句麗になります。牛と塩(ソ)をもたらした族集団が伊勢のソ族であったといいます。伊勢の勢は牛・蘇・塩のことです。伊勢の伊は「イ」族集団で、「伊」が地名につくところは新羅系といいます。つまり、伊勢人がウル・フル・ソの古代語を、そのまま神社名・地名で残していることや、皇祖神として創祀された伊勢神宮が厳然として存在しているのは、伊勢人の心底に新羅人としての根強いものがあるといいます。このイ族は次に来た「馬」族に征服されます。この馬一族は天皇族大和王朝であったといいます。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』八九頁)。豊受大神を迎えて祭祀した理由は、外国との国の威信を示すべき時代であり、富国にするために産業神が必要であったといいます。