209.『古事記』と道教 高橋俊隆 |
『古事記』天武天皇は天武一〇(六八一)年三月一七日に、新たに帝紀を作成するため川嶋皇子・忍壁皇子・三野王(美濃王)・忌部首(子人)や、筆をとった中臣大嶋と小首など一二名を指命します。『古事記』の序文では天武天皇の勅を受けて、「帝紀」・「旧辞」を誦した人物として稗田阿礼が記載されています。序文に「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」(帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ)と、太安萬侶が稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を選録したとあります。これまでに諸家に伝える帝紀や旧辞(神話・伝説・歌謡物語など)を正しい史実に整理することでした。神代から推古天皇に至るまでの古事を記録したものです。そして、和銅五(七一二)年に太朝臣安萬侶(太安万侶)によって献上されました。この選録の期間は約四ヶ月で、全文が漢字で書かれています。漢字の用法には音仮名と表意機能のほかに訓漢字が認められ、古代の日本語表記の新しい文体の三つの漢字用法が認められます。この文章を構成する骨子は金石文や古代木簡などに見られるといいます。太安萬侶の功績は漢字が日本に伝来して以来の用法・方式を採り入れて、統一的な用字法をもって、『古事記』を作りあげたことです。(『日本の古代』一四、小林芳規稿、三二〇頁)。 また、この記載から勅撰の『日本書紀』に近いことがわかります。『古事記』の原本は現存せず、『日本書紀』における『続日本紀』のような物証もないため、古事記偽書説も唱えられています。数本ある写本のなかで最古のものは南北朝時代のもので、成立年代はこの写本の序に記された七一二年によります。また、天皇と祭神(皇祖神)を結びつけ、天皇の権力の正統性を証明する文言に疑義があります。公式記録ではなく南北朝以前の文言をどこまで保持しているかが検討の課題となっています。また、稗田阿礼の実在性が薄く、「アレ」とは巫女のこと、藤原不比等とも言われています。また、七世紀後半に成立していたという指摘があり、仏教的な要素が意図的に排除された可能性があります。序分が上表文の体裁をとっていることが、本編とは別個に存在していたなどの議論がなされています。太安万侶の子孫という『弘仁私記』の多人長が、多(太)家に伝わっていた『古事記』に「序」を付け足したとも推測されています。(三浦佑之氏『古事記』洋和泉社発行。四八頁)。『古事記』は帝紀と旧辞があります。帝紀と旧辞は別々ではなく一体のものであったといいます。初代天皇から第三三推古代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、ほかに皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、治世の出来事などを記しています。神代における天地の始まりから、古墳時代より飛鳥に入る推古天皇の時代に至るまでの、神話伝説や歌謡を収録しています。説話的部分は武烈天皇のころで終わり、そのあとは系譜のみになります。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して、天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げる慣習でした。帝紀と旧辞は重なる部分があり簡単に類別できないといい、『記紀』完成以前に口誦伝承として記録されていたものといいます。(上田正昭著『私の日本古代史』下。四六頁)。六世紀半ばになり文書として記録されました。『古事記』の特徴として、神典の一つとして神道を中心に綴られていることです。日本・大和という表記はなく、「倭」という言葉を使っています。倭言葉の語りを駆使して出雲神話を詳細に語っていることにあります。出雲市の荒神谷遺跡からは、二世紀半ばに作られたとする銅剣が三五八本出土し、続いて銅鐸・銅鉾も出土しています。出雲が大きな国家であったことが確実となり、銅剣の三五八本という数は出雲の神社の数に近いといいます。『古事記』中の神々は多くの神社で祭神として祀られています。その例として「高天原」という語が多用されます。出雲神話は須佐之男と大国主神を主人公としています。須佐之男は出雲の始祖神であり、船通山に降り立ったのは天孫瓊瓊杵尊が高千穂に降臨する前のことでした。結果的に大国主神は葦原中国を天孫に国譲りをし、高天原まで届く住まいの建立を懇望します。吉栗山の木材を使用して完成したのが、日本一の高層建築物といえる出雲大社でした。相撲は古代の高天原族(天孫族)と、出雲族の戦争の神話化という説があります。これは建御雷神と建御名方神の力くらべが、古代における神事相撲に結びついたもので、建御名方神が戦に負け落ちのびた信濃には、怨霊を鎮めるために諏訪大社が造られています。相撲の原形を国譲りの戦争(力くらべ)とみるのです。この神話は『古事記』にのみ残され『日本書紀』にはありません。 『古事記』と『日本書紀』も、その書き出しの部分から中国の神仙道教の哲学をもとにしています。太安万侶(七二三年没)の『古事記』序の漢文は、唐代の長孫無忌(六五九年没)の「五経正義を進つる表」などを下敷きにしています。序文が『九天生神章経』や『周易参同契』などの道教経典に基づいているという指摘があります。(『神道史大辞典』五四三頁)。また、『古事記』と『無上秘要』は共通したものがあるといいます。ほかに、六朝時代の道教文献が多く含まれているといいます。すなわち、『古事記』(日本古典文学大系『古事記祝詞』四二頁)の、「臣安萬侶言
夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形」(「臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ」)、『日本書紀』に引用している劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した『淮南子』巻二俶真訓(「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず」は、日本の正史とされた神話の『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき」の典拠となっています。『古事記』と『日本書紀』を書いたのは、帰化人の知識層であったと推測される所以です。『古事記』の編者である太安万侶の墓が、奈良市比瀬町の茶畑に発掘され(昭和五四年)、その墓誌にある「卒之」は道教の意味するものです。(福永光司著『道教と古代の天皇制』四〇頁。『道教と古代日本』一四三頁)。『古事記』『日本書紀』の天岩戸の物語に共通することは、中臣氏の遠祖の天児屋命が祝詞を申し、忌部首の遠祖太玉命が幣帛にたずさわることです。これは大嘗祭の両氏の儀式と同じです。つまり、この物語作製の意図は宮廷儀礼を整備することにありました。天孫降臨のとき天児屋命らが五伴緒となり、それが宮廷の大嘗祭を背景として定着したことです。中臣・忌部の両氏は、倭王の祭祀を補佐する役職を世襲していました。その両氏が祭官の上位となり神事の中心的役割を果たすのは、天武天皇の即位を契機としているといいます。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』五五頁。「天孫降臨の説話」の比較表は六四頁にあります)。 |
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