217.式年遷宮の儀式                      高橋俊隆

【式年遷宮の儀式】

『皇太神宮儀式帳』に二〇年に一度、新宮に遷し奉る制度が記されています。『延喜式』には二〇年に一度、正殿・宝殿・外幣殿・度会宮および別宮を造り替えることが記されています。神体を祀る正殿だけではなく、内宮・外宮の両正宮、一四の別宮の社殿など六〇棟におよぶ神殿が対象となり、それらすべてを造り替え神を移します。二〇年の年限は建築技術職人の継承期間、常若の思想、神の住まいを常に清浄にして穢れ(気枯れ)をはらい、生命力を甦らせ活性化する意味があります。(『伊勢神宮のすべて』別冊宝島一五頁)。遷宮の際に神殿だけを新しくするのではなく、中に納める装束・神宝(宝器)・御料など約一六〇〇点、弓・矢・盾・矛などの武器、御衣(みそ)・裳(みも)・襪(しとうず。沓の下に用いる布帛製のはきもの)などの装束や、硯などの日常の調度品も新調されます。正倉院の宝物に匹敵するような調度品が製作されます。古くなった装束や宝器は焼却し地中に埋めます。そのわけは人間の穢れを遮断する意識が強く、人に触れられることを恐れるからです。。(『日本の古代』一四、岡崎晋明稿、四五七頁)。しかし、一部の宝器は末社などに祭祀され、信仰の対象となっています。神殿は解体されますが、正殿の中心床下の「心のみ柱」のみは、その跡地に覆い屋を設けて残されます。旧敷地は古殿地といい、新たな所を新御敷地といいます。五十鈴川に架かる宇治橋もその隣に架け替えられます。長さ一〇一、八㍍、幅八、四二㍍の宇治橋は俗界と聖界の堺にあるといわれます。宇治橋を渡ると緑豊かな神苑が広がります。かつては民家が立ち並んでいましたが、明治二七年に整備されました。

式年遷宮は基本的には古代の遷宮の慣行と概念に通じるといいます。神殿を造り替えることにより、祀られる神に新たな生命を与えることであり、伊勢神宮の再編に他ならないといいます。往古の宮居(皇居)は天皇一代ごとに遷宮する慣習がありました。神武天皇から天武天皇まで遷宮が行われ、持統天皇の藤原京に至ります。藤原宮はそれまでの茅葺き・掘っ立て柱にかわり、恒久的な瓦葺き・丸柱の宮殿が営まれたといいます。遷宮制は天皇家内の私的祭祀に関わるといいます。つまり、先帝の死穢嫌悪説にあります。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』一七三頁)。遷宮が始められた時期について、制度的には朱雀三(六八六)年・天武天皇の白鳳一三(六八四)年・同一四年の説があります。『太神官諸雑事記』第一の記事には、「天武天皇。朱雀三年九月廿日、依左大臣宣奉勅、伊勢二所太神宮御神宝物等於差勅使被奉送畢、色目不記、宣旨状儞。二所太神宮之御遷宮事、廿年一度応奉令遷御、立為長例也云々」とあります。つまり、朱雀三(六八六)年九月に、度会宮と豊受宮の二所太神宮の遷宮を二〇年に一度施行し、これを長例とするように定められました。朱雀三(六八六)年は持統二年六八八年です。六八六年に没した天武天皇の死後は、皇太子草壁皇子を助けますが、持統天皇三(六八九)年に草壁皇子が没したのち飛鳥浄御原令を施行します。同じく、「持統女帝皇。即位四年庚寅太神宮御遷宮、同六年壬辰豊受太神宮遷宮」とあります。つまり、伊勢神宮の創建は第一回の式年遷宮と年とされる六九〇年であり、正式に即位したのは六九〇年といいます。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』二〇七頁)。このとき諸制度を整備して、律令国家の確立に努めます。この持統天皇四(六九〇)年のときに第一回の遷宮が行われ、持統六(六九二)年に外宮の第一回遷宮が行われます。(『伊勢神宮のすべて』別冊宝島一〇八頁)。そして、藤原京を建設して六九四年に遷都します。天照大神を祭神とする伊勢神宮が、度会の地で正式に発足したのは六九八年一二月二九日、または六九九年正月元旦といいます。『続日本紀』の六九九年八月条において「伊勢の天照大神の宮」の名称を用い、以後この名称が慣用語となります。

文武五年大宝元(七〇一)年正月元旦の朝賀の儀は格別であったとあります。『続日本紀』巻第二には文武天皇が、このときに朝鮮などの国々の使節を迎えて開いた朝賀の儀の様子を、「大寳元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀於正門樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右。文物之儀。於是備矣。戊寅。天皇御大安殿受祥瑞。如告朔儀」と記しています。天皇は元旦の朝から四方拝・供御薬・朝賀の順で儀式をこなし、正門に烏(三本足のカラス)の幢を立て、左右に日月像や四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)の幡が並んだとあるように、七本の旗を立てたことを伝えています。「文物(学問や制度など)の儀、是に備れり」とあり、本格的律令国家の完成を意識して記述したとされますが、道教の儀式に近いことがわかります。この朝賀の儀には二五年前の六七六年に唐の軍勢を半島から駆逐し、朝鮮半島統一をした新羅から来日していた使節の一行も参列しています。この朝賀の儀式は新生日本の誕生を内外に誇示することを目的としていました。ですから、大宝元年は日本の歴史にとって画期的な年だったといわれます。

その大きな事績として一月二三日に遣唐使の派遣が決定され、粟田真人(あわたのまひと)が第七次遣唐使の遣唐執節使に任命されます。第七次遣唐使は翌年の六月に三三年ぶりに実現し、二年後の慶雲元年に帰国しています。当時の大陸は唐の高宗に代わって則天武后を皇帝とした周が繁栄していました。その帰朝報告を聞いた為政者たちは、諸外国との対応や律令国家の体面を一新すべく平城遷都を企画したといいます。第四三代元明天皇(在位七〇七~七一五年)の言葉に「四禽図にかない、三山鎮をなす」とあります。これは、四神相応の地に都を置くのを理想とする道教の影響がみられます。方角を司る四神(青龍・朱雀・白虎・玄武で東南西北)に対応して、「東に河あり、南に沼・湖あり、西に大道あり、北に山あり」といった地形を選定します。「三山鎮をなす」というのは、春日山()、西ノ京生駒山(西)、奈良山()によって鎮められている地形を指しています。また、天皇家との結びつきを強めていた藤原氏は、藤原京が飛鳥に近く飛鳥を中心とする旧来の豪族勢力が強く、律令的政治が行いにくい状況でした。そこで、飛鳥の地から離れた奈良北部への遷都をしたのです。これにより日本は国家としての体裁を整えますが、藤原氏(中臣神道)は天皇家を凌ぐほどの権力を握り始めます。そこに、仏教による国家統合を推し進めたのが聖武天皇となります。神亀元(七二四)年に聖武天皇が即位すると渡来系氏族に和風の姓名を与えています。(『日本の古代』坂本義種稿、三九四頁)。