210.『日本書紀』と道教                高橋俊隆

『日本書紀』と道教

『日本書紀』の冒頭に、「古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物。状如葦牙。便化爲神。號國常立尊」(古、いまだ天地わかたれず、陰陽わかれざるとき、渾沌たること鶏子(とりこ)のごとく、その清く陽(あきらか)なるものは天となり、重く濁れるものは地となる。天が先ず成りて、後に地が定まる。然して後、神聖その中に生(あ)れます)とあります。また、『古事記』上巻序に、「混元(渾沌とした宇宙の元素)すでに凝固し、気象(宇宙の根源の気と作用の現象)いまだに効(あらは)れず。名もなく、為(わざ)もなし。誰かその形を知らむ。しかれども、乾坤(けんこん=天地)初めて分かれて、参神(宇宙に最初に出現した三神)造化(創造)の始めとなり、陰陽ここに開けて二霊(いざなぎ・いざなみ)群品(万物)の祖(おや)となりき」とあります。この文との旧通性を『淮南子』前漢の武帝の時代(BC一四〇年)に、淮南王劉安によって撰された書といいます。この中の「天文訓」の始めにある天地創世紀の文、『三五暦記』(二二〇~二八〇年。呉の徐整撰)の文、『尚書大伝』の中国古典の借用であるといいます。この『淮南子』の天文訓には、「天(地)未形、馮馮翼翼、洞洞灟灟、故曰太(大)昭。道始于虚、虚生宇宙、宇宙生氣。氣有涯垠、清陽者薄靡而為天、重濁者凝滯而為地。清妙之合專易、重濁之凝竭難、故天先成而地後定」とあります。また、「俶真訓」に、「有未始有夫未始有有無者、天地未剖、陰陽未判、四時未分、萬物未生、汪然平靜、寂然清澄、莫見其形、若光燿之間於無有、退而自失也」と書かれています。

『三五暦記』には、「天地渾沌如雞子、盤古生其中。萬八千、天地開辟、陽清為天、陰濁為地、盤古在其中、一日九變。神於天、聖於地。天日高一丈、地日厚一丈、盤古日長一丈。如此萬八千、天數極高、地數極深、盤古極長。后乃有三皇。數起于一、立于三、成于五、盛于七、處于九、故天去地九萬里」(天地は鶏子(卵殻の中身)のように渾沌としていた、そのなかで盤古は誕生した。一万八千年を経て、天地が開けると、陽(あきら)かで清らかな部分は天となり、暗く濁れた部分は地となり、盤古はその中間に在って、一日に九回変化した。天では神、地では聖となる。天は日に一丈高くなり、地は日に一丈厚くなり、盤古は日に一丈背が伸びた。このようにして一万八千年を経て、天は限りなく高く、地は限りなく深くなり、盤古は伸長を極めた。後に及んで三皇が出る。一にして数え始め、三にして立ち、五にして成り、七にして盛んとなり、九にして場所が定まる。それ故に、天と地は九万里(四万五千㌔)離れた)とあります。これは、次のように、『日本書紀』への影響は周知のこととなっています。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』二頁)。

「天地混沌如二鶏子一」――『藝文類聚』(天部)引用

「混沌状如二鶏子一」―――『太平御覧』(天部)引用

「溟涬始牙、濛鴻滋萌」――『太平御覧』(天部)引用

つまり、日本の文化の基底に中国の思想が濃厚にあることがわかります。『日本書紀』が作製された時代の日本の統治体制がうかがえます。そして、陰陽思想が含まれていることを考慮しなければなりません。中国の盤古神話は倭国や古朝鮮の「天地開闢神話」の原典となります。「三五暦記」「五運歴年記」「述異記」などに記述されていましたが、早くから散逸し現在では「芸文類聚」「太平御覧」などの逸文から断片的にみることができます

ところで、津田左右吉先生は『記紀』の記載が一致していないとします。たとえば、歴代天皇の年齢の違いなど。『古事記』は一つの帝紀と一つの旧辞をまとめたものであり、『日本書紀』は「一書」という異本の説を引用しています。この違いを比較対照することにより、神代史の原形変遷の跡が見えるといいます。その相違を六点あげています。(『日本古典の研究』『津田左右吉全集』第一部。七〇頁)。また、『日本書紀』の記載に事実と認められないものが多いといいます。たとえば聖徳太子の薨去の年が、法隆寺の釈迦像の銘よりも一年早く、日も違っていることなどを具体的にのべています。その理由として天武一〇年に川嶋皇子ら一二名に命じてより三八年を要し、それが間断なく継続されたわけではなく、幾人もの手によって潤色修補されたことによるといいます。その改変のあとが「一云」「一本云」「或本云」などの注記とします。その本のなかに『日本書紀』の稿本と認められるものがあるとのべています。また、日本国と東アジアとの関わりが、七世紀から八世紀にかけて政治的な課題となることから、『古事記』には「邦家の経緯、王家の鴻基」を定める目的があり、『日本書紀』は紀としての面目のため潤色があるといいます。(上田正昭著『私の日本古代史』下。五二頁)。