220.道教と陰陽道 高橋俊隆
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◆◆第四章 道教と陰陽道・修験道との関連◆第一節 道教と陰陽道〇陰陽道道教と陰陽道は漢民族が生み出した思想・信仰の双璧で、中国の二大思想といわれます。互いに黄河の流域を中心として発生した太古の民間信仰で、ともに個人の幸福と国家の繁栄を、あらゆる技術・手段を講じて可能ならしめようとするものです。天体の運行や宇宙の動きと人間社会の移り変わりが、互いに併行し関係し合うという天人相関の思想に立ちます。基本的に万事の吉凶を天文の変化から予知し対処を判断します。そこに宗教的な信仰の論理性と技術的な面がみられます。道教は自然の事物に呪術を駆使します。陰陽道も呪術や卜占を考案しました。後世の道教は陰陽道的思考を取り入れ、のちに仏教の形式をも取り入れて教団として発展します。これに対し陰陽道は教団とはなりませんでしたが、その呪術信仰は政治・経済・文化や日常生活など、広範囲に慣習的常識的なものとして浸透してきました。日本へは互いに絡み合って入ったというべきで、さきにのべたように、これらを導入したのは主に僧侶であったので仏教との関連性をもちました。日本においては道教と陰陽道は不離の関係として受容され、陰陽道は仏教と無関係には発展しませんでした。それらは日本の伝統的な原始呪術的信仰の基板のうえに展開したのです。(村山修一著『日本陰陽道史話』六七頁)。古代においては天変地異妖怖が起きますと陰陽師に占わせ、除災を社寺に奉幣誦経させて祈願させます。陰陽道は祭祀儀式を成立させて神道と併立して、宮廷の神祇祭祀に深く浸透していきます。道教の自然崇拝に基づく神祇思想が、日本の原始信仰に展開して祭祀の制度や儀式の基を構成したと言えます。(金指正三著『星占い星祭り』七八頁)。本書において、それが渡来人の道教呪術的信仰であったことを見てきました。 中国古代の君主と陰陽道とが結ばれている一例をあげますと、堯や舜は中国神話に登場する伝説上の人物で、王朝としては夏(か)が最古とされます。夏王朝(紀元前二〇七〇~一六〇〇年頃)は、舜が禹に帝位を禅譲して建国され、初代の禹から末代の桀までの一四世一七代続きました。殷の甲骨文のような文字史料は未発見ですが、河南省偃師県二里頭遺跡が発見され、その実在は認められつつあります。この夏王朝では陰陽道を連山(れんざん)と称していました。次の殷(商)王朝では帰藏(きぞう)と呼んでいましたが、これらは今日に伝わっていません。周王朝(紀元前一〇五〇~二五六年)のときに、連山や帰蔵を体系化して作られたのが『易経』です。陰陽道の指南書として最高の権威をもち、『周易』として知られています。戦国時代(紀元前四〇三年に晋が韓・魏・趙の三つの国に分かれてから、紀元前二二一年の秦まで)の末に、孔子(紀元前五五一~四七九年)は儒教を創めました。孔子は陰陽道の陰陽の二気を取り入れ、地上の聖人と宇宙の天帝を対比させ、聖人の天帝の道を説き天道を地上に実現させようとしました。聖人は天道の霊感の体得者として呪術的に権威づけられます。そして、秦の始皇帝は封禅の儀を行って絶対者としての権威を誇示し、初めて皇帝と称しました。皇帝の皇は三帝である三皇からとり、帝は天帝からとり、天道の最高の神と地上の君主は同一であるとの思想を示したのです。 陰陽道は陰陽寮で教えられていた陰陽五行・天文道・暦道・方術の一つになります。万物に陰陽の二元論を立て、五行という五つの元素的概念を組み合わせて、すべての存在や現象を陰陽と組み合わせて解釈します。これを陰陽五行説といいます。また、天体を観測し暦をつくり、各種の器具を考案して占いをします。これが天文道・暦道・方術になります。つまり、もとは中国から請来した思想であり、律令体制下の陰陽寮に淵源があります。日本の律令制は七世紀後期(飛鳥時代後期)から一〇世紀頃まで実施され、そのうち、八世紀頃が最盛期とされています。専門分野の官庁として、大学寮・典薬寮に並び主要な養成機関でした。大学寮は文官の官吏を養成します。現在でいえば法・経・文の文化系大学にあたります。陰陽道の呼称は大学寮において経書(儒学)を教える明経(みょうぎょう)道と、律令を教える明法道などと並びます。