224.方術的部門(鎮宅・「急々如律令」・九字祈祷    高橋俊隆

方術的部門(鎮宅)

方術的部門は卜筮(ぼくぜい)・医術・祈祷・祭祀など、呪術的方法を総称したもので、お札やお祓いなどの儀式も含まれます。卜筮の「卜」は亀の甲や獣の骨を焼いてする占い、「筮」は筮竹(ぜいちく)を用いてする占いのことです。筮竹とは、易占において使われる五十本の竹ひごのようなもので。長さは三五㌢から五五㌢程度のものが多く、両手で天策と地策に分けるときに扇形に開きやすいよう、手元に当たる部分をやや細く削ったものもあります。算木とともに易者シンボルとして知られていて、竹でないものもすべて含めて筮(めどき)とよびます。方術的な修法は修験者が行う卜占・巫術(巫女が、精霊と交わった一種の没我の境地のなかで、悪霊・病魔の退散、吉凶の判断、予言などを行なうもの)・加持祈祷・符呪まじない(鬼字をつかう)・憑きもの落とし・邪神邪鬼邪霊の調伏法と類似しています。教学書となる「修験深秘行法符咒集」には、四四〇の呪法が収録され、神道・仏教のほかに道教の思想が入り道教を摂取していることがわかります。

道教の鎮地・鎮宅の信仰は『墨子』にみられ、『日本書紀』に「大石を埋めて以て宅を鎮む」とあります。また、伊勢神宮の地鎮祭に用いる「鉄の人形」は道教の人形信仰にあります。造営のたびに御神体の鎮座する床下に心御柱を奉建する儀礼は、修験道の柱源護摩と類似しています。(宮家準著『修験道儀礼の研究』七一二頁)。また、赤城山と蜈蚣(むかで)伝説は蛇よけに使うもので、群馬県の赤城山周辺に住む鉱山と渡来人の鉱山技術や、高崎地区と韓国の関係などにもみられます。(福永光司著『道教と古代日本』九四頁)。銅などの採掘や製錬技術は呉の人が伝えたといいます。葛洪の『抱朴子』登渉篇に「南人は山に入るに皆竹の管を以て活ける蜈蚣を盛る。・・蜈蚣は蛇有るの地を知れば、便ち管の中に動作く。・・これを見て能く気を以て禁ず」とあるように、古来よりこの蜈蚣の呪術信仰があることがわかります。天皇の御所の西北隅に大将軍が祀られ、その延長線上の愛宕山の山上に勝軍地蔵が祀られていました。(金蔵寺に安置)。陰陽師が行う邪気を払う呪法に禹歩(うほ)というものがあります。貴人が外出するときに呪文を唱えつつ千鳥足で歩く修法のことです。反閇(へんばい)ともいい、地霊を鎮め祓い清めるものです。修験道の「遷宮大事」にも禹歩の作法があり、大地を踏みしめることに意味があります。似た所作として羽黒修験秋峰の固打ち木、採灯護摩の火箸作法、山伏神楽や法印神楽の舞にも認められるといいます。(宮家準著『修験道と日本宗教』一二八頁)。修験道でも方位の吉凶を重視し、とくに鬼門は恐れられています。黄帝は鬼門除けとして『山海経』から、鬼門にいる神茶(しんじょ)と鬱累(うつりつ)の二人の神のうち、鬱累の像を桃の板に書いて門戸の上に立てさせ悪鬼を防がせたといいます。これが、桃版の制の起こりとあります。このことから、のちに鬼子母尊神の画像を桃の板に書いて、鬼門のところに張り鬼門除けをしたといいます。(宮家準著『修験道儀礼の研究』二六〇頁)。桃は中国・朝鮮・日本で避邪の呪禁木とされ、「闘桃梗」というのは桃木人形を戦わす傀儡師の呪芸です。昭和五四年一〇月に太宰府市の向佐野の宮ノ本遺跡から、鉛製の買地券が発見されました。八世紀中頃以降の火葬墓と推定されています。この買地券は鉛板に墨書したもので、長さ三五、二㌢、幅九、五㌢、厚さ〇、二㌢です。表面(文字面)を南に向け、垂直に立った状態で出土し、小治田朝臣安萬侶(おはりだのやすまろ)の墓誌の出土状況と似ています。これにより、文政年間に発見された二面の塼(せん)が、天平宝字七(七六三)年の矢田部益足の買地券であることが判明されました。(『日本の古代』一四、和田萃稿、三〇頁)。

