218.心御柱                                高橋俊隆

「心御柱

平成一七年五月に「木本祭」(このもとさい)が行われました。床下に建てる御料木を伐採するため、大本にまします神を祭ります。内外宮の山中で真夜中に行われる秘祭です。『皇太神宮儀式帳』によれば、式年遷宮にあたり、「心御柱」の用材(忌柱)を切り、前追(さきおい)、正殿の地まで運んでくる儀式にふれています。「心御柱」は「忌柱」(いみはしら)ともいわれ、忌は清楚を意味しています。神路山(鼓ヶ岳)から一本の大きな木を切り出し、五十鈴川を超えて神宮の新敷地に打ち立てます。「心御柱」が内宮に奉献されるとき、神職は「一切成就祓」と呼ばれる祓詞、「極めて汚きも滞りなければ穢れは有らじ。内外の玉垣清し浄しと申す」、を唱えます。そして、木の半分の部分は地下に埋めます。この柱を「心御柱」といいます。儀式は神宮の神官により秘密裏におこなわれます。この「心御柱」の真上に神宮の本殿が建てられます。古代はこの柱を滝祭りの川縁に建てたといいます。場所は五十鈴川の手洗い場の対岸の西方にあたる樹林の草むらです。そして、この神が「心御柱」から離れて五十鈴川から出現(生誕)するのを、宇治の豪族の姫(たなばたつめ)と、荒木田氏の娘(川姫命)が行ったといいます。この説は筑紫申真著『アマテラスの誕生』によります。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二二六頁)。滝祭神は五十鈴川の手洗い場の近くにあり、五十鈴川の守護神を祭っています。五十鈴川は別名御裳濯川(みもそ)と呼ばれます。倭姫命が御裳のすその汚れを洗われたことから名づけられたといいます。

「心御柱」は神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代とする神籬・盤座と同じように、神霊の依憑する場であって神体そのものではありません。内宮の床下に鎮座し天照太神と同一視されます。式年遷宮にあたり製作され貢進される天平賀(平瓶。平たい土器の皿・つぼ)が、正殿・別宮の宮柱の柱根に安置されます。「心御柱」の下に供えられる御饌が由貴(ユキ)大御饌です。由貴大御饌は正殿の床下の「心御柱」の前に奉奠されます。いわゆる、正殿床下の祭儀で三節祭が重要視されますが、明治時代に大きく変容したため、実態は江戸以前の文献に求める必要があります。三節祭には斎王が参入します。このとき天照大神が顕現されていると顕斎(うつしいわい)するのです。また、神職と御饌が内院に参入する経路も異なります。(黒田龍二著『纒向から伊勢・出雲へ』一三九頁)。「心御柱」の概念と似ている中国の「天柱」があり、この意識の延長線上に神宮成立の本質があるといいます。天武朝以前の一定期間は、文字通り「天柱」を意識する高殿または楼閣風の建造物であり、それが本来の神宮の意味であって、用命天皇の即位前紀の神宮はまさにこの点を強調したもので、国家鎮護の聖廟としての神宮とは異なるといいます。天神が降臨したことを示す物的証拠であり、天神の象徴としての神宝を保管する施設が神庫であり宝殿です。石上神宮の構造は垂仁紀八七年一二月条によりますと、「天之神倉」と形容される高床建造物であったといいます。降臨の天神と交歓する神聖な場であり、神宝が保管される神倉であったといいます。「心御柱」は天上への通路となる架け橋に他ならないといいます。「天柱」のことを『淮南子』では天上と地上を支える柱とします。七世紀の推古朝には「天柱」を介して葦原中国とを往来したはずで、神宮の「心御柱」は単なる忌柱ではなく、神人双方が高殿・高倉に籠もり、交歓手段として意識されたといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』二〇頁)。