「おんようどう」「いんようどう」ともいい、陰陽師を「ウラシ」とも言います(『国史大辞典』)。そして、陰陽寮と典薬寮は現在の理・医・薬の理科系大学にあたります。典薬寮は薬剤の製造や病気の治療を専門的に行います。医・針・按摩・呪禁・薬園の五つにわかれます。ここに呪禁博士・呪禁師・呪禁生が配属されています。(「職員令」)。この呪禁は道呪であることは「医疾令」から推察できます。『家伝』下に呪禁師として余仁軍と韓国連広足の名があります。この韓国連広足は役行者の弟子で、七三二年に典薬頭となっています。道教の方術や占い(『令集解』「道術符禁」)を行っており、古代日本の道士法の史料となっています。日本の陰陽寮は唐制の太史局と太卜署の二司を合併したものですが、この二つの寮は古代中国の自然哲学思想である陰陽五行説を起源として、日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系のことをいいます。神秘的・非科学的部門の方が採用されたのです。中国の民衆道教と日本の民間信仰が相乗されて、修験道と陰陽道を生み出したともいいます。(下出積与著『道教と日本人』一九五頁)。 〇陰陽五行説(易道)かつては、陰陽家の思想が日本に伝わったものが陰陽道である、と説明されてきました。しかし、中国では陰陽家の思想は儒教や道教などに吸収されて、日本の陰陽道に相当する独自の体系は発達しませんでした。陰陽説と五行説の発生は異なり、思想としても別のものでしたが、戦国末以後に融合して陰陽五行説となり、とくに、漢代の思想界に大きな影響を及ぼしました。陰陽五行説は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽説と、万物は木・火・土・金・水の五行から構成されるという五行思想を組み合わせて判断します。日月や十干十二支などの運行と自然界の陰陽と五行の変化を観察して、国家社会の瑞祥・災厄を判断し、人の行為行動の吉凶を占う実用的技術として日本で受容されました。そのため日時や方位などに関し禁忌を設け、その災厄を除くために祭祓作法を行います。中国の占術・天文学の知識を消化しながら、日本の道教的神道と仏教の影響を受け、日本特異の発展を遂げたものです。陰陽・五行思想を基礎として発展したのが、「八卦」「四神相応」「十干・十二支」です。陰陽五行説の実践として「四柱推命」「漢方医療」「鍼灸」「形意拳」「道教」として発展します。 「八卦」の根源は中国の伏羲氏(ふっき・ふくぎ。紀元前三三五〇年~紀元前三〇四〇年)のときに、黄河に現れた竜馬(りゅうめ)の背に記されていたといわれ、八卦の図はこれに模って現したといいます。竜馬とは白と黒の模様のある馬で、その模様を竜馬図・河図(かと)といい、易に直したのが先天八卦図です。そこで、伏羲氏が八卦や讖諱(未来の吉凶・禍福を予言すること。讖書・緯書は中国の前漢末から後漢にかけて流行しました)、呪いの創始者とされます。また、「洛書」は禹(文命。BC二〇七〇年頃)が治水の時に、洛水という川から現れた亀(神亀)の甲羅の模様から発見したとされ、これをもとに『書経』の中の「洪範九疇」が作られたといいます。『易経』繋辞上伝に「天垂象見吉凶聖人象之、河出圖 洛出書 聖人則之」とあります。この両者を「河図洛書」(図書)といいます。次代の神農氏は神農大帝と尊称され、医薬と農業を司る神とされています。東京都文京区湯島聖堂内の神農廟に祀られ、毎年一一月二三日に神農祭が行われています。また、『史記』三皇本紀には、易の八卦を重ねて六十四卦をつくったのも神農氏としています。 この易道のことを陰陽道といいます。陰陽は乾坤という意味をもっています。陰爻陽爻の二爻、乾坤の父母と六子の八卦―乾(けん)、兌(だ)、離(り)、震(しん)、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)―からなります。陰陽はつねに一対となって存在するとして、陰陽の両義は太極の両面をあらわすにすぎないということから、易を太極の一元論とする考え方もあります。(服部龍太郎著『易と呪術』七二頁)。また、筮竹を用いる占筮法もあります。(宮家準著『修験道儀礼の研究』二八三頁)。