また、皇極天皇元年七月に、旱魃のため村々では祝部(はふり)の教をうけて、牛馬を犠牲(生け贄)にして神を祭ったことが書かれています。これは、降雨祈願に牛馬を殺して神に祈る漢神信仰という習俗があったからです。このときの霊験はありませんでしたが、『易経』に「乾を馬とし坤を牛と為す」とあり、中国では牛馬の犠牲は天地の神、陰陽交会の儀によって雨の恵みを求める意味がありました。また、中国では牛豚羊、日本では牛馬、とりわけ馬を殺して生け贄としていました。しかし、仏教の影響や牛馬の必要性から、代用とされたのが絵馬になります。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』二五頁)。天平一三年にも牛馬を殺すことを禁じた法令が出ています。天馬の思想は黄河の流域に国家をつくった権力者の中から生まれ、土牛の思想は中南部の農民社会を中心として形成され、これらが交錯して陰陽道に取り入れられました。日本に伝わったときは、雑密の呪術仏教と結びついて伝わりました。『延喜式』の文武天皇の慶雲三(七〇六)年に、天下に疫病が流行し、百姓が多く死んだので、初めて土牛を立てて大祓をしたとあります。中国では四方の門に土牛を立て邪気を払ったといわれ、立春の農作業始めに牛を立てたのに淵源するといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』七四頁)。

レイライン(ley line)という仮説があります。これは古代の遺跡には意図的に、直線上に並ぶよう建造されたという説です。たとえば藤原京・平城京・平安京も直線上に並んでいます。その線上に熊野本宮があり、藤原京と淡路島の伊弉諾神宮と伊勢内宮が同一線上にあります。

宮名                桁行        梁間

藤原宮               九間(約四五㍍)  四間(約二〇㍍)

平城宮(推定第一次大極殿)     九間(約四五㍍)  四間(約二一㍍)

(推定第二次大極殿下層建物) 七間(約三一㍍)  四間(約一八㍍)

(推定第二次大極殿)     九間(約三八㍍)  四間(約一六㍍)

恭仁宮               九間(約四五㍍)  四間(約二一㍍)

後期難波宮             九間(約三五㍍)  四間(約一五㍍)

長岡宮               九間(約三六㍍)  四間(約一四㍍)

平安宮               一一間       四間      

また、伊吹山・元伊勢をつなぐと近畿地方に五芒星の図形、正五角形ができます。伊吹山は標高一三七七㍍滋賀県最高峰の山で、古くから霊峰とされています。『古事記』では「伊服阜能山」とあります。和銅五(七一二)年 の景行記で、伊吹山にまつわる日本武尊の伝説が伝えられています。『日本書紀』には「日本武尊、更尾張に還りまして、即ち尾張氏の女宮簀媛を娶りて、淹しく留りて月を踰ぬ。是に近江の五十葺(いぶき)山に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解きて宮簀媛が家に置きて従に行でます。膽吹山に至るに、山の神、大蛇に化りて道に当れり」と書かれているように、日本武尊が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとしますが、逆に死を招いたとされています。

方術的部門(呪符・「急々如律令」)