一本の神柱を象徴するのが、正殿床下中心に立てられる「心御柱」です。「心御柱」は素木(しらき)の丸柱で、黄・白・赤・黒・青の五色の布をもって捲かれます。また、「心御柱」は内宮・外宮の正殿床下の中央にある約五尺の檜の柱で、五色の糸が巻かれているともいいます。立て替えるときは地下に穴を掘り、天平瓦八百枚を入れた上に半分埋めた形で立てて、周囲を榊で飾ります。『神道五部書』では「天斎柱・天御柱・忌柱・天御量柱」ともいいます。(宮家準著『神道と修験道』三八〇頁)。五色は五行を表し五行の元をなすものは太極です。つまり、太極は「太一」ですから、「心御柱」が象徴するのは「太一」となります。太一とそれを取り囲むのが南斗と北斗です。「心御柱」が「太一」・天照太神・天之御中主などの象徴としても、天武期においては宇宙の大元神、または、皇祖神として意識されていました。『唯一神道六十六箇伝聴記』(一八一八年、西蔵寺円髄書写)の「心御柱伝」に、「心御柱」は天照大神が誕生した日本の本をなすところで、天照大神はここに柱を立てて天に昇ったとしています。日本の中央(中心)に立てたことから「心御柱」と名づけたといいます。この柱の高さは天皇の身長に合わせており、京都伏見の武田の竹と檜の楉木で天皇の身長を計ったとしています。そのわけは天皇自身が天と地を結ぶ軸になるという理由からです。弘安二(一二七九)年の『内宮仮殿遷宮記』には、「心御柱」は地上三尺三寸許、地中二尺余りとあります。鎌倉後期の『心の御柱記』には地上三尺、根二尺とあります。

この神柱は出雲大社にも見られ、神殿中央の「岩根の御柱」(「心御柱」)を中心に、九本の杉の柱が田の字形に並んでいます。出雲大社の境内遺跡の岩根の御柱・宇豆柱・南東側柱の巨柱は、神柱の信仰を象徴するものです。出雲大社は平安後期ころまでは杵築大社といわれ、『古事記』には天皇の御舎(みあらか)に似せて作ったとあります。ミは敬称、アラは出現・存在、カは場所のことで、天皇が出現し存在する場所をいいます。この杵築大社の遺構調査が平成一一年より行われ、これにより、総直径が二、七㍍におよぶ三本一組の巨大な木柱痕(棟持柱・宇豆柱)が発見され、推計で千木天までの高さが四八㍍(一六丈)に達し、空中に浮かぶ神殿ともいえる高層建造物であることが明らかになりました。これは、厳島神社にみられる海上社殿ともいいます。(別冊太陽『平清盛』)。宇豆柱・岩根御柱(「心御柱」)すべてに赤色顔料が塗られており、朱塗りの神殿(「八百丹杵築宮」)でありました。『神郷絵図』を参考にしますと、柱・梁などの軸部は赤、壁は白、縁および階幕板は黒字に剣巴紋の彩色と判断されています。また、古墳時代の土器や勾玉が発見され、焼土の堆積からみて祭りの場となっていました。神殿の柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家に伝わる「金輪御造営差図」に描かれた図面と類似しています。金輪とは三本の柱を束ねる鉄のバンドのことです。柱跡間の距離は異なることから模式図という見方があります。『出雲国風土記』によりますと、八束水臣津野命が国引きしたあと、皇神が集まって出雲大神(所造天下大神大穴持命)の宮を杵築(きづ)いたとあります。直径が約六㍍の柱穴には、人頭大の大きな石がぎっしりと積み重ねられ、巨柱のまわりを杵築き固めていたのです。この柱は鎌倉時代前半の宝治二(一二四八)年に、本殿を支えるために造営された柱といわれ、大社殿の伝統が鎌倉時代にも継承されていたことがわかります。(上田正昭著『私の日本古代史』上。六五頁)。柱の真下に釿(手斧。ちょうな・チョンナ)が二本と土器があり、柱を立てる前に地鎮祭を行ったとみられています。(植田文雄著『古代の立柱祭祀』九三頁)。神柱は神社の古態を知る重要な謂われをもっていました。また、纒向遺跡の大型建物は、出雲大社の本殿に類似した平面形式をもっています。床上まで立ち上がる総柱、正面が偶数柱間であることなど、王宮の中心施設として、私的な場、宝座、寝室、会見の場が設けられ、殿内祭祀の場となっています。(黒田龍二著『纒向から伊勢・出雲へ』二五頁)。

