215.天照大神と伊勢大神                  高橋俊隆

天照太神と伊勢大神

『日本書紀』は天照大神の誕生を、神代編の冒頭で次のように記しています。「伊弉諾尊と伊奘冉尊尊は共同(結婚)して日神を生む。大日靈貴(オオヒルメムチ)と号す。一書に云う、天照大神。また一書に云う、天照大日靈尊」。この内容からしますと、天照大神の本名はオオヒルメムチで、アマテラスオオミカミは通称であることがわかります。「オホヒルメノムチ」の「オホ」は尊称、「ムチ」は「高貴な者」、「ヒルメ」は「日の女神」を意味します。しかし、第三一代用命期(五八五~五八七年)に二カ所にみえる「日神」を、天照大神と同一の神とするのは困難といいます。天照大神の出現は時期的に「日神」の次の段階であり、『日本書紀』の「日神」の記事は用命紀元(五八六)年正月壬子朔条を最後として消滅します。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』四一頁)。天武天皇一〇(六八一)年五月の条に「皇祖の御魂を祭る」とあることから、宮廷における皇祖霊祭祀に最高の皇祖神として、始めから天照大神が存在したのではなく、日神大日孁貴神が、のちに皇祖神としての天照大神に昇華されたとします。(『日本の古代』一三、上田正昭稿、二〇三頁)。神話の時代は高天原にいて、天の岩戸で知られるように太陽を象徴する神(日神)です。高天原は具体的には中国の雲南省あたりで、ここから米を持って日本へ渡来したという説があります。天照太神は孫の瓊瓊杵尊に三種の神器と米を託します。瓊瓊杵尊は長い旅をして高千穂に降臨します。この子孫が大和に来て天皇の先祖となります。それから崇神天皇の時代に疫病が流行し遷宮となります。そして、天武・持統天皇により天照大神は皇祖神となったという見方があります。『日本書紀』には「天照大神」「日神」「伊勢大神」の神名が記載されています。はたして同一の神なのでしょうか。

A 神代史より神功皇后条まで――日神 ・ 天照太神 ・ 伊勢大神

B 用命紀―――――――――――日神    ×      ×  

C 天武期――――――――――― ×   天照太神 ・ 伊勢大神

天照大神はAの神代史より神功皇后条までと、Cの天武紀の二つにみられます。日神(大日靈尊)はAの神代史より神武紀までと、Bの用命紀にみられます。伊勢大神はAの雄略紀から持統紀までのあいだにみられます。注意されるのは天照大神がBに現れないことです。天照大神、日神、伊勢大神は、性格・姿形・働きなどが異なっており、『日本書紀』に名前を使い分けている理由があります。三者を同一の神であるとすることは、三者の歴史を明らかにする立場と相容れないと指摘されます。出現の時期についてみますと、

一に、地域神としての伊勢の神があった。この段階の伊勢の神は倭王とは関係がなかった。

二に、雄略期頃に倭王による伊勢の神の祭祀が始まり、それに日神が重ねられ伊勢大神となる。

三に、天武期に天照大神が出現する。

『日本書紀』の記述は天照大神A→伊勢大神B→天照大神Cの順になっていますが、三神の出現の順位は、伊勢大神B→天照大神C→天照大神Aとなっています。つまり、伊勢大神と天照大神を同一の神とみなしています。(古典文学大系『日本書紀』下五四四頁)。田村圓澄氏は日神が天照大神に転身した理由について、日神は太陽・自然神であり歴史的な存在ではなかったため、天照大神は人の側に近づいたといいます。つまり、天皇との血縁的繋がりをもつために人格神でなければならず、天照大神は天皇家の歴史の出発点=祖神であり、天皇家と歴史を共有する存在でなければならなかったとします。また、『記紀』に現れた天照大神の特性を七点あげています。一、天下の主者。二、天皇家の祖神。三、容姿・振る舞いは人間的であり、言葉を発する人格神であるが、永遠の生命と無量の光をもっている。四、高天原に居住し離れることはない。五、天皇の尊貴身分は天照大神を源流とする。六、天皇が継承する日本の統治は天照大神の命令に基づく。七、天皇の統治権の内外にわたる拡大=侵攻につき、積極的な教導・援助をする。天皇一人に対し日本の統治を命じる政治的な神であったとのべています。(『伊勢神宮の成立』九二頁)。ですから、アマテラスは皇祖神として祀られたといえます。(津田左右吉著『日本古典の研究』『津田左右吉全集』第一巻。三三五頁)。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されています。天武期に天照大神が出現することにより、そもそも天照大神という神を造り出したのは、天武天皇であるという説もあります。無から創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという説です。これについてはタカミムスヒ(高木神)が旧来の皇祖神で、天武天皇がアマテラスに取り替えたとします。斎王は雄略天皇から推古天皇のときまであったと『記紀』にありますが、これについても大来皇女が最初とする説があります。

また、道教との関連から、天照太神に「太一」が習合されているといいます。すなわち、道教の神である太一が、日本の神である天照大神と同じ神ということです。この習合は秘事中の秘事で、神宮の内部の祀官たちは「太一神」の祭祀については記録しなかったといいます。これは、天武期に「太一」が天照太神に習合され、新たに伊勢神宮は五十鈴川畔に移転しました。そのとき太一との星宿の関係により内宮の西北の地に北斗も奉斉されます。これが外宮です。つまり、皇室の先祖神である天御中主神を北極星=太一とし、さらに天照太神を太一に習合させたのです。北斗を祀る本当の場所は穀蔵で、その穀倉だったのが御饌殿(みけでん)として残されました。北斗七星は穀物神であり穀霊です。倉との結びつきは、農事の時計としての目安になっていたこと、そして、倉は穀物を収納する地下の穴のことですが、それが、地上に収納することにより高倉と呼ばれました。天上に求めれば北斗といいます。ここに屯倉(みやけ)と妙見(北斗)の関連があります。この倉で毎朝夕に天照大神などの神々に食事が供えられています。外宮の正殿の裏側にあり、神々の食堂ともいえる外宮独特の建物です。太一に関連して注目されるのは、毎年六月二四日に行われる伊雑宮の御田植神事です。新田の西側の畦にさし立てられる大翳(おおさしば)が特徴です。長さ九㍍ほどの青竹の先端に、巨大な団扇(ゴンバウチワ)と扇型とを取り付けます。上の団扇には日月が画かれ、下の扇には舟の絵と「太一」の二字が大きく墨で書かれます。この大翳は神事の役人により、神田の中心に向かって引き倒される竹取神事が行われます。「太一」と書かれた団扇のついた忌竹を男たちが荒々しく奪い合う行事です。「太一」とは天照太神のことですので、この竹の一片や団扇の断片は御神符として持ち帰ります。これを船に祀れば豊漁となり、農民は豊作となるといわれます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一〇五頁)。