符の効能については『抱朴子』に書かれています。前述しましたように、「急々如律令」の文は後漢時代に登場した決まり文句です。一種の命令文でそれが出土木簡の呪符に見られるように、急に口偏をつけるようになりました。これは、日本古代の漢字受容の初期にあっては、文字の呪術性や不思議さを表現すると、口から発する音と漢字が結ばれることに不思議さを感じて、口偏の文字が用いられたと推測しています。(坂出祥伸著『日本と道教文化』一九〇頁)。現代も言霊に作動力があることは認識されています。漢代においては公文書の終わりに、律令に明定されていない事項を命令する場合には「如詔書」と書き、律令にすでに規定のあるものの事項の命令には「如律令」と書きました。これを踏襲して命令的な「如律令」の上に、「母忽」(ゆるがせにするなかれ)と厳命の意味の言葉が重なり、それがいっそう厳しく「急急」という表現に変わったといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』五六頁)。「急々如律令」を書いた呪符は、招福・千客万来・商売繁盛のおまじないとして貼られます。呪符・霊符を載せた『鎮宅霊符神』(金華山人著)に、呪符の上半分の符丁(文字や図形)は朱書するのが正式で、『抱朴子』には丹朱で書くとあります。『拾芥抄』に「休息万命、急々如律令」とあるのは、クシャミが凶事の予兆とする観念があり、それを除去するために唱えたといい、このことから中世庶民のまじない呪句となっていたことがわかります。(『日本の古代』別巻、狩野久稿、三三八頁)。霊符と「急々如律令」が合体した呪符は、平安時代の浜松市の伊場遺跡から発見されています。四方拜のとき天皇は、「急々如律令」の呪文を唱え、賊寇・毒魔・危厄・万病などの災いを逃れるなどの願をします。鎌倉時代になりますと悪鬼退散・商売繁盛など多用に使われています。奈良時代の宮中には典薬寮や内薬司という、医療と医薬品を扱う役所が置かれていました。典薬寮の初期の段階では呪術的色彩も強く、医師針師按摩師呪禁師で構成されていました。七三二年には修験道の開祖役小角の弟子である韓国広足が典薬頭に就任しています。また、医博士針博士按摩博士呪禁博士薬園師がおり、その下には学生である医得業生が学んでいます。呪禁師は道教系の呪い師で、呪禁師が治療のために符を使っています。同じ伊場遺跡から斎串(いぐし)と呼ばれる先を尖らせた串が出土しており、病気平癒に使われた呪符といわれています。(『日本の古代』9、金子裕之稿、四〇〇頁)。奈良時代には銅製品は東宮以上、木製品は親王以下庶民という階級差があったといわれます。

また、人形による治療法があります。この医療には呪術として人形に呪符文を書き、呪術による病気平癒を祈願しています。「祓え」に用いられた人形に一撫一吻(ひとなでひとふき)して祈願します。人形で体を撫で、これに息を吹きかけて「ツミ」を移すことにより、身も心も清浄になるとされ、盛んに奈良の都では行われていたといいます。平城京の内裏の東に東大溝とよぶ排水路があり、一九八四年一月に八世紀前半の地層から、長さ一一センチほどの小形の木製人形が出土しました。これは左目の眼病平癒のものでした。人形はもともと中国の祭祀具で、病気を悪霊の仕業と捉え、これを人間の形代である人形に移し悪霊を追い出すために使います。この人形の片目の部分に異様な墨書がされていました。患部に傷をつけることもあります。これらは藤原宮跡の内裏北方の溝からも木簡とともに出土しています。詛いの人形とすれば依代・形代であり、『延喜式』にある「蠱物」(まじもの)になります。大膳職寮の傍らの井戸の底から発見された人形は、長さ一五、二㌢、胴幅二、三㌢、厚さ〇、四㌢のもので、両眼と胸部中央に角形の木釘が打ち込まれています。針や釘を突き立てることが、豆腐やこんにゃく、餅などに刺す針供養に繋がるといいます。平城京では「祓え」の道具として人形のほかに、人面土器・土製の馬形、小さな竈などがあります。この「祓え」は六月と一二月の晦日に行われた「大祓」と結びつきます。国家的には天災・流行病・戦乱などを未然に防ぎ、天皇に災いが及ばないように祈願するものです。三〇数基の井戸のうち最大のものは一辺二㍍ほどあり、周囲を玉石で敷き詰め瓦葺きの覆屋を拵えます。これは、律令政府が中国から取り入れた方法であったといいます。鎌倉期になりますと貴人の棺に、近親者が人形を入れています。これが、友引人形の発生といいます。また、鎌倉幕府も旱のときは「七瀬の祓」といって、人形を七カ所の川辺から流しています。(『吾妻鏡』貞応三年六月六日の条)。また、授子信仰に「預かり子」の形代としても使われました。中国では「借子」(チェッシ)、沖縄周辺では「ミシクーガ」(見せ卵)といいます。ほかに、タネゴ・セゲゴ・イドミゴ・カカリゴなどと呼び、これを類感呪術といいます。(久松保夫著『人形の歴史』一六二頁)。形代呪術は多岐にわたって修法されています。

日蓮聖人の『光日房御書』に「急急」に近い表現がみられます。佐渡流罪の在島中に天照大神・正八幡神などの諸天善神にたいし、法華経の行者を守護すると誓った約束を直ちに実行すべきである、という諌言的な意味として用いています。

