214.東西文部の祓い(祝詞・金人)         高橋俊隆

東西文部の祓い(祝詞・金人)

『延喜式』「祝詞」に収められている「東西文部(やまとかわちのふみべ)の祓い」のなかにも、道教の影響が見られます。東文部は応神天皇(在位二七〇~三一〇年)のときに渡来した、後漢霊帝の曾孫と伝える阿知使主の子孫で、大和に住み東文部の忌寸部となります。秦一族との関連もあります。応神天皇在位の紀元二四〇年前後の頃に、弓月君(ゆづきのきみ)に率いられた一二〇県(あがた)の人民が、大挙して日本に渡来しています。一県一千人としても、十二万人という数になります。この一族は秦(はた)と称し、朝鮮半島の新羅から加羅(伽耶韓国)を経て日本に定住します。秦一族の故郷は巨丹(現・新疆ウイグル自治区ホータン)で、漢民族ではありません。シルクロード交易の地であり、早くから鉄や銅の冶金技術を得て、農具や武器に取り入れ、絹や綿の紡績に優れていました。秦一族は兵馬傭坑の顔立ちかが示すように、多民族国家といいます。漢民族の侵入により、秦一族は諸方に散逸し、朝鮮半島にも大量に流入します。このとき「柵外の人」という意味の秦人(はたびと)といわれました。日本に渡来した秦一族は、山城国(京都府)葛野(かどの)郡を本拠にして、養蚕・紡績業に従事することになります。秦酒公は朝廷から「うずまさ」の姓を与えられています。日本にとって秦氏が着目されるのは、その支族の中に中臣氏がいることです。六四五年の大化の改新クーデターを成功させ、内臣として国政改革にあたった中臣鎌足は、藤原の姓を賜り藤原氏の大祖となります。藤原氏は天皇家と密接な姻戚関係を結び、表は天皇家、裏は藤原家という権力を掌握します。西文部も同じ時代に渡来した百済の子孫で、河内に住み西文部の忌寸部となっています。朝鮮半島南部の西側が百済で、その百済から渡来した人が文氏を名のっています。西文(書)氏系の人達の文化を特徴づけているのは騎馬の習俗です。五~六世紀ころの河内平野は日本における馬の文化の中心でした。(『日本の古代』一一、大林太良稿、三一〇頁)。後期古墳に副葬されている武器や馬具は胡族の騎馬様式と同類であることは前述しました。後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的要地と認められるところに多いのが特徴です。『日本書紀』天智七(六六八)年七月の「多(さわ)に牧(むまき)を置きて馬を放つ」の記事は御牧の初見ですが、以前から各地に牧が置かれていたといいます。この場合の牧は馬や牛を放し飼うために区画された地域のことです。『和名抄』には「むまき」とあり馬置のことといい、馬飼の音のつまったものともいいます。のちに、朝廷の直轄牧場としての御牧となり、甲斐・武蔵・信濃などの国々に設けられました。南部波木井氏も御牧に携わっていました。