易は元来、儒教とは関係がなかったのですが、漢初ころに象伝の解釈がくわえられ、儒家の中庸説に接近し六経(りくけい。易経・詩経・書経・春秋・礼記・楽記または周礼)とよばれるようになりました。魏・蜀・呉をへて六朝のころに、老荘の思想が勢力をもち儒教に影響をあたえます。唐代に易学の代表として孔頴達(五七四~六四八年)があり、『五経正義』(六四〇年)の選者として有名です。孔頴達は孔子の三二世の孫で字を仲達といい、算学暦法に通じ国子祭酒に拝せられています。この時代は儒・仏・道の三教がならんでおり、のちに、朱子学、陽明学の展開があります。 このような、全ての事象を陰陽と五行の組み合わせとする見方は、中国古代の夏・殷(商)王朝時代に始まり周王朝時代にほぼ完成しました。これと密接な関連を持つ天文学・暦学(暦数)・易学時計(時刻)などは、五世紀から六世紀にかけての飛鳥時代に渡来したといいます。遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇七(五一二)年から、易博士が来日した欽明天皇一五(五五四)年の時点までに、中国大陸(後漢(東漢)・隋)や、朝鮮半島西域(高句麗・百済)を経由して伝来したといいます。仏教や儒教とともに陰陽五行説も、公に日本に伝わったとみるからです。天文・暦・易といった自然の観察に関わる学問が占術とあわさって、自然界の瑞祥や災厄を判断し、政治や社会の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられました。このような技術は漢文の読み書きができる渡来人の僧侶によって担われていました。推古天皇一〇(六〇二)年に百済僧の観勒が歴本や遁甲方術を伝え、これを三~四人の書生が学びました。聖徳太子は陰陽道の精通者でもありました。聖徳太子は冠位十二階(六〇三年一二月)や十七条憲法(六〇四年四月)の制定発布と国史編纂をします。このときに陰陽五行説讖緯説を政治理念に導入したといいます。大化改新(六四六年)に始めて大化の元号をたてます。これは、瑞兆と見られる現象により年号を改めるという、陰陽思想により祥瑞改元を実施したものです。第三八代天智天皇(在位六六一~六七一年)は、漏刻(ろうこく)を創設します。漏刻とは水を用いて時刻を計った水時計のことで、陰陽寮に属し時守(ときもり)を率いて時刻の計測と、その時刻を鐘鼓を打って知らせます。鏡餅は陽形の丸い形を陰数である二つ重ねにして陰陽を整えています。白村江の戦(六六三年)の後に、百済からの亡命者や、大陸留学者の帰還で多数の陰陽家が朝廷に仕えるようになります。このなかには法蔵・行心(新羅)・義法(新羅)・道顕(高麗)・信成(高麗)らの僧侶がいました。これらのなかで陰陽道に熟達した僧侶は陰陽官僚に抜擢され、同時に還俗させられています。(村山修一著『日本陰陽道史話』二二三頁)。専門職としての陰陽師を必要としたからでした。 第四〇代天武天皇(在位六七三~六八六年)は陰陽寮を置き占星台を作りました。やがて、技術的なことは朝廷に奉仕する必要から俗人が行うこととなり、それが、七世紀後半頃から陰陽師としての地位をもち、陰陽寮として中務省の一機関(役所)となります。文武天皇(在位六九七~七〇七年)の大宝二(七〇二)年に大宝律令が施行され陰陽寮の制度が設けられます。唐の制度をまねたもので、当初は陰陽博士が陰陽頭をかね、その下の陰陽助をふくめて四名くらいの小さな規模であったといいます。しかし、発言権が大きかったことは、奈良へ遷都し平城京を定めた詔勅からうかがえます。(「方今平城の地、四禽図に叶い」)。平城京の朱雀大路は易の南方であり皇居から南へ走る大通りです。「君子は南面す」というところから町作りをしたことがわかります。(服部龍太郎著『易と呪術』一二一頁)。このころの陰陽道に大津首(おおつのおびと。僧名は義法で新羅に留学。占術に勝れたため七一四年に還俗させられ大津意毘登と名のります。陰陽医術を伝授しました)・津守通(美作守)・王仲文(高句麗の僧東楼として来日し七〇一年に還俗します。天文博士として平安左京の王氏の祖となります)・大津大浦(~七七五年。安芸守)という人が知られています。