「今日蓮を守護せずして捨給ならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか、十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失は、提婆達多が大妄語にもこへ、瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされたり。設ひ大梵天として色界頂に居し、千眼天といはれて須弥頂におはすとも、日蓮をすて給ならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、無間大城にはいづるごおはせじ。此罪をそろしくをぼせば、いそぎいそぎ国にしるしをいだし給、本国へかへし給へと、高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば、九月の十二日に御勘気、十一月に謀反のものいできたり」(一一五四頁)

と、釈尊の仏前にて起請したことを破り、法華経の行者を捨ててもよいのかとのべ、釈尊との約束を今すぐに守るようにとの一種の命令的な口調となっています。「急々如祈請」と表現できると思います。

方術的部門(九字)

大正初期に中野達慧氏は『修験深秘行法符呪集』を著し、修験道の呪術などを収録しました。このなかには「庚申大事」「九字本地」「摩利支天大事」「呪詛返大事」「火伏大事」「急急大事」などの、陰陽道に関したものが多く含まれています。『修験深秘行法符呪集』の本編は主に当山派修験の修法符呪を収録したもので、巻一~五巻は諸尊の供養・祭祀に関わる作法と行法をのべます。諸尊については「不動隠形之大事」「不動秘印事」「弁財天大事」などに見られるように、不動明王・弁財天・摩利支天など霊力を持つとされる諸尊に関する行法が多く、「新仏開眼作法」「神楽大事」「神祇講式法」などのような、神道・陰陽道・道教などと関連した修法もあります。六巻以降の後半部には符呪法を収録しています。符呪法とは霊符によって、悪霊・邪神・邪鬼類を除去したり、それらから身を守るための護身の修法をいいます。全十巻に三七六種、総計四四〇法にまとめています。『続集』は主に羽黒派天台修験に伝わる修法・符呪のうち、本編を補足する四八法を収録しています。日蓮宗の祈祷に関連して注目されるのは、「九字本地」「九字本位」「九字大事」「九字印大事」(二十近くの九字の修法が収録されています)「弁才天大事」「庚申待之大事」「鳥居五色巻付事」「陳拂法兵蕃大事」「臨兵闘者皆陣列在前の九字」「四竪五横の九字」「鬼字」、『続集』の「兵法九字」「法華大事」などです。

「臨兵闘者皆陣列(烈)在前」の文は修験道の代表的な呪文ですが、元来は道教の呪文です。四世紀の初めに中国で成立した道教の『抱朴子』にみられます。忍者や山伏の呪文と違うのは、最後が「臨兵闘者皆陣列前行」(「前・行(在・前)」)で終わるところです。翻訳すると「敵の刃物にひるまず戦う勇士たちが前列に陣どっている」(本田済『抱朴子』)ということになります。この呪文を「六甲秘呪」といいます。また、九文字の数の呪文であることから「九字」といいます。陰陽道では邪鬼は陰気に頼るものとされ、九字の九は陽の最高の満ち数で、それによって陰の邪悪なものを降伏させるとします。九は陽の満数であるから陰を滅すると信じられたのです。それが仏教と結合して「臨兵闘者皆陳列在前」の九字法、四縦五横(四竪五横)の符字、縦横法として、密教的な秘術として伝えられました。刀印を結んで「九字を切る」というのはここからきています。九字は行者自身の煩悩を切断するという護身的要素と、一切の魔障のものを退治する調伏的な要素をもちます。本来この呪文は山における災いを防ぐための呪文といいます。「九字」は修験道が道教から大きな影響を受けた証拠となります。どのようにするかといいますと、まず内縛という印を結んで臨、兵(外縛)、闘(剣印)、者(索印)、皆(内獅子印)、陣(外獅子印)、烈(日輪印)、在(宝瓶印)、前(隠行印)と唱えます。掌中に息を吹き込み刀印で空中に四縦五横を書きます。この書くことを切るといいます。これに行を加えて唱えるのが十字の法です。『修験深秘行法符呪集』には二〇ほどの九字の例が記載されており、『抱朴子』に載せている四縦五横の書き方と、修験者が行う九字の修法は違います。筒封じの法も九字の法を修します。これは、仏教の経典や仏菩薩・諸天善神の威力に吸収されて、より高度に発展したからです。剣は鬼害・悪魔を払う法具であり、のちに、護身法と九字は修験道のもっとも基本的な修行として、最初に修得するものとなります。(宮家準著『修験道儀礼の研究』八八頁)。また、道教の六甲秘術を兵法者が用いていたといいます。忍者が術を行う前に九字を切る、九字の印を結ぶなどといいます。忍者が「九字」を使うのは山伏に習ったからといい、もともと山の危険を回避する呪文だったのが、追っ手から身を隠す術として変化したといわれています。修験者は山岳斗藪を極める者ですから、目的地には普通の道路を歩かず山の尾根を通り最短距離を歩きます。そのため、情報を収集し伝えることに適しました。知識においても薬や火薬、武具を作ることにも精通していました。忍者のイメージには役行者を祖とする修験道の影響をみることができます。日蓮聖人は『四条金吾殿御返事』に、

