208.伊勢神宮の建築                        高橋俊隆

【伊勢神宮の建築】

現在の伊勢の宮域は約五五〇〇fで、伊勢市の四分の一を占め東京ドーム四四個分といいます。宮域の九割以上は林となっています。用材を伐採する山を杣山といいます。江戸中期に木材が不足したので、木曽山が御杣山となりました。一回の遷宮に一万本以上の檜を必要とします。檜は太陽光を浴びて成長します。そのため杣人は受光伐をして、針葉樹と広葉樹の混交林を育てています。落葉を肥料として大雨に強い杣山を育て続けています。『皇大神宮儀式帳』に内宮正殿いがいに、荒祭宮・月読宮・伊雑宮・瀧原宮の別院四院が記されています。荒祭宮は内宮敷地内にあります。月読宮は荒祭宮とともに太神宮の北に位置し距離は三里以内にあります。伊雑宮・瀧原宮(度会郡 大紀町)は「天照太神の遙宮(とおのみや)と記しているように、距離は大きく隔たりがあります。伊雑宮の神を伊勢磯部(海部)の信仰した地方的な太陽神ともいいます。伊雑宮御田植祭のとき、神田に立てられた忌み柱に太い一本の青竹が縛りつけられ、その上方に大翳が上下二つあり、上には日月と蓬莱山、下には神宮の紋ところの「太一」をつけた帆掛け船(太陽船)に、伊雑宮に向かう様子が描かれています。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』七六頁)。渡来した海洋民族の存在があるといいます。

昭和九年に始まった法隆寺金堂の解体修理にて、福山敏男氏は正殿の建築様式の一部が、斑鳩の法隆寺金堂の建築様式に近似していたとのべています。神宮の鏡形木は形式化したもので、法隆寺の場合は実用的で本来の形であるとし、宮殿建築などを含む大陸建築の系統に属するといいます。稲垣栄三氏は伊勢神宮正殿の桁行三間、梁間二間、平入という平面は、仏堂における母屋の基本的な形であるとし、古代の内宮正殿の柱間寸法が桁行一二尺、梁行九尺であったことについて、古代の仏堂との相似を指摘しています。伊勢神宮の中枢部にあたる左右対称の配置や、四棟の宿衛屋は四天王に擬えることから、仏教の伽藍配置に倣ったのではないかともいいます。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』二二〇頁)。磯崎新氏は正殿の四周の高欄と、それに連続する陸橋の手摺りにある火焔文様のついた珠玉の色彩配置について、この配色が道教由来のものであるとのべています。

伊勢神宮は唯一神明造といい、棟持柱・千木・鰹木・萱葺き・掘立柱という日本古来の建て方を保持しています。神明造は神社の原型、神棚も神明造になっています。『日本書紀』の神武元年正月に、「宮柱底磐の根に太立て、高天原にチギタカシ」とあり、萱葺き・板葺きの屋根に鰹木・千木を載せ、柱は地中に埋める神明造風であったと推測されます。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』二二頁)。これは弥生時代の高床式倉庫を淵源としています。大切な穀物を入れる高床式倉庫が、やがて神宝を納めるようになり、神社に変わったと考えられています。神宮神田が納められる御稲御蔵(みしねのみくら)も神明造になっています。御塩汲入所や御塩焼所は天地根元造と呼ばれる建築様式で、切妻葺き屋根が地面に接するように作られており、竪穴式住居を彷彿させる姿となっています。出雲大社を始めとして出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣っています。千木と鰹木は建物の補強のものと考えられています。鰹木は棟上に並べられた横木で、本来は棟を押さえる重しといいます。鰹木の名は形が鰹節に似ていることが由来とされ、「堅緒木」「堅魚木」「勝男木」「葛尾木」などとも書きます。断面は円・角・五角形などさまざまです。