この東西文部の祓いは、神社において六月の晦日と一二月の晦日の大祓のときに行う儀式です。東西文部が刀を奉る儀式のことで、この大祓のとき中臣氏が祭りの主催をし、そのときに唱える祝詞が道教的な漢文なのです。「東の文の忌寸部の横刀を献る時の呪」つまり、金の刀を道教的な神にささげ、天皇の位がのび、世界が永久によく治まるようにとの呪文です。おもに平安時代におこなわれ、祓刀(はらえのたち)は罪穢を断ち切るために用いられます。『法曹類林』(巻二百)には大伴門(朱雀門)と壬生門の間の二条大路に百官が集まって大祓をしたとあります。汚れや罪を祓い清浄にする儀礼です。神祇令によりますと、始めに中臣が天皇に御麻(おんぬさ)を奉り、次いで東西文部が祓刀(はらえのたち)を奉り祓詞を読みます。この祝詞(「東文忌寸部献横刀時咒」)の本文は次の通りです。「謹請、皇天上帝。三極大君。日月星辰。八方諸神。司命司籍。左東王父。右西王母。五方五帝。四時四気。捧以禄(銀)人。請除禍災。捧以金刀。請延帝昨。呪曰。東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治万歳。万歳万歳。」(日本古典文学大系『古事記祝詞』四二六頁)。「東」(山東)は「ヤマト」と読みます。奈良県(生駒)の方になります。このあとに、百官の男女が祓所に集まって中臣が祓詞をのべ卜部が祓い清めます。つまり、大祓の神事に日本人ではなく、渡来系の文氏が祓いの刀を奉り祝詞を読むのです。東西の文部の渡来人が、「横刀(たち)を献るときの呪」(『延喜式』)、「祓刀を上り、祓詞(はらいのことば)を読む」(『養老令』神祇令)ときのものです。しかも、その内容は道教の思想なのです。日本の神ではなく中国から古くから崇拝された神なのです。その神々に天皇の治世が永く続くことを謹んで請い願うのです。皇天上帝・三極大君・東王父・西王母など道教の神、神仙の名前です。皇(昊)天上帝とは道教でいう天上を支配する天神のことです。三極大君とは皇帝に象った紫微星(しびせい)があり、古代中国の天文学で紫微垣(しびえん)に属し、北斗の北にある星で天帝にたとえられています。三極大君とはこの紫微星のまわりにあって補佐する三つの星の神をいいます。最高の地位にあって天子を補佐する三人(三公)にかたどっています。日・月・星と辰(星座)、八方の諸神。人間の寿命を司る星の神とその帳簿を司る司命司籍、陽の気の精である男の東王父と、陰の気の西王母、東王父は男の仙人、西王母は女の仙人です。そして、東西南北朝と中央にいる五方五帝の神、春夏秋冬と暖暑冷寒の四時四気を司る神に、天皇の災厄を祓い皇位がいつまでも続くことを懇請するわけです。気がつくことは、これらの神が中国の神であり内容は道教的文言なのです。つまり、道教の呪文を読むのです。このことから、神仙道教の思想が朝鮮から入ってきたことがわかるのです。(福永光司著『道教と古代の天皇制』四一頁)。東西文氏の漢語の祝詞は謎に満ちた文書で、複雑であり難解といわれるのは(渡来人研究会)、日本の古神道よりも中国や朝鮮の道教思想が強く主張されているからです。

この儀式のときに福善をあらわす人形(ひとがた)を使います。人形に金銀を塗って災禍を除く呪法をします。金で作った刀を捧げて天皇の位を延命することを願います。世界が永久に治まることが祝詞に書かれています。この大祓のときに人形が使われる理由は、『赤松子章暦』によりますと、人形には多種あり病死人が続出するときの身代わりとして銀人を使います。官吏赴任の道中安全を祈るときには金人を使い、鎮墓や延命祈願には錫を使ったといいます。(福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡を歩く』一三二頁)。『延喜式』のなかに、このとき金・銀人像や鉄人像が祭具として使われたとあります。平成十五年六月に藤原京城の一条大路と中ツ道の交差する付近から和銅二(七〇九)年の木簡と、銅製の人形(長さ約九㌢、幅八~九ミリ)が六点出土しました。このような人形を御贖(みあがもの)といい、金属製の人形を用いて祭儀を行います。このような祭儀は大祓のほかにも見られます。難波津の八十島神祭や畿内堺十処疫神祭、伊勢神宮の鉏鍬柄採祭・山口神祭・採正殿心柱祭・造船代祭などがありました。この人形は人間の分身としてけがれを移して使用したと思われ、貴族は金属製、貴族以下は木製を使用したともいいます。呪いにも使用したことが分かっています。人形を流す風習は現代の流し雛や神事の紙人形へうけつがれています。明日香村の飛鳥坐神社の紙人形は、毎年六月と一二月大祓で使用されており、人形で身体を撫でて三回息を吹きかけてけがれを移し、藁船で川に流します。全国の多くの神社でも同様の神事が行われています。

この儀式からわかることは、仏教伝来よりも以前に、早くから異国の文化と思想が入っていたということです。『日本書紀』には三七二年に百済の使いである久氏らが日本に来て、七枝刀一口、七子鏡一面などの重宝を奉っています。交流は重ねられ、五一三年には五経博士段楊爾が来ています。そして、仏教は五三八年に百済聖明王から伝えられています。この祝詞は漢語で唱えられ、祖先以来の伝承であることが「延喜式」神祇令条に記されています。ここにみられるような道教的儀式は平安期に流行したとされますが、道教思想に基づく儀式は奈良以前からあったものと考えられています。これは、中国古代の神仙道教の確実な痕跡といいます。いつころから始まったかは不明といいますが、大宝令のなかに書いてあるので、大宝元(七〇一)年以前にはあったことになります。大宝二年一二月二二日に持統天皇が没し、その年末の大祓はしませんせんでしたが、東西文部の祓いの儀式は例年通りに行われ、この解除の儀式が重視されていたことがわかります。