「臨兵闘者皆陳列在前の文も法華経より出でたり。若説俗間経書 治世語言 資生業等 皆順正法とは是也」(一六八五頁)

とのべ、九字法による祈祷を法華経の教えのなかに位置づけています。のちに、修法師は法華経の経文を九字にあて木剣にて払い九字、留め九字、五段の九字など数十におよぶ相伝ができます。この四横五縦の五字四字の組み合わせは異説があり多種にわたります。(『日蓮宗修法実践講座』六八頁)。中世になると秘伝の切紙が相伝され、この文字に仏尊などに当てはめて祈祷するようになります。たとえば、星宿に当てはめますと、

星  臨――辰・申年本命。巨文星  兵――丑・亥年本命。存星  闘――寅・戌年本命。

文曲星  者――卯・酉年本命。廉貞星  皆――辰・申年本命。武曲星  陣――巳・未年本命。

破軍星  烈――午年本命。   月天  在。        日天   前

これを南方の天に向かって九遍誦すことにより、その年の星の厄難を免れるとします。(村山修一著『日本陰陽道史話』二一二頁)。

また、四横五縦(縦五本横四本)・四竪五横はドーマンともいいます。三重県の志摩地方の海女たちが身につける魔除けの呪文です。この海女たちは伊勢神宮の別宮、伊蔵宮を深く信仰しています。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』二二二頁)。四横五縦はシュメール語の「キ・ケ」で、日本古語の居世(こせ)・許曽(こそ)、すなわち、社(こそ)の人・部族・集団・都市を表すといいます。この二つの組み合わせをしている伊勢人は自らを称してシュメール語のソカ、ソ族、神の子、神の族人であることを象形文字で誇示しているといいます。五芒星のことをセーマンといいます。セーマンは星形紋ともいいます。海女はこの印を黒糸で縫った手ぬぐいを被り、鮑起しのノミにも刻んだといいます。これは魔除け海難避けの呪術です。五芒星の形は牛族・ウルカ・ソカの象形図と、メソポタミアの土器を作り始めたウルク「牛族」に見られます。三角形(△)の連続模様を刻みつけます。これは袋・壺・入れ物を意味し、壺・甕の象形文字は▽を使います。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二一五頁)。星形は一筆書きで元の位置に戻ることから、始めも終わりもないように魔物の入り込む余地がないとします。海女達の口伝として、星形は一筆書きで元の場所に戻ることから、無事に戻れる祈りともいわれています。四竪五横のドーマンの格子は、多くの目で魔物を見張るといわれます。このセーマンは安倍晴明、ドーマンは蘆屋道満の名に由来するともいわれ、安倍清明が作った文様とも言われています。伊勢志摩の神島地方の海女は、この両方をあわせて「セーメー」と呼称しています。清明神社には天保四年に閑院宮家から寄進された吹き散らしがあり、菊の紋の回りには五芒星のマークがついています。どうように星のマークを用いた祭鉾があります。(吉田光邦著『星の宗教』図版四二~四四)。安倍清明の星形の印は安倍晴明判紋・晴明桔梗印と呼ばれ、五芒星と同じ形をしています。鳥居には金色の五星紋が設えてあります。陰陽道と関係していることがわかるのは、格子状の印が九字紋と同じ形状であることです。九字紋は横五本縦四本の格子形(九字護身法によってできる図形)をしています。米沢市の笹野観音の頭頂に見られる五角星章(ペンタグラム)は、欧州では魔法のシンボルで、当地ではゴンゲンノハン(権現の判)・オニノマス(鬼の枡)と呼び、入り口のない印として魔除け呪符とされます。かつて、陸前の桶谷箆岳薬師の蘇民将来符、女川大六天山、三国神社、羽前立谷沢の賽神、伊勢の蘇民札の裏面に、「急々如律令」とともに印されていたといいます。(久松保夫著『人形の歴史』一〇〇頁)。『簠簋内伝』(ほきないでん)は、安倍晴明が編纂したと伝える占術書ですが、実際は晴明死後(成立年代は諸説ある)に作られたものです。正式名称は「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんおんみょうかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」といい、「金烏玉兎集」とも略称されます。ちなみに「簠(竹甫皿)簋(竹艮皿)」とは、古代中国で用いられた祭器の名称です。後年には読みやすい「簠簋抄」が出版されます。伝承によれば、この書は天竺文殊菩薩が作り、その後、伝説上の晴明の師である伯道上人に伝えられ、晴明に伝えられたといいます。別説には阿倍仲麻呂に伝えられたが、仲麻呂が帰国できずに唐で死去したため、吉備真備によって日本に持ち込まれ、仲麻呂の子孫とされる晴明に伝承されたともいいます。(宮家準著『修験道と日本宗教』一五五頁)。土御門神道も星象を用いています。提灯・冠の纓(えい)に星象を施しています。(吉田光邦著『星の宗教』一九七頁)。さらに、外宮から内宮にいたる御幸道路の参拝路の両側には御神燈が並び、灯籠の笠の直ぐ下の首の部分の石柱に五芒星の図形が刻まれています。正月の門符に注連飾りをします。この門符に「蘇民将来子孫之門」と筆太に墨書され、この裏面に五芒星の図形、五横四縦の図形が書かれています。そして、「急々如律令」の文も書きます。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二一二頁)。