陰陽道の祓いと神祇信仰の作法とに紛らわしいところがあり、奈良朝より平安期にかけて神官の儀礼作法を陰陽師が行うことが多くなり、神祇の祭祀全般に陰陽道的要素の混入が進みます。年に二度の大祓いはその一例です。七世紀後半から八世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化されます。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成、報時、卜筮などを行わせます。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられます。律令国家は原則として道教的信仰を厳しく排除しますが、一部の陰陽師や呪禁師の行う道教のみ許容されたのです。(『日本の古代』一四、和田萃稿、二七三頁)。陰陽寮は平安京では太政官の北、中務省の東にありました。このように、日本の陰陽道は陰陽五行説と付随した道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、また、土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響しあい独自の発展を遂げたのです。仏教界においては修験道のなかに摂取されていきました。 【陰陽師の展開】第四四代元正(げんしょう)天皇(在位七一五~七二四年)は、養老二(七一八)年の「養老令」(職員令)に、典薬寮に医師一〇人、医博士一人、薬園師二人などと共に、呪禁師二人、呪博士一人、呪禁生六人などを定員化しています。巫術・巫医を導入したことがわかります。孔子も『論語』に「神を祭れば神、在(いま)すが如くす」、「丘(われ)の禱(いの)るや久しいかな」とのべているように、鬼神の事を行ったことが記録されており、儒教と道教の関連性がみられます。しかし、第四五代聖武天皇(在位七二四~七四九年)は、天平元(七二九)年四月に呪禁禁止の勅令を発布しています。翌年(七三〇年)三月には陰陽三人、暦二人、天文二人の得業生を置きます。また、典薬寮は医療や薬園等の管理を行いますが、初期には呪術的色彩が強く天平四(七三二)年に、役小角の弟子である韓国広足が典薬頭に就任しています。そして、この典薬寮は第四九代光仁天皇(白壁王。在位七七〇~七八一年)の宝亀一一(七八〇)年の勅発布により、典薬寮の呪禁師をはじめとする関係職が削除されたといいます。天平九(七三七)年に、東海・東山・山陰・西海の四道に派遣する節度使が任命されたおり、道別に陰陽師一人が附されています。太宰府・陸奥国・陸奥の鎮守府、出羽国・武蔵国・下総国などには、陰陽師が常置されていました。物変や怖異などに備えて占験させていたのです。(金指正三著『星占い星祭り』六八頁)。これに先立ち宝亀三(七七二)年三月二日に光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年五月二七日には他戸親王も皇太子を廃されます。そして、翌四年一月二日に、山部親王(桓武天皇)が立太子されます。皇后の井上内親王は養老五(七二一年)九月一一日五歳の時、卜定の占いにより伊勢神宮の斎王に選ばれ、一一歳より三〇歳に至る一九年間斎宮に奉任しています。井上内親王の廃后と他戸親王廃太子事件のあった同年一一月一三日に、井上内親王の娘の酒人内親王が一九歳で伊勢の斎王に卜定されています。井上内親王を支援した左大臣藤原永手が宝亀二(七七一)年二月に没し、これにより藤原氏内部における藤原北家から、藤原式家への政権移動が始まります。井上内親王の光仁天皇呪詛事件は、山部親王の立太子をもくろむ藤原良継や、藤原百川ら藤原式家一派の陰謀とする説があります。井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(奈良県五條市)に幽閉され、同六(七七五)年に薨去しています。ここに注目されるのは、井上内親王が光仁天皇を呪詛した罪ということで、この呪詛は厭魅とされます。つまり、厭魅(えんび)・蠱毒(こどく)という呪禁が問題視されたことです。厭魅とは呪術により人を呪い殺すことで、蠱毒とは蠱道(こどう)・蠱術(こじゅつ)・巫蠱(ふこ)ともいい、虫や犬や猫などの動物を用いて呪ったり、毒を盛って人を害することをいいます。