216.神道の形成                          高橋俊隆

◆第五節 神道の祭祀と道教

○「神道」の形成

中国における「神道」の語彙は、西暦前四世紀ないし三世紀ころから使われており、「易」の観の卦の彖伝(たんでん)に、「天の神道に観て四時たがわず、聖人は神道をもって教を設けて天下服す」とあります。この「神道」という言葉は一世紀の前漢の代になりますと、死者を葬った墓に通ずる冥道の意味としても使われるようになります。さらに、二世紀の後漢になりますと、呪術的な「道術」を意味するようになります。『太平経』のなかに用いられている「神道」の言葉に当てはまります。つまり、「神道」という言葉は古くから中国に成立しており、その「神道」という言葉を『日本書紀』の執筆者が取り入れたということです。「神道」の根源はここにあります。これに日本古代の呪術や信仰を一括する言葉として意味づけがなされたのです。『古事記』『日本書紀』の記述には、神話伝説の成文化の段階で、中国古代の宗教思想である「神道」の影響をうけていたのです。ですから、日本固有の習俗信仰の上に中国の思想が混在しているのです。このことは奈良・平安・鎌倉・室町と展開する日本の「神道」の教義書をみても明らかといいます。「神道」という言葉や「惟神」(かんながら)という言葉も後漢のころにでてきます。仙術・方術・幻術なども「神道」と表現しています。(福永光司著『道教と古代の天皇制』一三七頁)。『日本書紀』は中国の『史記』『漢書』などの正史を手本としています。文書が漢文で書かれているのもこのためです。内容としては神功皇后の項に中国の漢の高祖の皇后に呂太后があり、女傑であることから『漢書』からそのまま採用されたといいます。(上山春平稿「天皇制と祭祀」『道教と古代の天皇制』所収一〇四頁)。現在はどうなのでしょうか。『延喜式』の冒頭に神祇に関することが書いてあり、だいたい一年間の神祭りの内容となっています。この内容は中国の『周礼』のなかに書かれたことが、『延喜式』を介して宮中の儀礼に継承されています。たとえば、皇帝が毎春行う籍田の儀式があります。古代中国で宗廟に供える祭祀用の穀物を、天子みずからが耕作する儀式です。すなわち、皇帝が自ら田植えをする儀礼です。この意図は民衆に勧農を推進するところにもありました。皇后もこれに対応して、毎春、「親蚕」といって桑つみと養蚕の儀礼を行いました。このカイコを飼うことも『周礼』いらいの皇后の儀式です。本来はマユから糸を績いで、その絹で神御衣(かんみそ)を作って神前に捧げたのです。黄帝と皇后がともに行う役割は、家族道徳を重んずる儒家思想に取り組まれ、日本では朝廷いがいにも諸大名が農耕奨励のために行なっていました。

日本古代の祭祀に関しては道教関係のものがかなり入っています。たとえば、日本の神社の総元締めの伊勢神宮の祭りに類似点が多く見られます。伊勢神宮のご神体は鏡です。中臣真継らによって朝廷に献上された『皇太神宮儀式帳』によりますと、「御形は鏡に坐す」とあります。これは、『古事記』にある天照太神の天孫降臨とつながります。「此れの鏡は」というのは中国古代の鏡を神器としているといいます。(福永光司著『道教と古代日本』一三七頁)。鏡鋳造の技術は中国からもたらされたものです。鏡は古墳にも副葬され、三種の神器の一つとして神社に祀られています。これは鏡に呪術的な威力や霊力があるとした道教に認められます。現在も道教に由来する星神社として、太白星(金星)を祀る大将神社や、妙見(北斗七星)社などがあります。伊勢神宮の遷宮祭(『皇太神宮儀式帳』八〇四年)の儀式や、行列のときの衣装や持ち物(用物)は、唐の時代の「太唐開元令」に類似しているといいます。ここからしますと、女性の行列の形態を千年以上も継いでいることになります。建築においても伊勢神宮の内宮の正殿、外宮の御饌殿(みけでん)に残映があります。前述した弥生時代の高床式の倉庫と似ており、ここにご飯を蒸して神に捧げます。鉄人形(くろがねのひとがた)四〇個、鏡も四〇面などを用意して土に埋めます。鶏二羽と亀卜については、『史記』の亀策伝にあります。鶏と鶏卵は江戸時代にはなくなっています。それを、幕末に復元しますが、その用途が不明といいます。中国では天上の金鶏星にすみ、この鶏が暁を報じると天下の鶏がこれに応じて鳴くといい、陰陽五行説には白雄鶏(白いおんどり)は庚金太白の霊気があり、邪悪を避ける力があるとします。鶏の古名は「カケ」で、『神楽酒殿歌』に「鶏はかけろと鳴きぬなり」とあり、伊勢神宮にて神体を遷す前にカケコーのかけ声を発します。

また、貴人にたいする挨拶である柏手(『日本書紀』『魏志倭人伝』)の礼や護符などがあります。修験道における柱源護摩の原型は、伊邪那岐・伊邪那美の国産みの神話に類似しています。『山伏記』(五流尊滝院)に柱源護摩の修法は神道に属するもので、修法檀は神籬や盤境にあたります。神籬は神社以外の場所において祭祀をするとき、神を迎えるための依り代となるものをいいます。その形式は木製の八脚台の上に枠を組み、その中央に榊の枝を立て回りにしめ縄を張り、紙垂(しで。幣束のこと)と木綿(ゆう)を取り付け、神聖なところとするものです。現在、地鎮祭などの祭壇として神籬が用いられています。柱源護摩は『古事記』の記載に似て、八尋殿を建て中央の柱の前で行います。護摩檀の中央の閼伽札は心柱と呼ばれることから、日本の創世神話を体現したものという推測があります。(宮家準著『修験道儀礼の研究』七一二頁)。唐の時代は道教の隆盛期でしたので、強い影響を受けたといえるのです。また、五月五日の端午の節句も辟邪・辟病の行事で、『荊楚歳時記』にこの日にヨモギの人形を立て、ショウブを刻んで酒に入れて飲むとあります。屠蘇は中国江南の習俗で、拝賀のあとに薬用として屠蘇酒を飲みました。日本では奈良時代より服用され、平安時代には天皇が正月三が日の間に三種類の薬酒を飲むその一つが屠蘇酒でした。七草がゆも江南の習俗です。江南ではこのころから野草を摘み始めたのではないかといいます。『荊楚歳時記』には七日に、「人勝」という呪文を書いた紙や布を渡したとあり、道教の信仰と関連しています。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』九五頁)。相撲節会には舞楽の前奏曲の一種である乱声(らんじょう)と厭舞(振鉾)が奏されます。これは場を清めるための呪術です。(『日本の古代』一三、稿、三六九頁)。つまり、これらの例から、日本の律令期に中国から取り入れた体制が、日本的なものとして継承されてきたということで、道教の呪術なども天皇家に継承されていることがわかります。伊勢神宮の神事には唐の文化の影響が残っているのです。(上山春平稿「天皇制と祭祀」『道教と古代の天皇制』所収一二七頁)。