今城塚古墳(継体天皇陵)から出土した家形埴輪の棟木の上に、並列に並べられ鰹木が造形されており、古墳時代には棟飾りとして用いられていたことがわかります。鰹木の棟飾りは神の住まいである本殿に用いられ、天皇の宮殿などの首長の住居を象徴していました。鰹木の数は奇数は陽数、偶数は陰数とされ、男神・女神の社に見られます。しかし、伊勢神宮はともに祭神が女神ですが、内宮では千木・鰹木が内削ぎ・一〇本、そして、外宮は外削ぎ・九本となっています。同じく別宮では祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎ・偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎ・奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同じです。この理由には諸説があり、外宮の祭神はもともと男神的性格を帯びたものであったとする説があります。女神を水平、男神を垂直とする説、また、地祖の神は垂直、他から入ってきた神は水平という説もあります。内宮の鰹木の数は一〇本、外宮は九本、九番目は壬、一〇番目は癸です。これは北方を象徴する十干の壬癸を祭屋の最上部において鰹木の数によって表現しているという説があります。

五節舞は天武天皇が吉野宮で弾琴をしていたとき、天女が出現して袖を五度翻して舞ったのが始まりといいます。陰陽五行と伊勢神宮の祭式は天武天皇と結びつき、それ以前の神宮の祭式とは性格が変わったといいます。五節舞は「五節田舞」といい、本来は五穀豊穣を祈願する農耕呪術的な田舞といわれています。袖を振るのは呪術的であり、五回振るのは五に関しての儀礼です。内宮にはなく外宮に伝承されていたのは、北斗の宮と関連します。新嘗祭の前日に行われる鎮魂祭と同じ意味があるといいます。また、内宮は太一神の居所といいます。遷宮にはさまざまな装束が整えられます。そのなかで特別なものが「屋形文錦の御被(みふすま)」です。御被は衾とも書きます。衾は身体の上にかける寝具のことで、木綿・麻などで縫い、普通は長方形ですが袖や襟を付けたものもあります。現在の懸け布団の役割をしたものです。遷宮のときに神体を蔽う夜着として使用されます。この文様は門外不出で他に使用しません。屋形は太一神の居所としての内宮を象徴するもので、中国風の廟を思わせます。これにたいし、外宮に伝えられている文様は「刺車文錦(さしくるまもんのにしき)」です。『宝基本記』によりますと、屋形文様は昊天の本居であり、豊受宮の小車(刺車)文様は宝車に乗って四天下を廻り、万類を救済するということが書かれています。ここから想起することは、屋形は「太一」をあらわし、刺車は北斗七星をあらわしていることです。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一〇九頁)

内宮正殿は北極星   太一

東宝殿は       北斗

西宝殿は       南斗

という見方があります。ユキ・スキが、北斗・南斗を通して太一への供饌であるとします。正殿から六七度の角度に東宝殿と西宝殿があります。これは北極星を中心とした南斗・北斗の角度と一致します。また、外宮内院の東宝殿・西宝殿の角度は九八度になり、これは玄武宿が天空において占める角度と等しいといいます。つまり、内宮・外宮ともに天地合一相の造型であるとします。

内宮―午・・・・東宝殿は寅、西宝殿は戌の方向になります。

外宮―子・・・・東宝殿は辰、西宝殿は申になります。

この内宮・外宮の構造は三合構相として把握できます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』二〇七頁)。伊勢神宮の内宮にあるヒンプン(蕃塀)は道教の魔除けです。これは悪鬼や悪霊は直進しかできないと信じられ、それを門のところで防ぐ呪具となります。読み方は福建省で屏風と書いてヒンプンと発音しているところから沖縄に入ってきました。中国にある「屏風面」の、沖縄化したものといわれます。伊勢神宮の内宮と外宮の一番外側には、東西南北の四つの門があり、その前に蕃塀という板垣があります。ヒンプンは門の中にありますが、蕃塀は外側にあります。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』二二九頁)注目されるのは、伊吹山と元伊勢内宮を繋ぐ線上に出雲大社と冨士山があり、この中央にあるのは平城京です。陰陽五行説と符合します。(『伊勢神宮のすべて』別冊宝島九五頁)。伊勢神宮は大和朝廷から真東にあたり、ともに北緯三四、五度線上にあります。伊勢神宮の祭祀は中国の祖霊信仰に基づいて、北方を重視した陰祀で構成されています。それゆえに、心のみ柱への供饌と神衣奉献が最重視されます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』二一六頁)