つまり、呪詛による暗躍が頻繁に起きていたということです。この禁止令により呪禁は地下に潜行し、それが表に出てくるのは鎌倉時代以後の修験道に包まれたものとなります。呪禁的な呪術・方術は脈々と続いていたことは事実であり、日本人の生活の密接なものとして存続します。しだいに陰陽道は日本独自の展開となったのです。(下出積与著『道教と日本人』一六五頁)。 平安時代(七九四~一一八五年)になりますと、律令制の崩壊が進み藤原北家が政権を握ります。これにより陰陽寮官僚は天皇や公家の私的生活に介入し、禁忌や物怪を強調して頻繁に卜占を行います。こうして、陰陽道は宮廷社会の因習的・形式的な権威づけに必要なものとなります。この陰陽道の推移を四期にわける見方があります。第一期は初頭の桓武天皇から第五三代淳和天皇(八三三年)まで。この期間は律令的な陰陽道が維持されます。祥瑞改元は陽成期で終わり災異改元に移行します。第二期は第五四代仁明天皇から第五九代宇多天皇(八九七年)まで。この期間は藤原氏(藤原良房は藤原北家の全盛の基礎を築く)の政権掌握にともない宮廷陰陽寮に変転します。陰陽師には春苑玉成(はるそののたまなり)・滋岳川人(しげおかのかわひと。~八七四年。安芸権介)・藤原並藤(ふじわらのなみふじ。七九二~八五三年。筑後守)・弓削是雄(ゆげのこれお。八八五年に陰陽頭になる)などがおり、とくに、滋岳川人は陰陽頭として日本流の陰陽道の基礎を築きました。第三期は醍醐朝より第七一代後三条朝(一〇七二年)までです。八世紀末からは密教の呪法とともに、新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受けます。このころに山伏(修験者)も陰陽師としての機能をもったとされています。(和歌森太郎著『修験道史研究』新版三八四頁)。たとえば、佐渡の赤泊村杉之浦修験にある「諸祭支度」は陰陽道系の祭りです。安倍清明作と仮託された中世の『莆簣(ほき)内伝』は、陰陽道における中心的なテキストといわれ、山伏の行った祭りや作法には、これに含まれたものが多数あるといいます。こうした中で平安時代末期から鎌倉時代初期になると、賀茂在憲・在宣父子や賀茂家栄、安倍泰親・安倍晴道・安倍広基などが活躍します。鎌倉で活躍した異色の陰陽師は文元です。『吾妻鏡』に鎌倉での陰陽師や、宿曜師の活動が記載されています。「承久の乱」後、珍誉・珍瑜が鎌倉に来て七曜供を勤めています。『吾妻鏡』によりますと、陰陽祭の種類はおよそ四八種あります。大まかに四部門に分かれます。 泰山府君祭――一一種一七九例――病気など身体に関しての祈願 天地災変祭――一九種一五二例――星宿信仰に関しての天変地異の祈願 土公祭――――一一種四六例―――建物の安全祈願 四角四堺祭――七種三四例――――祓いに関しての神祇の作法 泰山府君祭と天地災変祭が多く、個人の健康や社会不安のために利用されているのが目立ちます。天地災変祭は星宿の祭りで宿曜道の進出と影響が見えます。宿曜道の記録は北斗供・七曜供・当年星供など一二種三九例がみえ、併行して密教の護摩行法にも「尊星北斗」の護摩がたびたび営まれています。鎌倉時代の陰陽師である賀茂在言が編集したとみられる『文肝抄』では一四九種が挙げられています。小侍所の中でも陰陽師の存在があげられます。これは実朝暗殺の際に後鳥羽上皇の命によって、所職を奪われた実朝近侍の三名の陰陽師(安倍泰貞・安倍親職・安倍宣賢)を小侍所の職員としたのを嚆矢とし、将軍や幕府の為に陰陽道の儀式を行っています。三名は「承久の乱」においても鎌倉方勝利のために祈祷を行い、乱後に下向した安倍国道や惟宗文元とともに、鎌倉陰陽師(関東陰陽道)の基礎を築きます。陰陽師が御家人や武士と対等に扱われるほど勢力があったのです。(村山修一著『日本陰陽道史話』二六八頁)。また、関東陰陽師の中には少数ながら惟宗文元、惟宗文親など安倍、賀茂両氏以外の姓をもつ人物が存在します。しかし、惟宗氏は平安期には陰陽道の氏族として権勢を誇りましたが、その後は賀茂・安倍両氏との競合に遅れをとり、停滞していた氏族となります。 |
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