宮地では長さ五尺経四寸の「心御柱」を立てる前に、土地の神を鎮める地鎮祭をし、穴を掘って地符・鎮謝符・鬼符を収めます。柱を立てるときは、元の柱の四方に楉を立てて、そこから元の「心御柱」の頂に桁を渡して高さを計ります、そして、元の柱を掘り出して忌穴を掘り、その穴のなかに守護神(『御鎮座伝記』では竜神と土地神)や祭物(粢米、供物・天平の瓮(かわら)と呼ばれるカワラケ八十枚など)を収めます。そして、この穴に五色の糸を巻き、上に八枚の榊の葉をつけた新しい「心御柱」を、地上からの高さを前のものと同じにして立てます。これが「心御柱奉遷の儀」です。床下に「心御柱」の建立を終えますと、そこに幡を立てて五穀の粥を供物として献上します。寛文年間(一六六一~一六七三年)に自省軒宋因が書写した『大神宮心御柱記異本』によりますと、「心御柱」にする檜は長さを八尺に切り八角に削って朝廷に差し出し、天皇の身長の所に印をつけてもらい、そこで切ったといいます。そして、この柱に鏡をかけて黄金の鉢にのせ、これも黄金の榊をそえて立てたとあります。それゆえ、「心御柱」は天皇の玉体そのものであり、黄金の色は葦牙を示しているといいます。(宮家準著『神道と修験道』三九二頁)。「心御柱」の寸法の微妙な違いがここにあります。また、鎌倉初期の『心御柱記』の記述から、径四寸高さ五尺の柱に五色の糸をまき、柱の下に供物や土師器八百枚を納めたともいいます。「御白石持行事」というのは、旧神領の人達により、内外宮の敷地に白石を敷き詰める儀式です。「杵築祭」(こつきさい)は敷地をつき固める祭で、「心御柱」の柱根を白杖でつくことです。未来永劫まで国が栄えることを祈ります。なを、神道の地鎮祭は神社本庁編『改定諸祭式要綱』によりますと、敷地の四隅に斎竹を立て、これに注連縄を張り、紙垂(しで)をつけて祭場とします。中央に穴一孔を掘り、その穴の北よりに南面して神籬を一基建て、その前に神饌案と玉串案を置きます。そして、修祓の儀、斎主が降神の儀、献饌の儀、斎主の祝詞奏上、四方祓い、草刈り初め、穿初め、鎮物埋納、玉串奉奠、撤饌、昇神の儀、神酒拜載となります。四方祓いは中央を含めて五方に散供して清めます。これは五行説に基づいているといいます。(坂出祥伸著『日本と道教文化』六六頁)。この「心御柱」は上と下の間にあって、神と天皇の両者を永久に結びつける標と考えることができます。日本の民族信仰では神霊の依り代とされており、神格の名数を柱とする根拠となっています。

宮家準氏は柱の信仰と儀礼を六種類あげています。一に、柱を他界から神々や祖霊を招き、それにつける招ぎ代とするもので、神道や民俗宗教の多くはこれに当てはまるとします。二に、シャーマンや修験者が柱を登って天にいく儀礼で、ホジエン族のシャーマン、修験道の柱松、御嶽教の刃渡りなどです。三に、柱そのものを神とするものです。四に、柱を天と地を結ぶ宇宙軸とするもので、伊勢神宮の「心御柱」を天皇の身長にあわせていたのは、天皇を天と地を結ぶ軸とすることに基づきます。修験道の柱源神法では、この修法を行った者は天地を結ぶ軸となっていました。五に、宇宙山、須弥山に擬えるもので、吉野の金峰山を国軸山と呼んだり、大峰山を金剛界・胎蔵界の曼荼羅とするのはこの思想に基づいています。六に、『記紀』神話で伊弉諾・伊弉冉の二神が、瓊戈でオノロコ島を作ったという国生みに見られるように、柱を万物を生み出す力の根源とするもの、と区分けしています。このような柱の儀礼や信仰は、アジア各地の民俗信仰と酷似しています。これはアジアの影響として水田稲作を営むこと、日本人が人種的にモンゴロイドであることに通じると考えられています。日本文化の原郷ともされる中国南部のミャオ族や、ベトナムのバナ人、ネパールのカトマンズ、朝鮮の蘇塗や端午の祭り、中国黒竜江省のホジェン族などに柱の信仰儀礼が見られます。(『神道と修験道』四〇二頁)。つまり、「心御柱」の造営儀式は日本固有のものではなく、日本文化の淵源にある大陸からのものであることが指摘されるのです。また、「心御柱」は元来、滝原における伊勢大神の憑代であり、神籬であったと考えられ、祭祀の形態は伊勢大神の伝統を継いでいたといいます。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』二〇八頁)。また、「心御柱」はヤマト王家の祖神であり、本来の伊勢の神であるとし、内宮の裏手の荒祭宮で祀られていたといいます。(関裕二著『伊勢神宮の暗号』二五五頁)。持統天皇と藤原不比等の関係、女帝天皇と天照大神の祖母から孫への皇位継承である、天孫降臨説話に関連しています。

