219.神道と仏教                            高橋俊隆

【神道と仏教】

さらに道教の影響をみますと、第五〇代桓武天皇(在位七八一~八〇六年)の時代に上帝祭祀が流行します。桓武天皇の母は百済系渡来氏族の出の高野新笠です。和乙継(やまとのおとつぐ)と大枝真妹(まいも)という名もない夫婦の娘でした。和乙継は奈良朝の下級書記官といいます。桓武天皇の父白壁王(光仁天皇)も傍系皇族で無位の時代が長く、この間に高野新笠と知り合い長子として生まれたのが桓武天皇(山部王)でした。桓武天皇は当時の社会制度からして母方に育てられ教育されたと思われます。『続日本記』によりますと高野新笠の先祖は百済武寧王の子である純陁太子とあります。百済氏の遠祖都慕王は道教の黄河の水神である河伯の娘が、日精に感じて生まれており、高野新笠はその末裔であることから謚を「天高知日之子姫尊」(あまたかしるひのこひめのみこと)としたとあります。このことからしても、桓武天皇と道教思想は切り離せないものがうかがえます。

延暦一三(七八四)年に山背国(山城国)愛宕(おたぎ)・葛野(かどの)両郡にまたがる地に平安京を置きます。はじめ延暦三(七八四)年に長岡京を造営します。その翌年と六年の一一月に、道教の神である昊天上帝を郊外の交野に祀っています。しかし、天災や祟りの災いが起こります。天皇の薄徳と判断されるのを恐れ、一〇年後の同一三(七九四)年に遷都しました。このとき気学における四神相応の方位判断をして、長岡京から艮(東北)に当たる方向に遷都したのです。平安時代いこうの神社は、原始的な祭祀形式(自然神道)から社殿神道へと発展します。隆盛にしたがい社殿建築は盛んに宮殿的な特色をとりいれ、祭神も平安時代は貴顕紳士の姿をもって表現されるのが特色です。(五来重編『高野山と真言密教の研究』八〇頁)。天野における丹生・高野明神に、のちに、気比と厳島の二座が勧請されて四所明神となります。日本の民族宗教に於ける神と仏の関係はきわめて複雑になります。寺院に仏法や仏菩薩の護法神(守護神)として地主神を祀り、神社に神宮寺をもうけ神前読経するように、密接に関連し合っているのが現況です。

また、平安時代いこうの密教や山伏などの民間宗教者の間では、神は瞋恚の念に捕らわれるという畏怖があったので、仏教の仏菩薩が神の祟りを鎮め災厄を除去するために、修法や加持祈祷が行われるようになります。また、火山のような恐れのある神を鎮めるためにも、仏教を取り入れるようになります。さらに、平安中期いこうになると神と仏が習合するようになります。このとき、神は仏菩薩が日本の衆生を救済するために権化したものと捉えます。これを権仏とよびました。そして、仏教の仏像を祀る影響をうけ、本来は隠身(かくりみ)であった神が像として眼にみえる形に表されました。このことから明神と呼ばれます。とくに、本地垂迹説が一二世紀いこうに盛んになります。その本体である本地仏の充当のしかたは、各神社で適宜になされたといいます。日本では仏教の諸尊をそのまま崇拝し、天部において広く信じられたなかに、吉祥天・弁財天・荼枳尼天(稲荷)があります。また、七面山に勧請されているように、役行者も崇められています。七面天女の本地といわれる弁財天は現世利益の神として崇められます。荼枳尼天(稲荷)は農民と商人の守護神となっています。鎌倉時代に成立した伊勢神道においては、この本地垂迹説に対抗し、『神道五部書』には『老子河上公注』や、今は伝えられていない『老子述義』を引用しています。これらは道家の書籍であることから、伊勢神道説は道家の教を柱としていたことがわかります。(『神道史大辞典』五四三頁)。