また、日蓮宗の護符は荒行堂において作られています。吉日の早朝に聞神の方角から水を汲み、読経水行をして紅か墨で要文を紙に書き護符とします。これをこよりとして細かく切って服すことから秘妙符ともいいます。これらも修験道にみられる呪符に淵源すると思われます。道教においては鬼・山・日・月・「急々如律令」などの文字を書きます。「急々如律令」の呪文は、七難を起こすとされる鬼神を降伏する意味もあります。わかりやすく言えば、総合的に除災得幸を祈願する呪文です。また、邪鬼払い・封じ祈祷・幣束・星祭り・厄払い・妙見信仰などの修法や信仰に同じ思想をみることができます。このような修法に関しての相伝書が『祈祷修法顕妙抄』で、ほかに、憲師・学師・運師などの『御伝書』に五段加持・御符・幣束などの相承がなされています。(宮崎英修著『日蓮宗の祈祷法』二三六頁)。鬼字の使用については、飯綱修験の秘法として松代藩士に伝わった「飯綱大明神代々相伝」があります。そこには多種の鬼字による秘法などが書かれています。(小林計一郎稿「飯綱修験の変遷」『冨士・御嶽と中部霊山』所収三七一頁)。

このように、修験道が道教を摂取したのは、おもに神仙思想の方術・呪術的な面といえましょう。陰陽道においては道教の讖緯説(予言的な学説)・陰陽五行説・方術・医術などを必要に応じて取り入れました。これに対し、修験道は仙人のように山林に入り、験力を獲得するための入山術と、験力を証明するための呪法・呪符を取り入れたのです。これらの思想は中世いこう仏教・神道・陰陽道・修験道・民間信仰などに習合した形で埋没します。(下田積興著『道教と日本人』)。この信仰は陰陽道や修験道の信仰にとりいれられたり、日本の習俗や民間の信仰に埋没しながら受容されてきたのです。(『日本仏教史辞典』七五一頁)。これらの神仙思想は、これからのべる役行者にみられるように、しだいに、呪術信仰の中に受容されていったのです。この基盤を仏教経典に持ち、そのなかでも密教的な要素が高められたのが修験道であり、加持祈祷として発展したのです。しかし、仏教が道教を吸収する下地はすでに見られます。『日本書紀』の六〇二年一〇月条に「百済の僧勧勒来けり。よりて暦の本および天文地理の書、あわせて遁甲方術の書」と記されているからです。「遁甲方術の書」とは遁術のことですから、忍術の書であるといわれています。方術は道士が操る神仙術ですから、遁甲も道士が操ったことになります。日本にもたらしたのが百済の僧であることから、これらの遁術や方(兵)術は仏教や道教などと共に日本に入ってきました。そして、異能というべき兵術は寺で伝授されたことから、仏教と並んで遁甲方術が学ばれたことになります。鎮護国家の祈祷のなかに摂取されたのです。