明日香村の高松塚古墳の壁画なども道教による四神思想のあらわれであり、その伝播は必ずしも中国からではなく、高句麗など朝鮮半島が大きく関わっています。「高松」の高は高句麗の高で、松は平壌の都を古代では松(ソ)、日本語ではソと呼んでいました。ですから、高句麗塚と称していると同じなのです。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』五七頁)。この高松塚やマルコ山、奈良市石のカラト、羽曳野市ヒチンジョ池西古墳などの石槨の石材は、奈良県葛城市大阪府南河内郡太子町に跨がる二上山(にじょうざん)の南西、鹿谷寺(ろくたんじ)付近の石切場で採取されています。(『日本の古代』一〇、奥田尚稿、二七九頁)。二上山はかつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれました。金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(五一七㍍)と南方の雌岳(四七四㍍)の二つの山頂がある双耳峰です。この雄岳と雌岳の間に日が沈む景色から、神聖な山岳として崇められてきました。古墳時代から飛鳥時代にかけては、海上の交通の要所となり、大阪湾住吉津難波津から、政治の中心の舞台である飛鳥地方への重要なルートとなり、二上山の南に日本で最初の官道として知られる竹内街道が作られました。この周辺から日本最古の貨幣といわれる、和同開珎が出土しています。また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地であり、奈良時代に二上山山麓に造られた鹿谷寺跡は、凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院です。中国大陸には敦煌や龍門石窟などの石窟寺院が見られますが、奈良時代にまでさかのぼる石窟寺院は、二上山山麓以外には知られていません。寺跡の中心部には、十三重の石塔と岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が遺されており、仏教が伝搬していたことがうかがえます。

ここまででわかることは、仏教伝来以前の日本は固有の文化をもっていたというのは誤りということです。さきにものべたように、朝鮮に仏教が伝来したのは三韓時代(紀元前二世紀~四世紀)になります。日本よりもかなり早く受容されていたのです。(『日蓮聖人の歩みと教え』第一部第三章「三国仏教史」一七九頁)。豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)の日本といわれますが、この稲の文化は中国南部からと、朝鮮半島の南部から北九州に入っています。ほかに、銅剣・銅矛などの青銅器、鉄の文化は弥生時代に搬入したものです。とうぜん、その技術をもった人間も渡来したということです。それと同じように、この「東西文部の祓い」には、朝鮮渡来の人によって担われた道教の呪詞が奏状されているのです。祓い・禊ぎのルーツも同じ中国に繋がります。(上田正昭稿「古代信仰と道教」『道教と古代の天皇制』)。矛や剣を用いるのは鬼害を鎮圧するためです。卑弥呼の鬼道はこの影響を強く受けています。『抱朴子』のなかに巫が鏡を使って神を呼び降ろす方法がのべられており、鏡の文様に東王父や西王母などの道教の神、神像に羽があることも道教の祈祷具としての特徴をもっています。『東夷伝』に卑弥呼に「親魏倭王」の金印を贈ったことが載せられ、鬼道用の祭具として制作され送ったといいます。三角縁の神獣鏡を制作したのは呉の工人で、山形を三角縁にしたのは山岳信仰を表出したという見解があります。(重松明久著『古代国家と道教』一五八頁)。ほかに、道教では「天円地方」という考え方があります。(『笑道論』に「天円地方道家恒述」)。これを古墳にあてはめると天上に登る魂と、地上に留まる魄の二つの魂魄を想定することができます。天神と地鬼というもので、鬼道は地鬼の霊を相手とします。そこで、前方後円墳の前方部は鬼霊を封じ込め、後円部で死者の霊を天神として祀る理由となります。高松塚古墳の墓前の方形切石や、益田岩船の二個の方形の孔の用途も、道教の呪術に関連しています。飛鳥の石造遺物の代表的な酒船石や、亀石・須弥山纖石・二面石・石人男女像・岩船と呼ばれる石像の用途の解釈は、道教系の信仰をもとに解明できるといいます。(重松明久著『古代国家と道教』一六四頁)。しかし、近江朝廷は七世紀後半に、老荘道家の哲学である道教を排除しました。その理由は、「玄」、すなわち老荘の思想である道教は、「独善をもって宗となす、愛敬の心なく、父を棄て君に背くもの」と、葛井(ふじい)広成の対策文から断定しました。葛井広成は百済の王族、王仁一族で河内に住み、白猪史(しらいのふびと)を称していました。養老三(七一九)年に遣新羅使に任ぜられますが辞退しています。聖武天皇からも信頼され、翌年葛井連(ふじいのむらじ)の姓を賜りました。在原行平・業平らの祖母は葛井氏の出身です。律令体制の基軸は家族道徳を重んじた国家の統治を目指しました。つまり、儒教のように忠孝を説かない思想は、国主・君主の絶対的な権威が保証されないため排除されたのです。(福永光司著『道教と古代の天皇制』四六頁)。