堀一郎氏によりますと、中世には神祇官僚の白川・吉田家が、地位を利用して神社と神職にはたらきかけ、とくに、室町から戦国時代の吉田兼倶(一四三五~一五一一年)は、神社神道を教団化しようとしています。神号社号の認可、授位授官の裁許状の発行などを行いましたが、全国の神社を組織化するには至りませんでした。(『民間信仰』一一頁)。しかし、その影響力は強いものでした。室町後期から近世を通じて神祇界の中心的な役割を果たしたのは吉田神道(唯一宗源神道)です。注目されるのは吉田神道が道教の経典である『北斗元霊経』を用いて北斗信仰を勧めたことです。また、霊府などを授与しているように道教信仰の影響がみえます。吉田兼倶は本姓は卜部氏で家系は神道家の卜部家の系譜をひき、兼倶の代に吉田家を興しました。父は卜部兼名といいます。初名は兼敏と言いましたが、文正元(一四六六)に兼倶に改名します。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者です。はじめは卜部家の家職・家学を継承していましたが、次第に家学・神道説を整理し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築きます。卜部家の家職というのは亀卜のことです。これは、亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うことを職業としていました。日本古来の卜占である太占に関係した氏族の後裔といいます。その後も神道説の中心となる「日本書紀」神代巻と、「中臣祓」について研究を重ね、後土御天皇をはじめ公家たちにも講義を行っています。中臣祓というのは元々は毎年六月と一二月の末日に行われる大祓で、犯した罪や穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓といわれました。その内容を引きますと、「高天原に神留坐す 皇親神漏岐神漏美の命を以て 八百万の神等を 神集に集賜ひ 神議に議賜て、我皇孫尊をば 豊葦原の水穂の国を 安国と平けく所知食と事依し奉き、如此依し奉し国中に荒振神達を 神問しに問賜ひ神掃に掃賜ひて 語問し磐根樹の立草の垣葉をも語止て 天磐座放ち天の八重雲を伊豆の千別に千別て天降依し奉き、如此依し奉し四方の国中に 大倭日高見の国を安国と定奉て 下津磐根に宮柱太敷立て 高天原に千木高知て 吾皇孫尊の美頭の御舎に仕奉て 天の御蔭日の御蔭と隠坐て 安国と平けく所知食む国中に成出む天の益人等が 過犯けむ雑々の罪事を、天津罪とは 畦放 溝埋 樋放 頻蒔串刺 生剥 逆剥 屎戸、許々太久の罪を天津罪と宣別て、国津罪とは 生膚断死膚断 白人胡久美 己が母犯罪己が子犯罪 母と子と犯罪子と母と犯罪 畜犯罪 昆虫の災 高津神の災 高津鳥の災 畜仆し蟲物為罪許々太久の罪出でむ、如此出ば、天津宮事を以て 天津金木を本打切末打断て 千座の置座に置足はして 天津菅曾を本苅断末苅切て 八針に取辟て、天津祝詞の太祝詞事を宣れ 如此宣ば、天津神は天之磐門を押開き 天之八重雲を伊豆の千別に千別て所聞食む 国津神は高山の末短山の末に登坐して 高山の伊穂理短山の伊穂理を撥別て所聞食む、如此所聞食ては罪と云罪は不在と 科戸の風の天の八重雲を吹放事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹掃事の如く、大津辺に居る大船の舳解放艫解放て大海原に押放事如く 彼方の繁木が本を焼鎌の敏鎌以て打掃事の如く 遺れる罪は不在と 祓賜ひ清賜事を 高山之末短山之末より 佐久那太理に落瀧つ速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云神大海原に持出なむ 如此持出往ば 荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会に坐す速開都比咩と云神 持可可呑てむ、如此可可呑ては 気吹戸に坐す気吹主と云神 根国底国に気吹放てむ、如此気吹放ては 根国底国に坐す速佐須良比咩と云神 持佐須良比失てむ、如此失ては 自以後始て罪と云罪咎と云咎は不在物をと 祓賜ひ清賜と申す事の由を 八百万神等諸共に左男鹿の八の耳を振立て所聞食と申す」、とあります。今日の神社本庁の大祓詞では最初の文章は省略されていますが、日本神話の葦原中国平定から、天孫降臨し天孫が日本を治めるまでの内容が語られます。人々が犯す罪を「天つ罪・国つ罪」として取り上げ、その罪の祓い方がのべられます。古代と現代の罪意識に違いがありますので、神社本庁の大祓詞では罪名の列挙を省略して「天津罪・国津罪」とだけ言っています。後段は四柱の祓戸神によって罪や穢れが消え去ることをのべます。現在は大祓のときに参拝者自らが唱えます。神社本庁包括下の神社では毎日神前にて唱えられています。

吉田兼倶は文明一八(一四八四)年に、邸内に斎所として大元宮を創建して日本各地の神を祭り、吉田神道の根本経典である「唯一神道名法要集」「神道大意」「神名帳頭註」を著します。朝廷・幕府に重用され勢力を拡大し、神祇大副という朝廷の祭祀の代表者となり、神道長上と称せられます。みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得しました。吉田兼倶は日蓮宗で祀る三十番神は、日蓮聖人が吉田家より相伝をうけた神道正的の勧請であることを認めています。これにより番神信仰は日蓮宗独得の信仰となりました。『雍州府志』に日蓮聖人のときに伊勢(天照太神)と八幡の二神を勧請して法華経の守護神とし、日像上人のときに三十社の神を勧請して、一か月三〇日のうち一日ごとに守護神を当てます。(宮崎英修著『日蓮宗の御祈祷』四〇頁)。本居宣長は『玉勝間』のなかで老子の説は「まことの道に似たることあり」と、老子の思想と日本の神道との類似性を見ています。平田篤胤は本居宣長の説を批判して、『仙境異聞』『三神山余考』を書きます。(上田正昭稿「古代信仰と道教」『道教と古代の天皇制』所収九四頁)。神道を日本独自のものと解釈したのは平田篤胤です。しかし、平田篤胤は日本の神道が中国の道教に影響を与えたという、間違った見解をもっていました。(『神道史大辞典』五四三頁)。

これまでの記述により、日本古代の文化や信仰は中国や朝鮮から渡来した人々の信仰と重なっていることを知りました。換言しますと、これらの渡来人によって大和・日本の歴史が形成され、天皇家の確立がなされたといえましょう。その天皇家の天武天皇は伊勢神宮を創立し、その信仰や儀礼が現在も日本の神道の基礎にあることがうかがえたのです。この信仰とは道教の神仙思想における呪術性にほかなりません。つぎに迎えたのが仏教との習合でした。日本においては山岳信仰の方術的部門に、これらの道教的思想が継承されました。日蓮宗の修法もこの流れにあると思われますので、道教との関連性をみていきたいと思います。