鎌倉時代までは神嘗祭の日に行われてきました。鎌倉時代までの遷宮は、古い宮に夜一〇時に古米で作った神饌をお供えして遷御します。新しくなった御殿で今度は新米で神嘗祭をおこないます。かつては遷宮と神嘗祭が一体だったのです。戦国時代の動乱により、祭の日がずれてしまったのです。また、一二〇年以上も修繕しかできない時代がありました。戦後も四年間延びましたが、それを除くと二〇年毎に遷宮をしていました。伊勢神宮の心御柱奉建は、すべての工事を完了した九月末の深夜に行われます。正殿の中心に「心御柱」を立てることは、ここに神を招き入れるためです。天皇の大事な即位儀式(大嘗祭)も、同じく深夜に行います。この共通した理由こそが伊勢神宮の「心御柱」の意義です。平成二一年の秋に渡り始めの式が行われました。式年遷宮の始終は一〇年ほどにわたります。今回は用材を伐採する山の神を祀る山口祭を、平成一七年五月に行っています。山口祭は神路山と高倉山の山麓で行いました。本年、平成二五年は第六二回にあたります。正殿から新殿に遷すときに神儀を奉安する仮御桶代の用材は、長野県木曽郡上松町の木曽谷国有林から伐採されました。諏訪大社の御柱は四本あります。下伊那郡の葦原神社や戸倉町の御柱は一本、上水内郡の小川神社は二本です。古態は一本の神柱であり、聖域の四囲を示す御柱に変化したといいます。諏訪大社は本殿のない古社を現在に伝えています。(上田正昭著『日本文化の基礎研究』八五頁)。

「杣(そま)始め祭」というのは遷宮に先立つ祭りのことで、このとき「太一」の幟(のぼり)が祭場に立てられます。遷宮の用材には「太一」の字が彫り込まれ、御贄(みにえ。神にさしあげる食べ物)にも「太一」の籏が立てられます。奉仕の作所員の帽子の徴章にも「太一」の文字があります。内宮の宮域外における皇大神宮の祭などには、天照太神の象徴として「太一」または「大一」の文字が用いられます。しかし、宮の内側における神事には「「太一」の言葉はつかわれません。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一〇六頁)。「山口祭」というのは、ムラ(邑)・ノラ(野原)とヤマ(山)を区画する境界を山口といいます。この山口には神が座すといわれ祭祀をすることです。伊勢神宮の内宮では新宮を造営するさい、必ず吉日を選んで山口神を祭っていました。このときに使用されたのは、鉄の人形・鏡・鉾・大刀・忌(いむ)手斧・小刀・五色薄施(きぬ)・木綿・麻・庸布・酒・米・堅魚・鮑・雑魚・雑海菜・塩・鶏(かけ)・鶏卵・陶器・土師器などです。これらを用いて造宮駅使(ぞうぐうのえきし)の忌部宿禰が祝詞を申し、つぎに山向物忌(やまげのものいみ)が忌鎌(いみかま)で草木を苅り始め、そののち草を苅り木を切りに役夫をあちこちの山野に遣わします。造営が終了したときも同じ祭祀を行いました。外宮でもほぼ同じように山口神が祭られています。(『止由気宮儀式帳』)。これは山口神の祭祀は木材の伐採に深く関わっていたからです。つまり、山口はムラ・ノラからヤマに入るときに通過する聖なる空間であるからです。(『日本の古代』一〇、西山良平稿、四五八頁)。